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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.06
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カテゴリ:夏目漱石

 
 漱石の家では、果物をよく食べていたようです。長女の筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』で「私たちのおやつは、だいたい、オチや野間に命名の木の皿が揃えてありまして、その中におセンベ5枚とか、ミカン2つとか、焼芋3つなどという程度のものしか入ってなかった」と書いています。
 
 イギリス時代にも明治34年3月4日の日記には「帰りて午飯を喫す。スープ一皿、cold meat一皿、プッジング一皿、蜜柑一つ、林檎一つ」と書かれています。イギリスですから、オレンジでしょうが、漱石は蜜柑と書いています。ただし、イギリスにも「温州みかん」はありました。文久3(1863)年に、イギリスと薩摩藩が戦った生麦事件が解決し、薩英同盟が結ばれますが、そのとき、薩摩藩から英国に友好の印として温州みかんの苗が贈られました。そのため、「温州みかん」は「サツマ」と呼ばれていたのです。でも、もし「温州みかん」が食卓に出たら、多分日記に書いているでしょうから、普通のオレンジだったのでしょう。
 

 
 明治45(1912)年2月7日、広島の金子健二宛に「御送の蜜柑たくさん到着。難有御礼申上候」と、お礼のハガキを送っています。金子 健二は、新潟出身の英文学者で、明治35(1905)年に東京帝国大学英文科に入学しています。明治36年に漱石はイギリスから帰国して、4月から東京帝国大学の英語教師になっ李ます。金子は、漱石の授業を3年間聞いています。
 講師時代の有名なエピソードは、金子が記したものです。
 学生に「君、手を出したまえ」と漱石はいいますが、学生はそのままにしています。講義終了後、その学生の近くに行くと、上級生が「小学生時代に大きかけがをして、片手を失った」と説明します。すると、漱石は黙って教室を出たというのです。この話には尾鰭がついて、「僕もない頭を絞って授業してるんだから、君もない腕を出したまえ」と漱石がいったともいわれています。
 金子は、のちに米カリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後には広島高等師範学校教授となり、続いてヨーロッパや東アジア、インドに遊学や仕事で赴いています。著書に『人間漱石』があります。
 
 みかんは、垂仁天皇の九十年の春、田道間守(たじまのもり)は勅命によって常世の国におもむき、非時香果(ときじくのかくのこのみ)を求めて帰朝します。すでに天皇は崩された後だったので、田道間守は大いに嘆きかなしみ、香果を御陵に捧げて泣き、ついにそのまま息絶えてしまったといいます。亡骸となった場所から生え出た樹に、田道間守から「たじまはな」といい、それが転訛して「タチバナ」という名になりました。田道間守は、菓子の守護神として中島神社に祀られています。
 
 漱石の小説には蜜柑がよく登場しています。『坊っちゃん』では、下宿の庭になっているみかん、『三四郎』では渇きを潤す果物として、『草枕』では、那古井温泉の緑の中に色づく蜜柑を配した情景描写で登場します。
 漱石は、みかんで渇きを癒そうとしているようです。もちろん、喉とともに心の渇きも潤いのあるものにするために……。
 
 庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の蜜柑があって、塀のそとから、目標になるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の生なっているところはすこぶる珍らしいものだ。あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗だろう。今でももう半分色の変ったのがある。婆さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、旨い蜜柑だそうだ。今に熟れたら、たんと召し上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、充分じゅうぶん食えるだろう。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
 おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。(坊っちゃん 10)
 
 与次郎がまた少しほらを吹いた。悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。三四郎は人がいいから、気の毒でならない。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は風呂敷包みの中から、蜜柑の籠を出した。
「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。どっちのお見舞みやげだかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。
「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」
「何か特別に忙しいことができたのですか」
「ええ。できたの」と言った。大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。今でもものうげに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。
「蜜柑をむいてあげましょうか」
 女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香かにほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。
「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞よ」
「もうたくさん」
 女は袂から白いハンケチを出して手をふいた。(三四郎 12)
 
 門を出て、左へ切れると、すぐ岨道つづきの、爪上りになる。鶯が所々ところどころで鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹きの上で妙な節の唄をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃の音がする。何だと聞いたら、猟師が鴨をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。(草枕 12)





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最終更新日  2018.11.05 19:49:36
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