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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.12
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カテゴリ:夏目漱石
 松山中学時代、漱石は短冊をよくしたためていたといいます。高浜虚子の『漱石氏と私』には「その頃漱石氏は頻しきりに短冊に句を書くことを試みていた。こう考えているうちに、だんだん記憶がはっきりして来るように覚えるのであるが、確か漱石氏は高浜という松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送って来てくれて、そこで船の来るのを待つ間、「君も書いて見給え。」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ短冊を書いたりなどしたように思う。それがこの春の分袂の時であったかと思う」と書いています。当時の漱石は、俳人としての一歩を歩み始めた頃で、短冊に自分の作品を残しておきたいと考えたのでしょう。
 

 
 しかし、小説家として名の売れて来た漱石は、各地で講演を依頼され、色紙・短冊への揮毫責めにあいます。そのためか、漱石は知らない人に対しての記号はできる限り断るようになりました。
 ただ、一つ例外があります。それが播磨(兵庫県)坂越の岩崎太郎次という人物です。彼は、揮毫願いの手紙を漱石に頻繁に送り、根負けした形で漱石が短冊を送ると、お茶と小包を送って来ました。漱石は、それを本棚の隅にほおっておいたので、そのことをすっかり忘れてしまっていました。
 と、その太郎次から、しきりに記号催促の手紙が来ます。漱石は、精神の変な男だろうとそのままにしておきましたが、書斎の整理をしていたら、太郎次の送ってきた画が出てきました。漱石は恐縮して、太郎次に丁寧な手紙を送って断り、画を返したのですが、太郎次は納得しません。一週間か二週間の割合でハガキが来ます。しまいにはお茶を返せ、その代金を返せとまでいってきました。加えて、ハガキではなく、封書が来るのですが、料金不足で漱石が不足分を穴埋めしなければなりません。
 漱石は根負けして、賛を送ったのですが、それについて短冊が汚れたとか、折れたとか書き直しを望んで来ました。漱石は『硝子戸の中』に「私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである」と書いていますが、滅多なことをするものではないと骨身に染みたことでしょう。
 
 拝啓。この間中より富士登山の画につき度々御申聞相成候処、一向覚無之故そのままに致し置候処、右小包今日に至り発見致しはからず絹地の画を拝見致し候。これは右着の折多忙にて、それなりになりたる後忘れて今日に至り候も、何とも無申訳候。早速小包にて御返し候間、御落掌被下度候。名古屋より参り候茶も右小包中の貴翰に御通知ありしを開封せざりしため、今日〔迄〕御礼も差し出さざる次第。これまたあしからず御容赦願上候。早々。(大正2年12月30日 岩崎太郎次宛て書簡)
 
 私に短冊を書けの、詩を書けのといって来る人がある。そうしてその短冊やら絖(ぬめ)やらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、拙い字とは思いながら、先方のいうなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。
 私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻かくために生れてきたものだとさえ考えることもあるのだから、変な字を他(ひと)に送ってやるくらいの所作は、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんな真似のしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらの手数さえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。
 そのうちで一番私を不愉快にしたのは播州の坂越にいる岩崎という人であった。この人は数年前よく端書で私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、その都度向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。その後のことであるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へ放り出だしておいたら、下女が掃除をする時、つい書物と書物の間へ挟み込んで、まず体よくしまい失した姿にしてしまった。
 この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛てで届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画を返してくれといってきた。彼からそんなものを貰った覚えのない私は、打ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方気違だろう」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わないことにした。
 それから二三カ月経った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中に坐っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、眼のあたり見て驚ろいた。さっそく封を解いて中を検べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚した。
 包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという文句が書いてあった。私はいよいよ驚ろいた。
 しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥か懸け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。(硝子戸の中 12)
 
 私はこれで一段落ついたものと思って、例の坂越の男の事を、それぎり念頭に置かなかった。するとその男がまた短冊を封じて寄こした。そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。私はそのうち書こうといってやった。しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。けれども執濃いこの男の方ではけっしてそのままに済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。その催促は一週に一遍か、二週に一遍の割できっと来た。それが必ず端書に限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓失敬申し候えども」とあるにきまっていた。私はその人の端書を見るのがだんだん不愉快になって来た。
 同時に向うの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改たまった。私は返すことはたやすいが、その手数が面倒だから、東京まで取りに来れば返してやるといってやりたくなった。けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格に関かかわるような気がしてあえてし切れなかった。返事を受け取らない先方はなおのこと催促をした。茶を返さないならそれでも好いから、金一円をその代価として送って寄こせというのである。私の感情はこの男に対してしだいに荒さんで来た。しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊は失してしまった、以来端書を寄こすことはいっさい無用であると書いてやった。そうして心のうちで、非常に苦々しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨拶をしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情けなかったからである。
 しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊は失なくしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候えどもという文句が規則通り繰り返されていた。
 その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだといって来た。それからこといやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうといって来た。
 しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使う極めて安い鼠色のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼らないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずに投函していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。
 ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、汚れたとかいって、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」という依頼状が七八日頃に届いた。
 私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。(硝子戸の中 13)





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最終更新日  2018.08.12 00:10:06
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