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カテゴリ:正岡子規
岡麓の『正岡子規』「正岡先生と食物(つづき)」には、子規の好きだった菓子のエピソードが書いてあります。 何をたべてもまずい物なしの健啖で、日々の食物も気にもしなかったが、いく度かは必ずつづけて、その味をあじわった。本所の三橋堂の菓子は茶人なかまで評判がよかったので、二三度みやげに貰った。それが面白い。きょうのみやげをあけないか。うまそうなのが入れてある。折を出させて、早速自分がたべてみて、うまいうまい、といったりした。本所では越後やが一等の菓子やだが注文しておかんと買えないが、さらに上等だというと、よし今度買って来るとて二度足をはこんで持って来て、まず風味してみて、うんこれはいいとほめもした。(岡麓 正岡子規) 越後屋については、漱石の項で説明しました。三橋堂について小島政二郎が『食いしん坊』で詳しく書いています。「三橋堂の菓子は、深川の船橋屋の流れを組むと聞いた。なんでも船橋屋の二男坊が向こう両国元町に新店を持った時、店から橋が三つ見えたところから、三橋堂という屋号を思いついたという話だ。三つの橋というのは、両国橋、一つ目の橋、柳橋。店の名前をつけるにしても、今の人と違ってどこか無造作で俳諧的なところが面白い、今頃の季節だと、ここの水羊羹、越後屋のにはかなわないが、しかし、うまい。日本橋の音喜久へ行くと、ここの水羊羹の二タ皿掛けの大きいのを出してくれたものだ」とあります。 ※漱石と越後屋はこちら 現在の三はし堂は、日本橋中洲にあります。もともとは江戸深川佐賀町の尾張藩御用菓子舗で、練羊羹で知られる船橋屋の分れでした。本所から日本橋浜町に移りましたが閉店し、平成10(1998)年に小堀製餡所の和菓子部として、日本橋中洲に再開したのです。人気の菓子は、厳選された小豆をふんだんに使った「焼ききんつば」で、すぐに売り切れてしまうそうです。 この文の前に「茶懐石のまねをさせて出すと、おれも覚えておくと鉛筆を出して書き付けたものだった。とうとう山谷の八百善に人をさそって行って来て大自慢をした。私につれて行けといわれていたが、若主人と私は手習の同門で、どうもお客に行きにくかったからだった。それが、確か根岸での料理人を読んで懐石の一とおりを出した後だったとおぼえている」とあります。 子規は、伊藤左千夫、香取秀真、岡麓らの計らいで、会席料理のもてなしを受けたのが明治34(1901)年2月28日、子規の家で、「岡野」の懐石料理を食べたのが、この年の10月27日のことですから、この年のことでしょう。『墨汁一滴』4月20日に書いている「ただ小生唯一の療養法は『うまい物を喰う』に有之候。この『うまい物』というは小生多年の経験と一時の情況とに因りて定まるものにて他人の容喙を許さず候。珍しき者は何にてもうまけれど刺身は毎日くうてもうまく候。くだもの、菓子、茶など不消化にてもうまく候。朝飯は喰はず昼飯はうまく候。夕飯は熱が低ければうまく、熱が高くても大概喰い申候」と書いていることを実践したのかもしれません。 ※会席料理はこちら ※「八百善」についてはこちら
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最終更新日
2018.08.11 00:10:12
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