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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.14
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カテゴリ:夏目漱石

 
 大正2(1913)年頃から、漱石は南画山水を書き始めます。これは、西洋の近代化にとらわれがちだった価値観を見直し、個人的な趣味を強く進めるとともに、自己を確認すめという作業のためかもしれません。講演「私の個人主義」には「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら(=西洋)何者ぞやと気概が出ました。今まで呆然と自失していた私に、この所に立ってこの道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは、実にこの自我本位の四文字なのです」と語っています。もともと、漢詩が得意で、東洋の価値観を基盤にしていた漱石が、西洋や英語を基本とした価値観に囚われすぎてしまったため、アイデンティティを喪失し、神経衰弱に陥ってしまったとも考えられるからです。漱石は自らの理想とする幽玄の世界を南画にしたため、東洋風の理想郷を描くことで自分の心の平安を目指したのでした。
 
 しかし、そうした漱石の書画に関心を持ち、隙あらば書いてもらおうとしたのが、中央公論の編集者・滝田樗陰でした。東大英文科で漱石の講義を聞き、のちに法学部へ移って中退し、「中央公論」に入りました。師弟の縁をたどって、漱石に執筆を依頼、『一夜』『薤露行』『二百十日』などで雑誌の地位を不動のものにしました。漱石が朝日新聞に入社してから小説の依頼はなくなりましたが、木曜に紙や墨を持って漱石山房に押しかけ、揮毫を願ったのでした。
 
 柴田宵曲の『漱石覚え書』には「車を駆って作家の許に現れ、原稿を集めるのに熱心であった滝田樗陰は、その中のある人々に揮毫を乞う趣味を持っておった。芥川龍之介なども大きな画帖を担ぎ込まれて恐縮したことがある。大町桂月には墨を贈り、硯を贈り、篆印まで持って来て何か書かせた。漱石山房の面会日には早くから出席者の一人であったが、漱石の晩年までよくやって来て、よく字を書かせた。漱石は樗陰を『あくもの食い』と称し、手習のつもりで何枚でも書くが、あとからどんどん消して行くといっている。漱石歿後はじめて催された遺墨展覧会に、樗陰の蔵品が多かったのは観る者の眼を驚かした。寺田博士が『例えば故〇〇君の如く先生に傾倒して毎週殆ど欠かさず出入りして、そうして先生の揮毫を見守っていた人が、矢張普通の意味で御弟子と岩れるかどうか疑問である』といったのは樗陰のことである」と書いています。
 

 
 また、妻・鏡子の『漱石の思い出』「58 晩年の書画」には「この亡くなる前のちょうど一年間というもの、たしか前年の十一月ごろからだったそうですが、毎木曜の面会日となるとは、正午過ぎ早々「中央公論」の滝田樗陰さんが俥でいらっしゃいました。そうして紙をどっさり持ち込んで来て、自分で墨をおすりになり、毛氈を敷き、紙を展ベて、いっさいの準備をととのえて、さあ、先生お書きくださいといったぐあいに、ほとんど手を持たんばかりにして書や絵をお書かせになったものです。それも少しおそくなると若い方たちが次々にお見えになって話がはずむ。そうなると邪魔だというので、早くまだ皆さんがお見えにならない前にいらっしゃいますのです。そうして玄関をお上がりになる時には、あの太った金太郎さんみたいな格好で、紙とか毛氈とか筆洗とかいうものを一抱え抱えて上がっていらっしゃるのです。そうして二、三時間の間というもの、ほとんど休みなしに何かとお書かせになるのでした。いったい滝田さんという方は遠慮のない方で、どうも人の迷惑などということにはあまり気を使わない質の人だったようですが、もういったん来てつかまえ田となると最後から訪問客があろうとそんなことにはお構いなしに、どんどん御自分の計画を運ばせになるとしかみえません。だもんですから皆さんで、滝田のやつは失敬だ、不遠慮に先生を占領してなどという不平もあったようです。しかしそんなことにかけては調法千万な人で、何と言われようとかんと言われようとどしどし自分の流儀を実行してられたようでした」とあります。
 また、周りからも顰蹙を買っており「当時は滝田さんが一人で書かして一人で占領するというのでもっぱら非難もあったのですが、しかし今から考えてみれば、もし滝田さんのような熱心な有志家がなければ、たとえどういう動機が滝田さんの頭の中に働いていたにせよ、とにかくあれだけたくさんのものを遺すことはとてもできなかったことで、この点は幾重にも瀧田さんに感謝してもいいことだろうと存じます。ことに不平不服を言ってられた方々度が、それでも一品二品手に入れられたのなども、たいがい滝田さんの持って来られた紙に書いたのをもらったものが多く、書き損じの遺品の遺墨なども、そういう意味からはだいたい滝田さんの余慶といっていいかもしれません。生前、そんな不平が洩らされルト、貴様たちは自分のものをもって来もしないくせになどと夏目が言っていたものですが、誰が何を持つといったような小さい考えを離れて大きな目で見れば、とにかくある意味においては恩人だといっていいかもしれません。滝田さんの前には森次太郎さんが合って、この方は滝田さんほどずうずうしくはなかったようですが、だいぶ早くから目をつけて、何かとお書かせになったようでした」「なにしろこの年に書いたものは移しい数に上りましょう。大正九年に漱石遺墨展覧会というものをやりました時に、滝田さんから出陳していただいたもののうちで、掛け軸ばかりが五十点ぐらい、それに屏風などもあり、色紙短冊などは各々帖をなしているほかに、まだまだどっさりお持ちの様子で、とにかくたいへんな数でしたが、この収集も二、三年前、滝田さんが亡くなられて日本橋倶楽部あたりで入札されて散ってしまったようです。しかしこのたくさんのものも、書は「帰去来辞」の全巻などという長さ四間もあるという横巻の大作は別としまして、あとは半折程度のものが多く、絵も前に描きました細々した南画風のものはなく、まったく席画式のもので、簡単な墨絵に賛をしたたものか、あっさりした淡彩のものでした。手の込んだものは、描くと人にやるのが惜しくなるとみえて、自分で表装させて自分の手もとにとめておくのでした」とあります。
 
 漱石が樗陰をどう思っていたかというと「滝田さんはこれだけお書かせになるには、それでもなかなか資本を使っていらっしゃいまして、何かと持って来てくださる様子ですが、夏目も滝田が入って来ると、今日は何をもって来てくれたかしらと、小脇を見るなどと笑っていたことがあります。しかし滝田さんもなかなか考えておられて、硯や墨などを持って来てくださる時には、墨は自分で書いてもらうのだから飛び切り上等のものをもって来、硯は置いて行くのだからというのであんまり上等でない安物を持っておいでになる。それを夏目がきゃつ考えて欲張っているなどと看破しまして、その硯はどこから買った、芝の晩翠軒ですとわかると、晩翠軒へ電話をかけて、自分で電話口に立って、滝田さんの買って来た硯は悪いから、もう少しいい硯をもって来てくれ、余分の代は自分が払うからなどと言っていたことがありました。こんなふうにして前年の十一月ごろから死ぬ年の十一月まで、滝田さんは根気よく木曜日には通いつめて来てお書かせになったのでございます(夏目鏡子『漱石の思い出』58 晩年の書画)」とあります。
 
 さて、本人の樗陰は『夏目先生と書画』で「先生が御自分の書かれる書画をいやしくもされないことは非常なもので、気に入らないものは何枚でもズタズタに裂いて、誰が何といっても決してこれを人に渡されなかった。もっとも、余り親しくない人に義理づくに書かれる場合には多少意に満たない物でも渡されたようであるけれども、僕等には先生の気に入らない物は絶対に渡されなかった。紙を十枚持って行って、二枚も出来るのは上乗の成績の方で、大抵一枚位いのことが多かった。甚だしきは、半裁を一枚書くに十五枚の紙を書きつぶされたことがある。そうなると紙の惜しいというよりも先生の骨折られるのが気の毒で、「もう大抵でいいでしょう」と言っても、先生は中々きかれなかった。も一枚、も一枚といって、紙の有りだけ書いて終うまでは決して承知されなかった。……僕が屏風の二枚折一双(全紙四枚)を書いて貰う為めに費した紙は無慮六十枚前後で、三、四回続けて十五枚乃至二十枚を持って行って、辛うじて出来たものである。また『帰去来辞』の巻物も三度書き代えられたが、その前に稽古の意味で書かれた紙を入れると、やはり巻物に要した紙の二十倍以上費している。そんなに書かれても、その中で先生の最も気に入ったのを一枚だけを下さるので、他は皆いくら側で惜んでもべたべたと棒を引いて、それから一字も完字のないようほど迄にこまごまに千切られるのを例とした。その一枚を択むにも絶対に先生の眼識によるので、他の人々が皆挙って他の物を択んだところで先生は頑として動かないで、『もしそれが厭なら止せ』と言われた」と書き、漱石の揮毫をもらうための苦労があったと記しています。





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最終更新日  2018.08.14 00:10:07
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