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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.23
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カテゴリ:夏目漱石

 
 明治38(1905)年2月25日、漱石の発案で「食牛会」が催されました。やってきたのは、手土産のビールをさげた寺田寅彦、野間真綱、皆川正喜、坂元四方太、野村伝四がやってきました。高浜虚子は、みんながやって来る前に漱石邸を訪れ、雑談に花を咲かせていました。
 2月23日、漱石は「明後二十五日土曜日、食牛会を催おす。鍋一つ、食うもの曰(いわ)く奇瓢(野間真綱)、曰く伝四、曰く真折(皆川正喜)、曰く虚子、曰く四方太、曰く寅彦、曰く漱石。午後五時半までに御来会希望致候」というはがきを送り、みんなの来会を募りました。みんなで鍋を囲んで、牛肉をつつきました。まさに「牛のほかに何の食ふものなし」という状態でした。
 この会では、自作の作品を朗読する場面もあった。四方太が『稲毛』と題する小品を、虚子が『石棺』と題する写生文を読んでいます。俳人・正岡子規が行なっていた「山会」という文章会のようで、高浜虚子が子規の趣旨を継いで「山会」は続いていたのですが、この頃になると会は疎遠になっていました。
 

 
 正岡子規の生前『ホトトギス』では、山会と名づける文章会があつて、同人が文章を持ち寄って朗読した挙句、みんなで批評し合う習慣があつた。子規が死んでもその会は続いていたらしく、現に先生の『猫』の第一は、虚子が山会へ持つて行つて朗読したものである。もっとも子規の生前もしくは歿後、それに先生が出席したことがあったかどうかは分からない。然し木曜会ができあがる前に、先生の所には文章会があって、何か文章ができると、その会で朗読して、参会者の批評を求めるというようなことをしていたのだから、そうしてその参会者には高浜虚子、坂本四方太などという、山会のメンバーがいたのだから、この文章会は山会の続編、もしくは山会の出店だったと考えていいのである。
 もっともこの文章会は、明治三十八年(一九〇五)中に二三度催されただけで、中絶された模樣である。然しそこではいろいろな注目すべき作品が朗読された形跡がある。例へば寅彦の『団栗』なども、あるいはこの文章会で朗読されたものでなかつたかと思う。もっとも明治三十八年三月十三日野間眞綱宛の先生のハガキには、「寅彦は今日も來て文章を朗読してゆきました」とある所から想像すると、これは先生にだけ読んで聞かせたもので、大勢に聞かせたものではなかつたのかも知れないとも思われる。寅彦の性格から言えば、先生一人を相手に朗読する方が、むしろ自然である。然し寅彦の『龍舌蘭』は、別の機会に、文章会で朗読されたものらしく見えるふしがある。先生の『幻影の盾』は、朗読してもちよつと通じない所がありそうで、まさか朗読したものではあるまいとも思われるが、然し野間眞綱が『盾のうた』を作り、それが『ホトトギス』に出た『幻影の盾』の終りに印刷されている所から見ても、また明治三十八年二月二十三日野村伝四宛のハガキに、「明後二十五日土曜日食牛会を催うす、鍋一つ、食うもの曰く伝四曰く奇瓢曰く眞折曰く寅彦曰く四方太曰く虚子曰く漱石。午後五時半までに御來会を乞う牛の外に何の食うものなし」とあり、三月三日附の野間眞綱宛のハガキには、「盾のうた面白く出來候最後の二句は不賛成に候。何とか改め度候」とあるのから見ても、どうも先生がこの「食牛会」で『幻影の盾』」を読むか、虚子に代読してもらうかし、それに刺激されて野間眞綱が『盾のうた』を作り、それを先生が推敲させた上で、『ホトトギス』に同時に掲載されるように取り計らつたとしか、私には想像できないのである。二月二十三日のハガキの中の「曰く奇瓢」とあるのは、無論野間眞綱の雅号である。『盾のうた』が『ホトトギス』に出た時にも、たしか「奇瓢」の名前が使われていたと記憶する。(知られざる漱石 小宮豐隆)
 
 漱石は、人との交流をあまり好まぬ風ですが、一旦付き合うと親身になって世話をします。明治44(1911)年4月12日には、故郷へ帰る医師・森成麟造の送別会「肝臓会」が開かれました。麟造は、「修善寺の大患」で主治医となって治療に当た理ました。勤めていた長与胃腸病院を退き、生まれ故郷の新潟県高田市に帰ることになったのです。
「肝臓会」という名前は、修善寺への漱石の病気見舞いで、麟造とともに鶏のレバー(肝臓)を食べて栄養をつけたことがあったため、麟造の別れに、その会を開くことになったのでした。
「肝臓会」に集まったのは、松根東洋城、安倍能成、野上豊一郎、小宮豊隆、坂元雪鳥、野村伝四、東新らで、本郷の写真館のカメラマンが撮影に来ました。
 漱石は麟造へ、銀のシガレットケースを贈りました。そこには漱石の俳句が彫られていました。
   朝寒も夜寒も人の情かな

 拝啓。御帰国前に御約束の肝臓会を聞かんと存じ候が十二、十三、十四のうちで御閑な時を今日中に知らせて下さい、阪元や何かに知らせる都合があるから中一日の余裕がある方が好いです 草々(4月10日森成麟造宛て)
 森成さんが帰国するにつき十二日午後三時から拙宅で肝臓会を開く御都合の上出席を乞う。写真を撮るつもり、御馳走といふ程のものなし。草々(4月10日野上豊一郎宛てはがき)
 拝啓。明十二日の肝臓会は午後三時からに致し候故、その積で御出を乞う。時に写真を記念に撮る積故、望月でも九段の長谷川でも頼んで同刻に連れて来て呉れ玉え。大きさは不明なれど余り大いと保存に不便ならん。(4月11日小宮豊隆宛てはがき)





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最終更新日  2018.08.23 00:10:08
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