2510879 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2018.08.22
XML
カテゴリ:正岡子規

 
 正岡子規は、『墨汁一滴』で「明星」に掲載された落合直文の短歌「わづらへる鶴の鳥屋みてわれ立てば小雨ふりきぬ梅かをる朝」を評しました。
 「一番旨い皿を初めに出しては、後々に出る物がまずく感じられるために肉汁を最初に、フライまたはオムレツを次にし、ビステキを最後に出す。しかし濃厚なビステキで打ち切っては、却って物足りない。そこで付け足しに趣味の変ったサラダか珈琲、菓物の類を出す(明治三十四年三月二十八日)」と子規らしく食べものに例え、メインである「病鶴」が最初に出て、軽みのある「梅かおる」を最後に置くのはいかがなものかと問いかけています。
 以後、二十九日には「いざや子ら東鑑にのせてある道はこの道はるのわか草」「亀の背に歌かきつけてなき乳母のはなちし池よふか沢の池」、三十日には「簪もて深さはかりし少女子のたもとにつきぬ春のあわ雪」と続いて俎上に載せ、四月三日の「まどへりとみづから知りて神垣にのろひの釘をすててかへりぬ」で終わりました。直文の歌は「変な歌」「わかりにくい歌」で、言葉や順序を変えるとよくなるという内容だったのです。
 

 
 『紙人形』に面白いエピソード(※回想の子規)が載っています。歌人・落合直文はリンゴを子規の見舞いに届けようとしたが、ちょうど子規が『墨汁一滴』で自分の歌を批評しています。批評に手心を加えてもらおうと考えられてはたまらないと、送るのを躊躇しているうちにリンゴが腐ってしまったというのです。
 「ビフテキ」を、明治時代は「ビステキ」と呼んでいました。子規も「ビステキ」派で、明治三十四年一月三十日、雉を送ってもらった長塚節宛ての手紙で「ビステキのやうに焼てたべ候」と書いています。「いかめしき文学士」である夏目漱石も『倫敦消息』のなかで「ただ十年前大学の寄宿舎で雪駄のカカトのような『ビステキ』を食った昔しを考えてはそれよりも少しは結構?」とあり、「ビステキ」が広く使われていたことがわかります。
 明治17(1887)年に西洋料理法を紹介した『東洋学芸雑誌』の「素徒西洋料理法」には、マヨネーズやサラダドレッシング、魚や鳩の腹詰、牛舌シチューなどの紹介や用語、材料の入手法を説明したなかに「ビステキ」と書かれています。「ビステキ」は英語の「ビーフ・ステーキ」から、「ビフテキ」はフランス語の読みからきています。
 落合直文は、文久元(1861)年、陸奥国本吉(現宮城県気仙沼市)に生まれ、東京大学文化大学古典講習科に学び、国文学者として教鞭をとる傍ら、歌集、文学全書の刊行など多彩な文筆活動を展開しました。短歌の改革に努め、与謝野鉄幹や尾上柴舟らが門人となり、浪漫的近代短歌の源流となった人物です。
 志を同じとする直文に、批判を加えるのも子規らしいのですが、短歌革新の先鋒を走る直文の歌を批判するのに「ビステキ」を例えに出すのも子規の技です。直文は、この批評に怒りもせず、穏やかにしていたといいます。
 
 廃刊せられたりといい伝えたる明星は、廃刊せられしにあらで、この度第十一号は恙なく世に出でたり。相変らず勿体なき程の善き紙を用いたり。かねての約に従い、短歌の批評を試んと思うに、数多くしていづれより手を着けんかと惑はるるに、先ず有名なる落合氏のより始めん。
   わづらへる鶴の鳥屋みてわれ立てば小雨ふりきぬ梅かをる朝
「煩へる鶴の鳥屋」とあるは「煩へる鳥屋の鶴」とせざるべからず。原作のままにては鶴を見ずして鳥屋ばかり見るかの嫌いあり。次に病鶴と梅との配合は支那伝来の趣向にて調和善けれど、そこへ小雨を加えたるは甚だ不調和なり。むしろ小雨の代りに春雪を配合せば善からん。かつ小雨にしても「ふりさぬ」という急劇なる景色の変化を現わしたるは、他の病鶴や梅やの静かなる景色に配合して調和せず、むしろ初めより降っておるの穏かなるに如かず。次に梅かをる朝という結句は一句としての言い現わし方も面白からず、全体の調子の上よりこの句への続き具合も面白からず。この事を論ぜんとするにはこの歌全体の趣向に渉って論ぜざるべからず。そはこの歌は如何なる場所の飼鶴を詠みしかということ、即ち動物園か、はた個人の庭かということなり。もし個人の庭とすれば「見てわれ立てば」という句似あわしからず、「見てわれ立てば」というは、どうしても動物園の見物らしく思わる。もし動物園を詠みしものとすれば「梅かをる朝」という句似あわしからず。「梅かをる朝」というは個人の庭の静かなる景色らしくして動物園などの騒がしき趣に受け取られず。もしまた動物園とか個人の庭とか関係なくただ漠然とこれだけの景色を摘み出して詠みたるものとすればそれでも善けれど、併しそれならば「見てわれ立てば」というが如き作者の位置を明瞭に現わす句は、なるべくこれを避けてただ漠然とその景色のみを叙せざるべからず。もしこの趣向の中に作者をも入れんとならば動物園か個人の庭かをも明瞭にならしむべし。これ全体の趣向の上より結句に対する非難なりき。次にこの結句を「小雨ふりきぬ」という切れたる句の下に置きて独立句となしたる処に非難あり。かくの如き佶屈なる調子も詠みようにて面白くならぬにあれねどこの歌にては徒に不快なる調子となりたり。個様に結句を独立せしむるには結一句にて上四句に匹敵する程の強き力なかるべからず。
   法師らが髯の剃り杭に馬つなぎいたくな引きそ「法師なからかむ」(万葉十六)
 という歌の結句に力あるを見よ。新古今に「ただ松の風」といえるもこの句一首の魂なればこそ結に置きたるなれ。然るに「梅かをる朝」にては一句軽くして全首の押へとなりかぬるよう思わる。先ずこの歌の全体を考えみよ。こは病鶴と小雨と梅が香と取り合せたる趣向なるが、その景色の内にて最も目立つ者は梅が香にあらずして病鶴なるべし。然るに病鶴は一首の初め一寸置かれて客たるべき梅の香が結句に置かれし故、尻軽くして落ちつかぬなり。せめて病鶴を三、四の句に置かば、この尻軽を免れたらん。一番旨い皿を初めに出しては、後々に出る物のまずく感じらるる故に肉汁を初に、フライまたはオムレツを次に、ビステキを最後に出すなり。されど濃厚なるビステキにてひたと打ち切りては、却って物足らぬ故、更に附物として趣味の変りたるサラダか珈琲菓物の類を出す。歌にてもいかに病鶴が主なればとて、必ず結句の最後に病鶴と置くべしとにはあらず。病鶴を三、四の句に置きて「梅かをる朝」といふ如きサラダ的一句を添ふるは悪き事もなかるべけれどさうなりし処でこの「梅かをる朝」といふ句にては面白からず。この結一句の意味は判然と分らねど、これにては梅の樹見えずして薫のみするものの知し。さすれば極めてととさらなる趣向にて他と調和せず。何故というに梅が香は人糞の如き高き香にあらねば、やや遠き処にありてこれを聞くには、特に鼻の神経を鋭くせずば聞えず。もしスコスコと鼻の神経を無法に鋭くし、心をこの一点に集めて見えぬ梅を嘆ぎ出したりとすれば、外のもの(病鶴や小雨や)はそっちのけとなりて互に関係無き二ケ条の趣向となり了らん。且つ「梅かをる朝」とばかりにてはさるむづかしさ鼻の所作を現はし居らぬなり。若し又梅の花が見えて居るのに「かをる」といひたりとすればそは昔より歌人の陥り居りし穴を未だ得出ずに居るものなり。元来人の五官の中にて、視官と嗅官とを比較すれば視官の刺撃せらるること多きは論を待たず。梅を見たる時に色と香と孰れが強よく刺撃するかといへば色の方強きが常なり。故に「梅白し」といへばそれより香の聯想多少起れども只「梅かをる」とばかりにては、今梅を見ておる処と受け取れずして、却て梅の花は見えておらで、薫のみ聞ゆる場合なるべし。然るに古よりこれを混同したる歌多きは、歌人が感情の言い現わし方に注意せざる罪なり。この歌の作者は果して孰れの意味にて作りたるか。次に最後の「朝」、この朝の字をここに置きたるが気にくわず。元来この歌に朝という字がどれ程必要…図に乗って余り書きし故筋痛み出し、止め。
 こんな些細なことを論ずる歌よみの気が知れず、などいう大文学者もあるべし。されどかかる微細なる処に妙味の存在無くば、短歌や俳句やは長い詩の一句に過ぎざるべし。(墨汁一滴 明治34年3月28日)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018.08.22 00:10:07
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.