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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.25
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カテゴリ:夏目漱石

 
 千円札にも使われた漱石の顔は、大正元年9月19日に撮影された肖像写真です。この写真は、明治天皇の大葬の日の6日後のもので、満鉄総裁の中村是公(よしこと)と理事の大塚信太郎とともに撮影しました。この写真は京橋の小川写真館で撮られました。
 この日の約2ヶ月前、明治天皇は、明治45(1912)年7月30日午前0時43分、心臓麻痺で崩御されました。漱石は、その日の日記に「午前零時四十分。開花崩御の旨公示。同時践祚の式あり」と書いています。
 明治天皇の体調悪化は、以前から知らされており、7月20日の日記には「○七月二十日〔土〕暁天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡紋態の旨報ぜらる。川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず。川開を禁ずるの必要なし。細民これが為に困るもの多からん。当局者の没常識驚ろくべし。演劇その他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣の同情に価す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。当局これに対して干渉がましきことをなすべきにあらず。もしその臣民中心より迷感の意あらば営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。然らずして当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども、その実は皇室を恨んで不平を内に蓄うるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に醸すと一般也。(突飛なる騒ぎ方ならぬ以上は平然として臣民もこれを為すぺし、当局も平然としてこれを捨て置くべし)。新聞紙を見れば彼等異口同音に曰く、都下闃寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聴す。天子の徳を頌する所以にあらず。却ってその徳を傷くる仕業也」とあります。
 

 
『こころ』には「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。そのとき私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」「御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです」と書いています。
 
 明治天皇の後を追い、大正元(1912)年9月13日の明治天皇大葬の日の午後8時頃、乃木希典は妻・静子とともに自刃しました。明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀で十文字に割腹したのち、妻・静子が護身用の懐剣によって心臓を突き刺して自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立てて首筋に刀を這わせて絶命したのです。
 漱石が『こころ』の前身である「先生の遺書」を書くきっかけになったのは、この乃木大将の殉死でした。
『こころ』の先生は、露乃木大将の殉死をきっかけに死への道を辿ります。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。(こころ 先生と遺書 56)
 
 先生は、乃木大将の殉死から「死のう死のうと思って生き続けるほうが、自殺するよりも苦しい」ことに気付き、自殺を決行します。日露戦争で多数の犠牲を払い、戦後の十数年を自らを苦しめながら天皇への忠誠をつくした乃木希典の殉死を、Kを自殺に追い込んだことに長年苦しめられてきたわが身に重ね合わせたのでした。
 
 明治天皇の死は、漱石にとって一つの時代の終わりを告げるものでした。明治天皇が没した翌日、漱石は『法学協会雑誌』に「明治天皇奉悼之辞」を書きました。「御重患後、臣民の祈願その効なく遂に崩御の告示に会う。我等臣民の一部分として籍を学界に置くもの顧みて、天皇の徳を懐(した)い、天皇の恩を憶い謹んで哀衷を巻首に展(の)ぶ」と書いています。漱石が『こころ』の中で、自死した「先生」の遺書の一条に「私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました」とあるのは、この「明治天皇奉悼之辞」と同じ意味のようです。
 
『こころ』で、漱石は先生という人物を明治の精神の象徴として作品に残しましたが、それは自分の姿をも重ねていたのかもしれません。
 漱石の左腕に巻かれた喪章は、明治天皇のみならず、自分の精神のことだったのかもしれません。そのためか、『こころ』の後は、自分の歴史を辿る『道草』を連載し、大作『明暗』にかかります。しかし、その意は果たせず、『明暗』は未完に終わりました。
 
 司馬遼太郎は『明治という国家』の終わりに「太古以来、日本は、孤島にとじこもり、1868年の明治維新まで、世界の諸文明と異なる独自の文明を持ちつづけてきて、明治期、にわかに世界の仲間に入ったのです。五里霧中でした。全く手さぐりで近代化を遂げたのです。その苦しみの姿を二つの世界思潮ー自由民権と立憲国家ーの中で捉えてみたかったのです」と書いています。その姿は、まるで二つの世界で迷う漱石の小説の登場人物のようです。





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最終更新日  2018.08.25 00:10:09
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