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カテゴリ:正岡子規
鈴木芒生は、『先生の南岳草花画巻を得給ひし事』に、子規が望んだ渡辺のお嬢さん(=南岳草花画巻)の経緯について書いています。 子規は、丁堂から「南岳草花画巻」を借り受けることに成功し、その礼に短冊をたくさんいただいたのでした。短冊に書かれた俳句は、芒生の文章に挙げられています。 最後の文には「但し画は途に来なかった」とありますが、これは記憶違いのようです。 というのも、子規は8月31日の『病牀六尺』で、「南岳草花画巻」について書いています。「○余が所望したる南岳の艸花画巻は今は余の物となって、枕元に置かれておる。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるような心地がする。その筆つきの軽妙にして自在なることは、殆ど古今独歩というてもよかろう。これが人物画であつたならば、如何によく出来ておっても、余は所望もしなかったろう、また朝夕あけて見ることもないであらう。それが余の命の次に置いておる草花の画であったために、一見して惚れてしもうたのである。とにかく、この大事な画巻を、特に余のために割愛せられたる澄道和尚の好意を謝するのである」とあります。しかし、喜びもつかの間、子規は1ヶ月半ほどのちの9月19日未明に鬼籍の人となったのでした。 先生もいたく喜ばれて、アレデ小説が出来ましたといって笑われた。それはその日の「病休六尺」の記事をいわれたのだ。でやがて先生は、丁堂和尚へ何か御礼をしたいのだが何か思いつきはなかろうかなどと相談しられたが、夫は却て丁堂の本意でなかろうから、その御心配は無用だが、そのために 却て先生に御心配をかけるようでは悪いから、試みに申上げて見れば、丁堂は常先生の短冊を所望していられたから、若し共事でも叶うたらば何よりの仕合せであろうと、無遠慮に答えた。すると、先生もそれならば強いて御礼もしまいからというて、七枚の短冊を書いて、後とからも迭るが取り合えずこれを持っていってくれということであった。その短冊は 丁堂和尚より南岳の百花絵巻を贈られて 草花帖我に露ちる思ひあり 破団扇夏も一炉のそなへかな 草市の草の匂ひや広小路 草市や雨にぬれたる蓮の花 遠くから見えしこの松氷茶屋 暁の第一声や松魚責 夏野行く人や天狗の面を負ふ というのであった。やがて来客もあったので、余等は辞し去ったが、思えばこれが先生の見おさめであった。 その後丁堂子へは先生から次の様な手紙がきた。 御手紙被下難有拝見仕候。南岳の百花絵巻物御秘蔵の処、この度愚生の懇望により御割愛被下、何とも御礼の申上様もなき次第。狂喜雀躍朝夕枕辺に置きてあけては見あけては見ひとりながめては楽み居申候。この事につきては甚だ失礼なることのみ申上候段、幾重にも御わび申上候。先は右礼旁御わびまで如此に御座候。謹言。 明治三十五年八月廿四日 丁堂和尚 正岡常規 別に御礼がえしのいたしようも無御座困り居候処いろいろ御申聞の次第も有之候に付、拙画短など何か心よき時に出来候はば御笑覧に供へ可申候。 やがて廿九日次のような端書と共に十枚の短冊が来た。紅黄白紫とりどりの美しさである。 拝啓。別封小包にて短冊十枚差上候御一笑可被下候。 卅五、八、廿九、 澄道様 弘法大師賛 龍を叱す其御眊や夏の雨 伝教大師賛 此杣や秋を定めて一千年 親矯上人賛 御連枝の末秋の錦哉 日蓮上人賛 鯨つく漁父ともならで坊主哉 法然上人賛 念仏に季はなけれども藤の花 大漁 十ケ村いわし喰はぬは寺ばかり 苗しろや第一番は善通寺 豆の如き人皆姿を蒔くならし 盆栽の梅早く一福寿草遅し 猩臙脂に何まぜて見むほたん哉 越えて卅一日の「病林六尺」には「余の所望せし南岳草花画巻は今は余のものになって枕元に置かれてある。朝にタに日に幾度となく開けては見るのが何よりの楽みで、ために命の延びるような心意がする……」といわれて満足の意を表されていた。余等は先ず頼まれ甲斐があったと喜んだ。 但し画は途に来なかった。(鈴木芒生 先生の南岳草花画巻を得給ひし事) 芒生は、伊勢に住んでいた頃、子規に伊勢の土産を送っています。伊勢で採れたはまぐりとあゆ、白魚でした。芒生は明治11年、静岡県磐田郡向笠村に生まれ名は孫彦。熊本県立一商業学校長、山口高等商業学校教授などをつとめました。 この「南岳草花画巻」は現在、東京芸術大学に所蔵されています。 賀正。はまぐりありがたく候。 蛤の口より伊勢の初日哉(明治34年1月1日 鈴木孫彦宛てハガキ) あゆくだされありがたく候(明治34年4月 鈴木孫彦宛てハガキ) 伊勢の名物白魚御贈被下ありがたくそんじたてまつり候(明治35年1月 鈴木孫彦宛てハガキ)
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最終更新日
2018.08.26 14:48:32
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