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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.27
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カテゴリ:夏目漱石

 
 明治44(1911)年6月3日、漱石は招待を受けて、イギリス紳士並みに正装してステッキを持ち、宮中で催される雅楽をみました。
 日記によると「拝啓 陳者来六月三日雅楽稽古所に於て音楽演習相催候間同日午後一時より御来聴被下度候此段御案内申進候也」という招待状を懐に入れて家を出ます。牛込御門内に着いたのは1時前でした。
「正面には赤黒の木綿幅くらいの切を竪につぎ合わせた幕がかかっている。そうしてその一行に妙な紋が竪に並んでいる。あとで聞いたら織田信長の紋だそうである。信長が王室の式微を嘆いてどうとかしたという縁故から来たものだそうである。その幕の上下は紫地に金の唐草の模様ある縁で包んであった。その前の真中に太鼓がある。これは薄くて丸い枠のなかに這入っていて、中央に金と緑と赤で丸い模様がある。左りのはじに火熨斗くらいの大さの鐘是も枠に入っている。琴が二、琵琶が二面、その前は青い毛氈で敷き詰めた舞う所である。見所には紫に白く菊を染め出た幕が張ってあった」という舞台の前には、鍋島侯爵、九条公爵、式部官・古谷久綱、伊東元帥の娘、御歌所長・高崎正風、山口図書頭、高橋順太郎、宮内次官の河村金五郎のほか、坪内逍遥や国語学者の大槻文彦らなどがいました。
 踊りの様子は「やがて楽人が出た。みんな烏帽子をかぶって直垂というようなものをきている。その半分は朱の勝った茶で、半分は紫の混った茶である。三台塩という曲と、嘉辰という朗詠をやる。それが過ぎて舞楽になる。始めには例として振鉾をやる。その時の楽人の出立は悉く鳥兜というのだろう妙なものを被って、錦で作った上下の上の鯨の骨の入らないようなものを着て、白の先で幅三寸位の赤い絹のついた袖をつけて、白い括り袴で胡坐をかく頗る雅である。鉾をもったものは一人左の帳の影からでる筒袖の先を括った上に矢張りチャンチャンのようなものを着ている。それが舞ひ已んで、今度は右からまた一人出て、それで御仕舞である」と書かれ、「四人冠をつけてその冠に梅の花を挿んで出る。薄茶の紗のような袖の広い上衣に丸い五色の模様の紋を胸やら袖やらに着けていて、片肌を脱いで白い衣と、袖のさきの赤い縁をあらわしている。帯の垂れた所に紫の色が見える。黄金作り〔の〕太刀を佩いている。ヅボンは白である。四人が四人調子を揃えて如何にも閑雅に舞うのである。足の踏方手ののばし方優長な体操」をする「春庭花」「還城楽」などが上演されました。
 この会にはおやつが出ました。「御茶を上げますというから、別室に行って狭い処を紅茶を飲み、珈琲色のカステラと、チョコレートを一つ食う。サンドヰッチは食わず、喫烟室で煙草を吸っている」と、雅楽の世界から身を転じ新劇俳優としても活躍している東儀鉄笛氏が誰かと話しているのが見えました。
 休憩後は、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』などの洋楽の演奏があり、会がお開きになったのは夕方5時頃でした。
 
『行人』には主人公が雅楽鑑賞に赴くシーンが描かれています。日記を参考にしながら、当時を思い出して筆を進めたことが偲ばれます。
 
 
 雅楽所の門内には俥がたくさん並んでいた。馬車も一二台いた。しかし自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕ボタンのついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行ってくれた。
「そこいらへおかけなすって」
 彼はそう云ってまた玄関の方へ帰って行った。椅子はまだ疎らに占領されているだけであった。自分はなるべく人の眼に着かないように後列の一脚に腰を下した。(行人 塵労17)
 
 彼らは帽子とも頭巾とも名の付けようのない奇抜なものを被っていた。謡曲の富士太鼓を知っていた自分は、おおかたこれが鳥兜というものだろうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越していた。彼らは錦で作った裃のようなものを着ていた。その裃には骨がないので肩のあたりは柔らかな線でぴたりと身体に付いていた。袖には白の先へ幅三寸ぐらいの赤い絹が縫足してあった。彼らはみな白の括袴を穿はいていた。そうして一様に胡坐をかいた。
 三沢は膝の上で何か書きかけた白い紙をくちゃくちゃにした。自分はそのくちゃくちゃになった紙の塊を横から眺めた。彼は一言の説明も与えずに正面を見た。青い毛氈の上に左の帳の影から現われたものは鉾をもっていた。これも管絃を奏する人と同じく錦の袖無を着ていた。
 三沢はいつまで経っても「もう一人の女はね」の続きをいわなかった。観覧席にいるものはことごとく静粛であった。隣同志で話をするのさえ憚られた。自分は仕方なしに催促を我慢した。三沢も空(とぼ)けて澄ましていた。彼は自分と同じようにここへは始めて顔を出したので、少し硬くなっているらしかった。
 舞は謹慎な見物の前に、既定のプログラム通り、単調で上品な手足の運動を飽あきもせずに進行させて行った。けれども彼らの服装は、題の改るごとに、閑雅な上代の色彩を、代る代る自分達の眼に映しつつ過ぎた。あるものは冠に桜の花を挿さしていた。紗の大きな袖の下から燃えるような五色の紋を透かせていた。黄金作りの太刀たちも佩いていた。あるものは袖口を括った朱色の着物の上に、唐錦のちゃんちゃんを膝のあたりまで垂らして、まるで錦に包まれた猟人のように見えた。あるものは簑に似た青い衣をばらばらに着て、同じ青い色の笠を腰に下げていた。――すべてが夢のようであった。われわれの祖先が残して行った遠い記念(かたみ)の匂いがした。みんなありがたそうな顔をしてそれを観ていた。三沢も自分も狐に撮(つ)ままれた気味で坐っていた。
 舞楽が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かがいったので周囲の人は席を立って別室に動き始めた。そこへ先刻(さっき)三沢と約束の整ったという女の兄さんが来て、物馴(ものな)れた口調で彼と話した。彼はこういう方面に関係のある男と見えて、当日案内を受けた誰彼をよく知っていた。三沢と自分はこの人から今までそこいらにいた華族や高官や名士の名を教えて貰った。
 別室には珈琲(コーヒー)とカステラとチョコレートとサンドイッチがあった。普通の会の時のように、無作法なふるまいは見受けられなかったけれども、それでも多少込み合うので、女は坐ったなり席を立たないのがあった。三沢と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざわざ二人の御嬢さんの所へ持って行った。自分はチョコレートの銀紙を剥しながら、敷居の上に立って、遠くからその様子を偸むように眺めていた。
 三沢の細君になるべき人は御辞義をして、珈琲茶碗だけを取ったが、菓子には手を触れなかった。いわゆる「もう一人の女」はその珈琲茶碗にさえ容易(たやす)く手を出さなかった。三沢は盆を持ったまま、引く事もできず進む事もできない態度で立っていた。女の顔が先刻見た時よりも子供子供した苦痛の表情に充ちていた。(行人 塵労19)





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最終更新日  2018.08.27 00:10:11
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