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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.05.03
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カテゴリ:正岡子規
 新海非風は、明治3(1870)年に松山末広町で生まれています。子規との出逢いは常盤会寄宿舎で、子規の見識に惚れ込みます。子規と同居していた男に頼み込んで同室となり、俳句や小説にのめり込みました。子規と一緒に小説『山吹の一枝』を連作したこともあります。
 非風は、俳句の優れた天分を持っているのですが、その反面エキセントリックなところがありました。子規は『筆まかせ』の「悟り」で次のように評しています。
 
 明治廿一年の秋、余は始めて常盤会寄宿舎に入り、豊嶋氏山崎氏と同居したり。その後豊島氏は退舎しその代りに岡村氏来れり、ある時新海氏は余の室に来り、共ともに小説上の談話をなしたるに氏のいう「余は今まで好んで小説を読みしかども未だ小説上につきて何等の見識も有せずただ雲姻過眼視せるのみ。今君の話を聞きて始めて小説の何たるを知れり云々と。終に氏は岡村氏に請うて坐を譲らしめ、その後は長く新海山崎二氏とともに机をならべたり。新海氏は紳経過敏にしてたやすく事物に刺戟せらるるの性なれば、一事の起る毎に、一話を為す毎に、あるいは喜ぴ、あるいは怒り、あるいは感じ、あるいは泣き、その挙動半狂の人に似たり。その議論するや始めより語気怒を含み、少しくそのたけなわなるに及びては精神愈々激昂し、議論の主旨と順序とをあやまり、終には論理にも何にもかからざる乱暴の議論を為すに至る。余その煩を厭いて、後には議論のはじまらんとする時はつとめて始めよりこれを避け、「最早これにてやめん」といえば、氏は「人を馬鹿にしたり」とてその怒り一方ならず。余もほとほとこれには持て余しぬ。ある日上野へ行く道にて何かの論がはじまりしに、追々激戦となり一時間の余も教育博物館内の庭園にて論じたり。余は何分にもうるさくなり、どうかやめたく思えども氏はますます迫りくるに、せんかたなくそのつづめをつけ、ともに帰途に就きしが、道にて余が話しかけても氏は一言をも彼せぬ程なりき、されどこれも一日か半日の事にて、翌日に至ればまた痕迩をとどめず交際ますます親密となれり。余もはじめのうちは氏に議論をしかけられし時は、あるいは立腹し、あるいは恐怖し、あるいは厭倦せしが、氏の議論も追々減少し余の心も追々平和に傾きたり。余おもえらく釈迦は提婆のために幾度の困苦を受けたりといえども、釈迦が心を煉ることにつきては提婆預って功あるもの也。
 余は今、己を社歌に比し、新海氏を提婆に比するにはあらねど、余が心を錬る上においては実に新海氏の力、大なりというべし。その後氏はようやく煩悩のおそろしきを悟りけん、仏教の悟りにつきてかにかくとあげつらいなどせしが、去る二月廿八日の夜、氏は余の八号室に来りて、「仏教のいわゆる、悟りとは自ら悟るとも人に伝え得ぬものなりとか、果して然るものならば実につまらないものならずやという。余答えて「つまるともつまらぬとも分らねども、普通の感情に従うていえばむしろ高尚なりといわざるべからず」と笑いければ、氏は「もしこれをしも高尚なりといわば、そは仏教の外にもたくさん有るなり。画の如きもその一例にあらずや」と言う。余答えて「然り然り。絵画の如きもこれを悟るものはその善悪是非を明瞭に心に了解し得るといえども、口または筆にてその事を説明する能わざる也。画のみには限らず、他の技芸においてもまた然り。学者においてもまた然り。蓋し悟りとは煩悩を脱するのいいなり。而して仏僧といえども、技芸家といえども、学者といえども、その悟りに二つはなきものと見ゆ。左甚五郎の如き世俗の伝うる所によるも、瓢々として仙人の如く、行かんと欲すれば行き止まらんと欲すれば止まる。天気によりて行くにもあらず、金錢によりて止まるにもあらず。王公に媚びず恐れず、下民を侮らず賤しまず。意の欲する時には彫刻をなし、欲せざる時は如何にするとも彫刻せず。死生心に介せず、栄辱気にかけざるものは真に悟りの極意に逹したるものというべし、希臘(ギリシア)古代の学者にも此類多きように見受けたり云々」といいたりき。この夜は餅菓子、焼いもなどをやたらに食い「今夜は遺精をやりそうだなどと話しながら寝につきし……。
 
 五百木瓢亭は、明治22年、子規と初めて会うのですが、そのときには非風も一緒でした。瓢亭はその時に読んだ非風の句に感心しています。
 
 僕が始めて子規と会見したのは明治二十二年の秋でした。子規はたしかまだ大学へはいっていなかったと思います。この時は寄宿合で僕らと同居しない前で。不忍の松源の近所の下宿にいた頃です。忘れもしませんよ。丁度仲秋の明月の晩でした。僕は同宿していた非風にさそわれて初めて子規の宿を月下に叩いたです。この時代の僕らの頭というものは実に空想に充ちきっていて。歩行きながら常に夢を見ていたようなもので。ほとんど仙人めいた考えでした。別にまだ明らかに哲学の組織が脳中に出来ていたでも無いが。ただ何となく自分を極めて高い所へ置いて世界を紅塵の中に見下していた。俗骨々々という言葉は当時僕らの人を篤る特有の言葉であって。まだ世の中を知らなかった身には。ただ霞を吸うているような清浄な無邪気な理想に包まれていたのです。今から思うてもこの時代の我々は誠になつかしいですな。丁度春さき浮れている蝶のようなもので面白い夢の人です。さてこういう先生たちの会合がどうであったかというと。子規はそのじぶんゾラの英訳の小説を読んでいましたので。しきりにこの小説談からそのじぶんの小説の批評なんかが盛んに出ました。盆の上に山のように積んだ梨をたらふく食いちらしつつ。遥かに月光冴え渡れる不忍の景色を眺めて高談放笑せるこの三人は。興起るに従って最早人間界の人じゃないのです。忽ちそれから三人相携えて上野の森に分け入って。木間もる月のただしんしんと冴えかえれる中を。各十分の空想に耽りつつ夢のように逍遥して。摺鉢山の横手今パノラマの在る所です。あすこがまだ桃林であったそこへ来て。誰れがいいだしたのであったか。古し桃園に三傑義を結ぶこと有り今や三傑またこの桃林に会すなどとしきりに豪傑がっていましたが。それから各月に名句の吐きくらべをやろうというので。鶯谷あたりからそこら無暗にぶらぶらとやったですが。この時の俳句というものは頭から句にもなんにもなっていないのでお話しにもならないです。『大空に月より外はなかりけり』これが非風の句で。その晩の即吟であったか前に作ったのであったか忘れたですが。当時これが非常の名吟であってその晩はとてもこれに及ぶものは無かったのです。広小路へ出て来たのは大分おそかったようでしたが。別れる時に各々今夜の紀行を書くという約束をしました。その翌日子規は約束通り一篇の草稿を持って寄宿舎へ尋ねて来た。それは三傑句合せ芭蕉泣せというので滑稽的に昨夜の事件を記していたです。非風と僕はとうとう何も書かなかったが。何しろ句は無茶苦茶でした。これが僕の子規と会見した初めで。これよりしてようやく三人の間に俳句の研究が芽ざしました。(五百木瓢亭 夜長の欠び)





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最終更新日  2021.05.03 19:00:05
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