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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.10.26
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カテゴリ:正岡子規
 明治17年、羯南は敦賀藩医で海軍医となっていた今居元吉の長女てつと結婚します。局内では文筆の能力が認められ、翌年には内閣官報局編輯課長となりますが、現状に満足できなかったのか、明治21年に官報局を依願退職し、4月9日に創刊したばかりの「東京電報」に入ります。「東京電報」は、谷干城のパックアップにより作られた新聞で、実業者の政治的活動を支援するオピニオン紙でした。「東京電報」の前身である「商業電報」は相場新聞で、創刊の社説には「実業者と共に最強なる政治思想を涵養し、かつ学者の三女を得て学理の応用を勉め、持って政党に実業進歩の障害を苅除する」と書いています。
 
 この活動の中で、羯南は「国民主義」という考えを明確にしていきました。「国民主義」とはNationalutyの翻訳で、欧米諸国が自国の「国民し靫」を打ち立てているのと同じく、日本も固有の文化を基軸にした「国民主義」を確立せねばならないと唱えたのでした。
 しかし、「東京電報」の部数は伸びず、明治22年2月9日に廃刊となります。そこで羯南は、2月11日の紀元節と大日本帝国憲法の発布にあわせて、新聞「日本」を創刊したのでした。「日本」は、日本の亡くしてしまった「国民精神」を回復し、外部に向かって「国民精神」を発揚すると共に、内部に向かって「国民団結」を強固にすることにあったのです。羯南は33歳で主筆兼社長になりました。
「日本」は当初間過激な発言を掲載し、「郵便報知新聞」との条約改正に関する論争は10回にもわたり、8月には2週間、10月には1週間の発行停止を命じられました。これからも、「日本」に対する発行停止は幾度も続きました。しかし、「日本」は成長を続け、石井研堂著『明治事物起原』には報知、日々、時事、朝野、毎日、読売とともに七大新聞と記されています。
 
 明治25年2月29日、子規は駒込から陸羯南の家の向かいにある根岸の金井ツル方に転居します。ここは鶯横町ともいい、三年前に森鷗外が住んでいました。拓川から子規の世話を頼まれた羯南は、確かな人を下宿させたいと願っていたツルの家を探してきたのです。子規は、羯南への家を探しもらう際に、俳句研究のために東京大学を退めたいと伝えています。
 羯南は『子規言行録序』で次のように書いています。
 
 予が根岸の寓を尋ねて来て、来年は卒業の筈だが、病気のために廃学するつもりだと語る。ドンな病気か知らんが我慢して卒業したらどうかと勧めても、決心はなかなか動かせない。近ごろ俳句の研究にかかって少しく面白味がついて来たから、大学をやめて専らこれをやろうと思うと言い、根岸に座敷を貸す家があらば世話してくれといって帰った。……ちょうど寓居の向かいに老婦独り住まいの家があって誰か確かな人に下宿させたいとのことであったから、早速そのことを報じてやったら、すぐやって来てやがて引越してきた。これから隣同志となって、毎日往来する間に俳句の味が少し分かりかけてきた。……どうだ何か『日本』へ出してみたらばといったら、かねて書いてある紀行でも出そうとのことで、それからそれと俳句まじりの紀行などは出た。これがそもそも正岡子規の初陣である。(陸羯南 子規言行録序)
 
 羯南と家の近いことが功を奏したのか、子規は大学在学中の5月27日から螺子の名で紀行文『かけはしの記』、6月26日からは、獺祭書屋主人の名で『獺祭書屋俳話』を新聞「日本」に連載しました。「日本」の記者・古島一雄が語った『古島一雄翁の子規談』によれば、子規は「日本」への執筆以前に叔父・加藤拓川の紹介で入社試験の前哨戦ともいうべき面談の席上、古島に「試験のために勉強するのは嫌」と語ったといいます。とすれば、「日本」への執筆は試験代わりということになります。子規は、明治の言論界に大きな影響を及ぼした新聞社に入社したのでした。
 
 はじめ子規の叔父の加藤拓川の紹介で入社さしたいから君、逢ってやってくれ。で、子規に逢ったんだ。日本新聞社で。蒼ブクレで、紺絣の着物を着ていた。君は一体日本新聞に入社したいというが今何をしている、と聞くと、大学へ行っている。何年だというと、まだあと一年あると言う。あいつは試験のために勉強するのは嫌になった。井上哲次郎の哲学なんか聞いておれんと言うんだ。こいつ面白い奴と思った。君、新聞社に入ってなにをするんだ。芭蕉以来堕落している俳句を研究したいと、しきりに講釈するんだ。おれは「古池や」くらいは知っている、が俳句というものはろくに知っとらん。あいつは、身体が弱いと自覚しておった。早く新聞によって、この志を急いで発表したい。一年が待てんというのだ。(古島一雄 古島一雄翁の子規談)
 
 正岡子規なる一学生が社会に名乗りを上げたのは二十五年五月二十七日、螺子の名をもって『かけはしの記』なる一編の紀行文を日本新聞に寄せたのがそもそもの始めである。もっともこれより以前、羯南君の宅へはしばしば行ったことがあったそうで、羯南君はほぼその文学上の所論を認識しておったから、入社せしめてその材能を揮わしてみたいとのことであった。(古島一雄 日本新聞に於ける正岡子規君)





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最終更新日  2021.10.26 19:00:05
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