【 江戸切絵図歩きめぐり 第47回 】 明石町 築地
2024年04月23日(火)曇どんより曇り空。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区明石町・築地5~7丁目に当たる地区。08:55 入船橋交差点、【 江戸切絵図歩きめぐり 第47回 】を歩き始める。明石町。聖路加国際大学の西側に「浅野内匠頭邸跡」石碑がある。元禄14年(1701年)の刃傷事件により播磨国赤穂藩浅野家(外様)が断絶するまで、この辺りは赤穂藩上屋敷だった。元禄年間(1688~1704年)の絵図には「浅野内匠頭」と記されている。切絵図は幕末のものなので、「水野伊勢守(旗本)」「松平周防守(陸奥国棚倉藩松平家、譜代)」などの屋敷になっている。「蘭学事始の地」碑と「慶応義塾発祥の地」碑を訪れる。当地には豊前国中津藩奥平家(譜代)の中屋敷があった。切絵図には「奥平大膳大夫」とある。中津藩中屋敷では、藩医の前野良沢が杉田玄白らと供にオランダ語の医書を翻訳、安永3年(1774年)解体新書を刊行した。また、安政5年(1858年)中津藩士出身の福沢諭吉が、中屋敷内に蘭学塾(慶応義塾の起源)を開いた。切絵図の築地川河口に「明石橋」が架かっている。隅田川の川風に曝されたことから寒橋(さむさばし)ともいわれた。切絵図には「俗ニサムサバシト云」とある。築地5~7丁目。切絵図の築地川に架かる「数馬橋」の名称は、旗本の堀数馬に由来する。切絵図では橋の北西の離れた場所に「堀数馬」の屋敷が記されているが、かつては橋の北詰(切絵図に「田沼玄蕃頭」とある場所)にあった。築地6丁目交差点に「軍艦操練所跡」解説板がある。安政4年(1857年)幕府は航海術・海上砲術の講習やオランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で、当地に軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設した。切絵図には「御軍艦操練所」とある。「波除神社」を訪れる。築地の埋立工事が難航していた万治2年(1659年)、海中を漂う御神体が見つかり、現在地に社殿を建てて祀ったところ工事が順調に進んだと伝わる。切絵図では、軍艦操練所の南側に「イナリ」とあるのが波除神社。切絵図に「松平安芸守蔵屋舖(安芸国広島藩浅野家、外様)」「一橋殿(御三卿)」「松平越中守(伊勢国桑名藩松平家、親藩)」「稲葉長門守(山城国淀藩稲葉家、譜代)」「尾張殿蔵屋舖(御三家)」とある一帯が、現在の築地中央市場跡地。淀藩稲葉邸には「江風水月楼」、桑名藩松平邸には「浴恩園」と名付けられた庭園があった。浴恩園は、寛政の改革を断行した老中松平定信の隠棲の地だった。09:40 大手門橋前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第47回 】はここで終わり。入船橋交差点 → 大手門橋前 : 3.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 141.3 km )