<2>よりつづく
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「禅宣言」 <3> Osho
「私が愛した本」の禅ジャンルの中にアラン・ワッツもあったなぁ、と思っていたら、こちらでもその名前を発見。
アラン・ワッツは、キリスト教の宣教師としての訓練を受けた人だ。禅を理解しようとするときにも、つねにその訓練が影響してくる。そして彼は最後に、ほんのちょっと禅に近づいたのだが、そのときキリスト教会から追い出されてしまった。そのことが人生の危機となった。まだ禅者にはなってなっていないのに、キリスト教徒としての信用を失ってしまったのだ。そのストレスによって酒を飲み始め、アル中となり、それで死んでしまった。この人間のことを知っていれば、彼がなぜそのようなことを言ったのかわかるはずだ。p222
彼はなんとか禅にキリスト教的な側面を見ようとした。でもそれはキリスト教徒にも、禅者にも不評だった。禅者にはキリスト教的な側面なんかいらないし、社会的な側面もいらない。それは個々人による反逆だ。あなたがヒンドゥー教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、キリスト教徒であろうと関係ない。どんな重荷を背負っていても、それを捨てる。その重荷の名前が何であろうと、ただそれを捨てる。p222
アラン・ワッツは正しくない。禅についての彼の理解は、どこまでも観念的なものだ。「禅とは基本的に、社会的慣習という修練を会得した人たちのための解放の道だ」と彼は言うが、まったくのナンセンスだ。禅は社会的な側面なんか関係ない。最終的に捨て去るようなものを会得しても、仕方がない。時間を無駄にしてもつまらない。それはこんなふうに言うのと同じだ、「まず最初にカゴに入って、どこかの慣習、どこかの信仰体系の奴隷となる。それから自由になりなさい」
彼はただ無意識的に、自分の心を見せているにすぎない。彼はカゴに入っていた、そしてキリスト教の司祭として何年も訓練された。キリスト教徒なら追い出すこともできるが、キリスト教徒が自分の骨や血にまでしみ込んだキリスト教を追い出すのは、非常に難しい。彼はそれを追い出すことができなかった。それで、後に続くかもしれない人々にこう語るのだ、「禅とは基本的に、社会的慣習という修練や集団による条件づけという修練を会得した人たちのための、解放の道だ」と。まったく違う。p224
アラン・ワッツが転生して自分のもとにやってくるのを待っているかのようにほのめかしたOshoは、こちらの「禅宣言」において、輪廻転生については、次のように語っている。
輪廻転生という考え、それは東洋の宗教すべての中で生まれてきているが、それによると自己は肉体から肉体へ、生から生へと移っていく。こうした考えは、ユダヤ教から発した宗教、キリスト教やイスラム教には存在しない。ところがいまでは精神科医でさえ、それが本当なのではないかと思い始めている。自分の過去生を覚えている人々もいて、この輪廻転生の考えは支持を広げつつある。
しかし、私はひとつ言っておきたい。この輪廻転生の考えはすべて勘違いだ。たしかに人が死ぬと、彼の存在は<全体>の一部となる。彼が罪人であったか聖者であったかは関係ない。しかし彼にはまだ、マインドとか記憶と呼ばれるものがある。今ではあまり知識もなかったから、記憶のことを思考の束だとか想念波動だとは説明できなかった。ところが、今はそれも容易になった。p266
ほとんどの人々は覚えていない----なぜなら、一個人の記憶システムをまるごとそっくり受け継いでいないからだ。ただ断片的にあちこちからもらってきて、そうした断片からあなたの苦悩システムが作られる。p267
転生というものはない。でも苦悩は転生する。無数の人々の傷があなたのまわりを飛んでいて、苦しみたがっている人を探している。もちろん、至福は何の痕跡も残さない。目覚めた人が死ぬときは、ちょうど空を飛ぶ鳥のようだ-----轍も踏み跡も残さない。空は空っぽのままだ。至福は轍を作らずに動く。だからこそ、ブッタたちから何かを受け継ぐことはないのだ。彼らはただ消え去る。そしてありとあらゆる愚者や低級な人々は、その記憶によって輪廻転生し、それは日に日に厚くなっていく。p268