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書評日記  パペッティア通信

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Aug 28, 2006
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▼  最近読んだ靖国論で、なかなか過激で、面白かった靖国神社への批判があったので、ネット史料として、メモがわりにのせておきます。新聞夕刊に掲載されていたものですが、皆さん、どうでしょうか。



● 靖国問題を考える 加々美 光行 

神国不敗、総玉砕強いた
国家指導者の責任当然


   7月20日、靖国神社へのA級戦犯合祀に関する昭和天皇の批判的見解が「富田メモ」の形で公表され、さらに8月15日、小泉首相が靖国参拝を強行したため、靖国や戦争責任をめぐる論議が俄然熱気を帯びるようになった。

 戦後60年余を経て、先の戦争評価について国民的論議が高まるに至ったこと自体は歓迎すべきことだ。だが、戦争評価を巡る論議は「両刃の剣」であり、私たちの国家を危険な方向へと導く結果にもなる。その点、特に若い世代から戦争は「普遍的悪」だから、戦争責任について勝者か敗者かを区別するべきでなく、敗者の国家指導者のみに責任を転嫁するのはおかしいとする意見が聞かれるのには、危惧を感じざるをえない。



 問題は勝者か敗者かを区別する点にない。日本が遂行した先の戦争を古今東西の戦争一般と同一視し、その特異性を見ない点に問題はある。1930年代以後の日本の戦時国家体制が人類史上、類例を見ぬ体制だった事実を忘れてはならない。戦時体制はまず天皇神格化による個人崇拝と陸軍部による独裁を特徴としたが、それだけなら古今東西、前例はある。

 その類例のなさの第一は「神の国」として「常勝不敗」を不可侵として奉じたこと。それゆえ第二にいかなる意味でも「勝利なき終戦」を許さず、敗北を余儀なくする場合は一切の投降を認めず、総員「玉砕」を義務づけた。第三に国民に日本の常勝を信じさせるため、大本営発表によって自軍の勝利戦果をねつ造し、戦況の実状を国民に一切知らせなかった―――この3点にある。

 43年5月のアッツ玉砕、44年のサイパン玉砕、グアム玉砕、同年秋の神風特攻隊編成の下命、45年の硫黄島玉砕、そして沖縄玉砕戦は、まさにこの異様な戦時体制のゆえに生じた。この総玉砕戦は「勝利なき終戦」を許さぬ結果、日本全国民の消滅を想定し遂行された。実際、上述の玉砕戦では軍人のみが総員死を遂げたのではなく、島民である民間人もすべて総員死を強いられた。



 現実には43年以後日本は配色を濃くし、国家指導者なら「勝利なき終戦」への解決を求めて当然の状況だったが、そうした解決を口にすることは、「常勝神話」の不可侵性を犯すこととなるから、自身の生命を賭ける勇断を必要とした。むそんそのような勇断を敢えてなした国家指導者はいない。38年公布の「国家総動員法」、40年の大政翼賛体制の発足、41年東条英機陸軍大臣の起草になる「戦陣訓」、とくに「本訓其の二の第八 名を惜しむ」にある「生きて虜囚の辱を受けず」に始まる「玉砕論」こそ、総玉砕を作り出した元凶だった。

 私の三兄は45年3月、大本営の無謀な作戦指令によるボルネオ島の「死の行軍」の直後、戦病死を遂げたが、この「玉砕論」がなければ生還し得た。さらに言えば、同じ論理からこの「神国日本」に敵対するすべての人々は、軍人か民間人かによらず「人」として認められなかった。中国大陸、朝鮮半島、アジアにおける日本軍の残虐行為はそうした病理から生じたのだ。

 こうした史上前例のない異様な“カルト的”戦時体制を構築した当時の日本の国家指導者の戦争責任を追及せずして、その罪を日本国民一般や他国の戦争指導者の罪と同列に論じ、結果的にこれを免罪してしまうことが、いかにおかしなことか、他国の裁きや判断にまつまでもなく、日本人みずからもっと早くその犯罪性を認識すべきだったのである。私はこの意味で当時の国民一般と国家指導者とを戦争責任において厳密に区別すべきだと考える。



 72年9月の日中国交正常化に際し、周恩来は、対日戦争賠償請求の放棄を言明、その理由を説明して「日本人民も戦争被害者。賠償請求は日本人民の肩に莫大な重荷として降りかかる。それは中国の望まぬこと。賠償請求放棄は中国人民への子々孫々にわたる友好の証しとしての贈り物」と述べた。この言明を「国家指導者と国民を分ける区別論」という。

 靖国へのA級戦犯合祀に中国が強く反対する理由もそこにある。しかし今日、この周の「区別論」を中国の「陰謀」とする議論が聞かれる。「陰謀説」はむろん日本の戦時体制の病理を直視せず、むしろ美化しようとするものである。周がどう言ったかが問題ではなく、日本人としては「区別論」に立ち、戦争指導者の誤りを明らかにすべきではないか。この点を最後に、戦争を知らない若い世代に問いかけたい。



▼  紹介した私がいうのも、変かもしれないけど、ちょっと、言いすぎじゃないの?という部分も多いです。一読して、ちょっと混乱しているのではないか?推敲が不十分ではないか?といいたい箇所も、見え隠れしてしまう。たとえば、類例のなさとして、3つほどあげられているものの、実際には2つ目いかなる意味でも「勝利なき終戦」を許さず、敗北を余儀なくする場合は一切の投降を認めず、総員「玉砕」を義務づけたを除けば、世界各国で見られる現象なのではないか。戦勝報告の捏造など、大なり小なりおこなわれているだろうし。


▼  ただ、これをメモとして残すのは、日本側からの「2分論」の典型的言説だから。そこに使われる道具立ては、日本と世界、その同質性よりも異質性を強調・摘出して、その責任を追及すること。たしかに神風アタックなんて、異質性の最たるもの。富永恭次中将なんか、「最後の一戦で本官も特攻する」「諸君たちは、すでに神である!」と訓示をたれ、部下達を死地に追いやりながら、自分はさっさと敵前逃亡、挙句のはてにシベリアで捕虜。天寿を全うした訳ですし。


▼  今では、国民責任を免責する議論は、左派ではまったくメイン・ストリームではありません。批判されてしまうでしょう。右派では、国民と指導者、両方免責して、人と人の「間」の媒体、すなわちメディア、分かりやすくいえば「朝日新聞」に責任転嫁する議論が一般的でしょう。まあ「媒体」に責任転嫁するのは、「主体」の自立性を徹底的に剥奪する、思想の洗礼を浴びたものとしては、いや~そのとおり!良く分かってんじゃん!!とばかり、賛意を示したいのですが、なぜか論者はトンデモが多いですな。 それなら当然、日本語、日本文化の責任にでも転嫁が可能な訳で、へんちくりんな「媒体」責任論のオンパレードになりそうで、却下したいです。てか、また、反論とばかり「主体性論」が復権するだけなんじゃなかろうか。人間は、「主体」なのか、「主体」たりえないのかが、永遠に蒸し返されるのか………い、いかん、話が逸れてしまった。


▼  気持ちよく「2分法」に分かつのは、今では珍しくなってしまった。しかし、戦後直後には、「一億総懺悔なんてふざけんな!」「悪いのはお前ら軍人だろ!」と、反軍的雰囲気が瀰漫するなかでは、大いに受け入れられたものではあるはずです。形をかえて、今も受け継がれるこの論理は、周恩来の「子々孫々への贈り物」とする温かい(だからこそ、政治的に素晴らしい)言葉とともに、一読しておく価値があるでしょう。




加々美光行(かがみ・みつゆき) 氏

愛知大学国際中国学研究センター所長。1944年生まれ、大阪府出身。東大文学部卒。アジア経済研究所主任研究員などを経て91年から愛知大教授。著書に『現代中国の挫折 -文化大革命の省察』『アジアと出会うこと』『中国世界』など。



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Last updated  Aug 29, 2006 12:58:49 AM
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