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カテゴリ:神社仏閣巡り
今回の寺院は公共交通機関では大変行きにくい場所にあります。なんせ最寄りのJR奈良線「棚倉」駅から徒歩で40分程かかってしまうんですから。車で行こうにも、専用駐車場もありません。
実は知り合いの家が近くにあり、車でそこにお邪魔した時、こちらにも寄らせていただきました。 という事で「神童寺(Jindo-ji)」です。この辺りの地名は、同じ読み方で「神童子」となっています。私の知り合いも含め、この辺りの方たちはほとんどがこのお寺の氏子さんです。 この寺院沿いの道は、かつて京都~伊勢まで続く「伊賀街道」として使われていました。今では、地元の方しか利用しないような細い道にしか見えず、木々に覆われるように山の奥へと消えていきます。「和束に抜けれるよ。」と言われても、心細くて私はまだ行ったことがありません。 ま、そんなこんなで、こんな機会でないと来れないよとばかりに来ちゃいました。 山門(木津川市指定文化財)。瓦もかなり賑やか。 「北吉野山 神童寺」の石碑。 山岳修験の道場でもあったこの寺院は、奈良の吉野山に対して「北吉野山」とされた。吉野には毒蛇が多く山伏修験者が入山できなかったので、笠置山をその大峰と見立てて、この地を北吉野として開創したとされる。 本堂(重要有形文化財)。 1180年、平重盛の次男・資盛の兵火(源平合戦)により、26坊あった堂宇が悉く焼失。 現在のものは、1406年、「興福寺」(世界遺産)の官務・懐乗の再建。 「聖徳太子(Syotoku-taisi)」が創建。千手観世音菩薩を彫刻し、寺号を「大観世音教寺」と称した。 後に、「役行者(En-no-gyojya)」がこの山で修業した時、「天八百日尊(Ame-no-yaohi-no-mikoto)」と「天三下尊(Ame-no-misagari-no-mikoto)」という神童が現れ、2人の助力を得てご本尊になる「蔵王権現」の像を造ったという。永くその神徳を顕すために、寺号を「神童寺」と改めたのだそうだ。 ご本尊:蔵王権現像(重要文化財)。 蔵王権現が本尊なのは珍しいのだそうだ。体に塗られた青い彩色が残っている。 「京都南山城古寺探訪」の1つ。 「隠れ古寺南山城六山めぐり」の1つ。 十三重塔。 脇から「本堂」の裏に上がる道がある。その途中には、お地蔵様が。 なだらかな石の階段を上がり切った所には「鐘楼」があります。 その「鐘楼」の前で、ご住職の方が草抜きをされていたのでご挨拶をすると、(一旦、下の寺務所に戻り拝観受付を済ませた後)奥にある鉄筋コンクリート造りの「収納庫」に案内して下さった。 いやいや、侮るなかれ。この静かな山間の農村地帯にもかかわらず、この寺院が所有してる宝物のすごいこと。 一番目を引くのは、木造「愛染明王坐像」(重要文化財)。日本で3例しかない「天弓愛染明王」と呼ばれる独特の格好。愛染明王は全部で3組の腕がありますが、そのうち1組が弓に矢をつがえて、上方を狙っているんです。(和歌山の「金剛峯寺(Kongo-bu-ji)」(世界遺産)・山梨の「放光寺」) 次に、こちらも珍しい木造「白不動明王立像」(重要文化財)は、体が白く塗られていてその名も「波切白不動」。波切とは、「空海(Kukai)」が帰国した折、船中で嵐に遭い、その窮地を救った「不動明王」の事だそうだ。しかし、寺伝では真言宗の開祖・「空海」ではなく、天台宗の「円珍(Entin)」だという。「空海」の甥である「円珍」にも、同じように不動明王に救われたというエピソードがあるが、体の色は金色で「黄不動」(滋賀の「園城寺(Onjyo-ji)」)が通例だ。こちらの寺院は、真言宗智山派なので、何だか色々と混ぜこぜだ。というよりも、真言宗の寺院なのに「空海」の「く」の字も出てこないのが不思議。 他にも、木造「役行者像・前鬼像・後鬼像」が祀られてあるが、こちらも洞窟の中にスッポリと入ったような「役行者像」は、ちょっと珍しいと思う。 「鐘楼」と「収納庫」との間には、護摩行を行う場所が設けてある。 京都府南部に位置するこの辺りは、古くから「南山背(平安以降同じ読み方→南山城)」といい、その直ぐ南側が奈良の「平城京(Heijyo-kyo)」であり、その影響を大きく受けていた土地でもある。現在でこそ京都府木津川市山城町だが、奈良県と生活圏での境界線が今も非常に曖昧で、バスは奈良交通、銀行も京都銀行よりも南都銀行の支店の方が圧倒的に多いというのも面白い。 苔むした立派な石垣の上に「神童寺」はあります。 (2017年10月中旬現在) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.05.18 13:15:00
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