|
カテゴリ:神社仏閣巡り
ガラケーの写真を整理していたら、この画像が出てきました。
以前、滋賀に用事で行った時、カメラを持って行っていなかったので携帯で撮っていた場所です。忘れていました( ̄▽ ̄;) というわけで、今回は大津です。 「大津歴史博物館」の前の道にある「穴太遺跡の特殊カマド(温突遺跡)」です。 屋根があり、屋外展示になっている。 7世紀の長さ4mの石組み。朝鮮半島のオンドルに似た形状を持つ(らしい)。山沿いに1000基以上の小円墳が発見されている。横穴式石室の群集墳で、そのエリアからこのカマドの遺構が発見、ここに移設された。 古代のものとしては、現在日本で唯一のもの。 「車石」。 江戸時代、牛車で荷物を運ぶために整備されたもの。大津から京都までの東海道(約12㎞)を、ぬかるみにはまらないように石を敷いて溝を掘ったようだ。車の両輪の幅に合わせている。 大津市役所の前の歩道を北に。 ここに「弘文天皇陵(Kobun-tenno-ryo)」がある。位置的には市役所の裏手の、ひっそりとした森の中。長等山前陵(Nagara-no-yamasaki-no-misasagi)に治定されていて、遺跡名では「亀丘古墳」。 第39代・弘文天皇は、第38代・天智(Tenti)天皇の第1皇子、「大友皇子(Otomo-no-oji)」の事だ。実際、天皇の位に付いたかどうか不明であったが、明治政府により諡号が贈られた。 その「大友皇子」とは、古代最大の内乱「壬申の乱」での渦中の人だ。 ざっくり言うと、 死期が迫った「天智天皇」が、次期大王を弟の「大海人皇子(Oama-no-oji)」ではなく、我が子「大友皇子」を後継者にしたいと願った。 兄の片腕として政権の中心にいた「大海人皇子」だったが、命の危険を感じ自ら出家を願い出て、吉野にて隠棲生活を送る。 「天智天皇」の死後、その後を継いだ「大友皇子」が、叔父である自分を亡き者にしようとしているとの情報が入る。吉野を脱出した「大海人皇子」は、美濃の不破を拠点にして遂に「大友皇子」を自害に追い込み、大王の地位についた。 「大友皇子」は、 “ 乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ ” 『日本書紀』 とあり、「山前」というところで自害したようだ。それはどこか、その地名からは現在の地図で特定できない。「与多王」が父「大友皇子」の供養のために創建したとされている「園城寺(Onjyo-ji)」の背後にある長等山がその場所ではないかという事で、寺院の境内にあるこの「亀丘古墳」が陵墓とされた。 (ただし、そうだとしたら古墳の年代が合わないらしいが。) 「弘文天皇陵」と隣接して、薄暗い森を背負って鳥居が建っていた。 人の気配が全くしない森の中に入っていくと、かなり荒廃した様子の参道が奥へと続いている。 びびりながら進んでいくと…。 こんな所に神社が。 「新羅善神堂(Sinra-zenjin-do)」と書いてあった。何と、こんなところに国宝があったとは! 1595年、豊臣秀吉(Toyotomi Hideyosi)による破却のために、それ以前の建築物が非常に少ない。 「園城寺」鎮守社の1つで、最古の木造建築物となる。足利尊氏(Asikaga Takauji)の再建。 本殿。 ご本尊:木造新羅明神坐像(国宝)。 新羅明神とは、円珍(Entin)が唐からの旅の途中で、教法を守護することを誓ったという神なのだとか。 「園城寺」には、北院・中院・南院と大きく3つのエリアに分けられる。大津市役所や大津市消防局があるこちらのエリア、北院の方まではなかなか観光客も足を運ばないようで、まるで人気がなかった。 こんな森の中に国宝があるのに、びっくりしてしまった。 大津市役所の前にあるモニュメント 『連鎖球体』 (2017年10月下旬現在) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.06.11 22:00:03
コメント(0) | コメントを書く
[神社仏閣巡り] カテゴリの最新記事
|