ニッポンの教養「ドフトエスキーより愛をこめて」
19世紀ドフトエフスキーという小説家が書いた内容が今、現代社会における歪んだ人間像、さまざまな悪の在り方を予見していたという事で、それらの話しの伏線で、数年前に立て続けに起こった通り魔事件について話しが出ていました ドフトエフスキーの「罪と罰」と言う話では、自分が特別な人間と思い込んだ人が、近隣の人を殺していくという内容の部分がありゲストの亀山郁夫氏は秋葉原の通り魔殺人事件は、ここに通じるものがあり、自分が特別な人間 という思い違いで起こされた事件と話していましたがはたして、そうなのか?自分にとっては疑問です まず、この『特別な人間』という存在は、別に本人が思っていなくても、そうなっている事があります 例えば、誰でもなる可能性のある「いじめのターゲット」いじめられる側についてですが、今の社会を見ていると、いじめられる人間が特殊、特別という偏見で見ている事がありあり解ります また、日本では自分とそりが合わない人に対して「鬼」とか「鬼畜」という言葉がありますが、人は、人を蔑むと悪者にされるので、自分の理解し得ない人に対し、人以外の生き物に例えて、「特別な存在」として位置づけて、罵倒する方法を持っています 誰でも、そうした事柄の、ターゲットになる可能性があるのに、周囲の人間の目線で「特別視」される事は案外多いと思います 他にも、人と違う意見を何気なく言ったり、書いたりしただけでも特殊、特別と見なされます つまり、本人が意図していなくても社会が勝手に、『特別な存在』を生み出し、その存在が、何か事を起こす事を息をひそめて、観察して楽しんでいる傾向があるのでは?と思ってしまったりします秋葉原殺人事件では如実にそう言う事が現れていると思われる次第です携帯のネットに書かれた殺人予告を何人もの人達が見ていたはずなのに、それを止めようとする書き込みをせず、何も書かないで、どういう行動をとるのか?様子を見ていた黙視者達の、息づかいっていうものを感じてしまう 犯人の加藤被告自身に、どんな感情があったのか?については、本人でないから解らないけれど、私としては、亀山氏が言った様な、「特別な存在」という優越感で起こされた殺人というよりも、『書いた事に対する使命感』で起こされた殺人事件の意味合いの方が強かったのではないか?と感じ、もし掲示板に殺人を止める書き込みがされていたならば・・・この犯人を『特別な存在』にしなくてよかったのだろうと考えてしまうのです また、加藤被告がおこした殺人事件を「陳腐」と、ののしっていたけれど、はたして本当に「陳腐」であるのか?と、ここでも疑問に思ってしまいました「殺人」は「陳腐」なのか?「殺人」こそ何にも、まさらない一つの真実ではないのか?と考えてしまう私としては、よほど、表向きの奇麗事や、口先だけの人を尊ぶ言葉の方が「陳腐」に感じ、そうした信用できない人間の言葉や心理面が世の中にあふれているから、物質という目に見える物に対して、「殺人」という何にも勝らない変えられない真実が行なわれるのではないか?と考えてしまうのです 「天才」でも「ダウン症」でも「人の命は尊い」とか「死んでいい人はいない」とか言っていても、やはり、自分の気に入らない人がいれば、尊べないし、邪魔人間にいなくなってほしいと思うはずです「天才」でも言った言葉に対する補償は出来ないのです 逆に「殺人」は人を殺した事実は変えられないばかりか、死んだ人間は絶対に生き返る事はないのです 天才でも生き返らせる事ができない人の命を、代償にする事は、ある意味、合理的と思ってしまうのです 下手な言葉よりも、その行動そのものに重みがあるのですそれを単純に、社会悪だからと、「陳腐」と、ののしるのは、いささか疑問に感じてしまいましたいかがでしょう?私自身「罪と罰」は読んだ事はありませんが、この番組の話しを聞く限りではドフトエフスキーの時代よりも、人間の歪みが解りにくくそして巧妙になっていると感じてしまうのですが・・・多分、その時代に今と同じようなネット等の情報源があったとしたら・・・多分、同じ様な事をやっていたはずで、時代が変わって、ある程度の手段が変わっても、人間の奥底にある得体の知れない悪意、殺意という感情は、変わらないのだろうと感じてしまいます ところで、「特別な人間」を作り出して、その動向を楽しんでいる今の社会の中で、そうした「特別な人間」に仕立て上げられ殺人を起こしてしまったら、やっぱり、結局、その監視者達を面白がらせるだけの操り人形のように感じてしまう その監視者達こそ抹消できる方法はないものか?とつくづく感じる今日この頃あっ別に、「デスノート」みたいに誰かを裁いて全能感に浸ろうってもんじゃなくて、本当にこういう奴らが邪魔で、ムカつくから、どうにかしてほしいだけ でも自分がそう言う事しようとすると、犯罪者になるし、それこそ、「特別な人間」という優越感に浸りたいだけだろなんて言われかねないので、誰かにやってほしいのです