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カテゴリ:うるま市
(喜屋武マーブ公園展望台) うるま市にある「喜仲集落」は1956年に「喜屋武/チャン集落」と「仲嶺/ナカンミ集落」が統合された地域で「喜仲/チャンナカンミ」の愛称で呼ばれています。「喜仲集落」のシンボルである「喜屋武マーブ」は旧具志川市で一番標高が高い位置にあり、古より御嶽、グスク、火打ち嶺と役割を変えながら「歴史の証人」として存在し続けています。 (シードゥーガー) (仲嶺の殿) (地頭火ヌ神) 「シードゥーガー」は「喜屋武マーブ」の森にある井泉で、琉球王府時代の男子が15歳になり結髪式の際に身を清める王府公認の井泉です。当時の具志川間切には15の村がありましたが「シードゥーガー」と呼ばれる井泉は仲嶺と田場の2集落だけでした。建造年代は不明ですが、小規模ながら切り石積みで作られ保存状態は良好を保っています。「喜屋武マーブ」の中腹に「仲嶺の殿」と「地頭火ヌ神」があり「琉球国由来記」には『マフノ嶺ノ殿』と記されています。「殿/ドゥン」とは祭祀の際に根神たちが集合する場所で、大きなミートゥ(夫婦)松があった聖域でした。「仲嶺の殿」に隣接して「地頭火ヌ神」が祀られています。旧正月三日の「ハチウクシー/初興し」や年4回の「ウマチー/豊穣祈願と収穫祭」に祈られています。 (山乃神) (マーブの嶽) (マーブの嶽/祠内部) 「喜屋武マーブ」の北部に「山乃神」があり祠は南西を向いています。祠内には"山乃神"と彫られた霊石が設置されています。「山乃神」を更に北に進んだ森の奥地に同じく南西に向いた「マーブの嶽」が佇んでいます。「仲嶺集落」の守護神で「琉球国由来記」には『マアブノ嶽』と記されています。近世では、この御嶽から煙を焚いて旅に出る家族を見送った事で「火タチモー」と呼び、旅の安全を祈願する役割も果たしています。 (喜屋武按司の墓) (喜屋武按司の墓) (喜屋武按司の墓/アコウの木) 「喜屋武グスク/喜屋武マーブ」の中腹には「安慶名大川按司」一世の四男である「喜屋武按司」の二男と三男の按司墓があります。1972年(昭和47年)に行われた按司墓の修復の際、釉薬仕上げの御殿(ウドゥン)型の厨子甕(ジーシガーミ)が2基確認され、いずれの墓からも遺骨が発見されました。因みに「喜屋武グスク」の4代目按司になる「大城賢雄」は1458年の「阿摩和利の乱」で「勝連グスク」城主の「阿摩和利」を討伐した人物で「鬼大城」の名で知られています。 (仲嶺のブーマー神) (仲嶺の村神/喜屋武按司神屋) (仲嶺の根人屋/ニーチュヤー) 「仲嶺集落」北部に「仲嶺のブーマー神」があり霊石が祀られています。ブーマー神とは古代の先祖の葬所で祖霊神が鎮座する聖域で、関係する御嶽を遥拝する場所だと考えられています。更に「仲嶺のブーマー神」は海が見える小高い場所にあるため、神様が住む理想郷であるニライカナイから豊穣の神様を迎える御嶽との説があります。「仲嶺の村神/神名イシズカサノ御イベ」は「喜屋武按司神屋」の新築に伴い2003年に同じ建物内に合祀されました。新しく仲嶺の住民になった際に引っ越しの報告、家庭円満、無病息災等を祈願します。ウマチー(豊穣祈願/収穫祭)ではお粥を作ってお供えします。「仲嶺の根人屋」は仲嶺集落に初めて住み始めた「根人/ニーチュ」が暮らした場所として伝わっています。 (カミミチの東側入り口/喜仲4丁目5番地) (カミミチの西側入り口/喜仲4丁目4番地) 「仲嶺集落」には「カミミチ/神道」と呼ばれる道があります。「カミミチ」は非常に神聖な道で「マーブの御嶽の殿」を参拝する時に籠に乗って通る道でした。また、龕(ガン)という葬列葬式に棺を入れて墓まで運ぶ神輿を運ぶ時に決して通ってはいけない道でした。「カミミチ」に接する家では「カミミチ」側に台所、便所、畜舎は作らず必ず一番座(床の間)を設けます。そのような特別な家の設計を「ヒジャイガメー」と呼びます。 (仲嶺の産泉/ウブガー) (昭和タマガー) (仲嶺の根人井/ニーチュガー) 「カミミチ」には「仲嶺の産泉/ウブガー」があります。集落で子供が産まれると産泉に報告し加護を祈念しました。赤子の額を「ウブガー」の水で撫でた後に産湯として使用しました。結婚の時には新婦は産泉の水を婚家の仏壇に供え、正月には若水を汲み身を清めるお茶をたてて心身の若返りを祈願しました。また、日常の生活用水や死者の湯かんにも「ウブガー」の水が使われていました。「喜屋武マーブ」の麓には井戸が点在し「昭和タマガー」や「仲嶺の根人井」からも豊かな水が湧き出ていました。井泉は水の神様に祈る拝所として集落の住民に崇められていました。「仲嶺集落」では旧暦の8月に集落にある数十ヶ所の井泉を巡り祈りを捧げる「カーウガミ」が行われています。 (喜屋武マーブ公園) 「喜屋武グスク」は別名「喜屋武マーブ」「仲嶺マーブ」または「火打嶺/ひうちみね」とも呼ばれていますが、地元では「喜屋武マーブ」の名称で親しまれています。首里王府が海上を見張らす為に琉球国内各地の要所に遠見番を置き御冠船、進貢船、薩摩船の入港を王府に通報する烽火台を設置しており、火立(ヒタチー)があった場所でもあるため「喜屋武グスク」は「火打ち城」とも呼ばれていました。現在は「喜屋武マーブ公園」として整備されて地元の住民の憩いの場として愛されているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.10.29 19:45:58
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