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カテゴリ:嘉手納町
(イユミーバンタからの比謝川河口) 沖縄本島中部の西海岸に「嘉手納町」があり「読谷村」との境を流れる比謝川の河口に「イユミーバンタ」と呼ばれる断崖絶壁の丘稜が聳え立っています。「イユ」は"魚"、「ミー」は"見る"、「バンタ」は"崖"という意味で、昔の住民はこの崖の頂上から海を眺めて魚の群れを発見して漁をしていました。「イユミーバンタ」から「嘉手納漁港」までの比謝川沿いの道は「イユミーバンタ通り」と呼ばれ、その周辺は貴重な遺跡文化財が多数存在しています。 (奥間ぬ毛) (水釜の洞) 比謝川河口の入り口に「奥間ぬ毛」と呼ばれる小高い崖があり、その麓に「水釜の洞」のガマがひっそりと佇んでいます。この地は「水釜」の地名の由来になった場所で、戦前は洞窟の入り口まで海水に浸かり、漁師達が船を繋ぐ場所として利用されていました。洞窟内のシージル(岩汁)により岩ひだに溜まった真水は貴重な飲料水として利用されていました。現在も洞窟の上部より岩汁が滴り落ち「奥間ぬ毛」の神水として崇められています。 (水釜の洞の拝所) (水釜の洞の龍宮神) 「水釜の洞」のガマ周辺は昔、唐の国から沖縄本島を探索しに来た人々が船を縄で結びつけるため、縄を投げ打った(打ち縄)ことから「ウチナー(沖縄)」の地名の由来になった場所だとの伝説があります。「水釜の洞」には拝所があり、祠には霊石が祀られておりガマからのシージル(岩汁)への感謝が祈られています。また「龍宮神」の祠にはウコール(香炉)が設けられ、海の安全と豊漁を祈る拝所として大切に祀られています。 (読谷村渡久地から見たイユミーバンタ) (イユミーバンタ通りの始点) (イユミーバンタの崖) 「水釜の洞」を始点とした比謝川沿いに進む道は「イユミーバンタ通り」と呼ばれています。戦前まで比謝川河口流域は「沖縄八景」と呼ばれるほど美しい場所として人々に愛されていましたが、沖縄戦で米軍がこの比謝川河口より沖縄本島に上陸し水釜集落は戦火に襲われました。上陸する米軍に対抗する旧日本軍は読谷村側の比謝川流域にある天然洞窟に特攻艇の基地を構え、爆薬を載せたベニヤ作りのモーターボートで米軍の船に特攻攻撃で玉砕し、多数の死者が出た歴史があります。 (ヤラバンタ) (ナナチジョーバカ/七門墓) (水釜シチャヌカー/下ぬ井戸) 「イユミーバンタ通り」を進むと「イユミーバンタ」の隣に「ヤラバンタ」の崖が続きます。「ヤラバンタ」南側の丘稜には「嘉手納集落」の伝説の豪勇「カディナーチナー」の墓である「ナナジョーバカ(七門墓)」があります。この墓を築く際に掘られた井戸が墓の南側にある「水釜シチャヌカー」だと伝わります。「嘉手納集落」周辺の村人にも貴重な飲料水として利用され、現在でも井戸拝みのために多数の人々が訪れます。石積みで保存状態の良い「水釜シチャヌカー」は、嘉手納町内に現存する最古の井戸だと推測されています。 (西タケーサーガマ) (仲今帰仁按司祖先之墓) (仲今帰仁按司祖先之墓) 「ヤラバンタ」北側丘稜の中腹に「西(イリ)タケーサーガマ」があり、この洞窟には「仲今帰仁按司祖先之墓」が祀られています。14世紀頃、今帰仁城第四代城主「仲今帰仁按司」が家臣の反乱に遭い滅ぼされた時、難を逃れた中北山の一族が今帰仁城の一代目から三代目までの城主の遺骨を水釜の「西(イリ)タケーサーガマ」に葬りました。「初代屋良大川按司」は第三代今帰仁城主の五男にあたり、祖父の墓を大事に守ったと伝わります。 (東タケーサーガマ) (東タケーサーガマ) 「イユミーバンタ通り」を更に東に進むと「ヤラバンタ」東部の崖麓に「東(アガリ)タケーサーガマ」があります。このガマは入り口がコンクリートブロックで完全に封鎖されており、4基のウコール(香炉)に霊石が供えられています。入り口には空気穴もなく頑丈に密閉されている事から、沖縄戦で亡くなった人々の共同無縁墓だと考えられますが詳細は不明です。かつては風葬に使われていたガマの可能性もありますが、霊魂が閉じ込められているような雰囲気が漂う不気味さに包まれています。 (水釜発祥之碑) 「ヤラバンタ」から更に「イユミーバンタ通り」を東に300メートルほど進むと右手に小高い崖があり、その比謝川を望む頂上に「水釜発祥之碑」が建立されています。「水釜」ほ今から約250年前、久米の人毛氏奥間家の祖先「乗仁」が初めてこの地に移住しました。その後12家の祖先が移住して「水洞屋取」を形成しました。その後「水洞屋取」は所属していた「字嘉手納」から独立して昭和13年に「水釜」と改名したのです。 (感應の宮) (感應の霊石) 「水釜」は農業で生計を維持し、主な作物は甘蔗(サトウキビ)と甘薯(サツマイモ)でした。沖縄戦において水釜海岸は米軍の上陸地点となり、激しい艦砲射撃によって「水釜」は焼け野原となりました。大正6年に「水釜」の鎮護と豊作繁栄を祈願して建立された「感應の宮」は"お宮“と呼ばれ「水釜」の守護神であり、戦後の貧しい人々の心の拠り所でした。戦後の復興を遂げた現在でも「水釜」の住民は"お宮"を建立した祖先の偉業を讃えて大切に守り続けています。 (嘉手納漁港) 「イユミーバンタ通り」終点の「嘉手納漁港」です。漁港を出発する一般客向けの漁船や、比謝川をカヌーで下るレジャーも増えてきています。「イユミーバンタ通り」には未だに解明されていないガマや墓が多数存在しています。今後の調査により琉球の歴史を変えるような遺跡や文化財が発見される可能性もあります。かつて「沖縄八景」と呼ばれた絶景を誇った歴史と自然豊かな「水釜」が復活してほしいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.03.06 23:21:45
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