569558 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

パワースポット@神の島「Okinawa」

パワースポット@神の島「Okinawa」

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

kasurichan1010

kasurichan1010

カレンダー

バックナンバー

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

gomagoma0610@ 恩納ナビーの墓について 佐野哲寛さんへ コメントを下さり誠に有…
佐野哲寛@ Re:恩納ナビーの琉歌の里@恩納村「恩納ナビーの歌碑/恩納集落」(10/05) 恩納ナビーのこの写真のお墓はどの辺りに…
地域の人@ Re:七神を祀る霊域と美女伝説の湧き水@那覇市「松川殿之毛/松川樋川」(06/17) 初めまして、松川樋川は「松川ミーハガー…
まるぴ@ Re:集落発祥の秘話と四方神の恵み@沖縄市「登川/ニィブンジャー集落」(01/25) 母方の名前が登川です。 今人生の折り返し…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2022.12.11
XML
カテゴリ:北谷町

(ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン)

沖縄本島中部の西海岸に「北谷町/ちゃたんちょう」があり、この町の北西部に「浜川集落」があります。沖縄の言葉で「ハマガー」と言うこの集落の中心部には「ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン」があり、この御嶽の森の西側沿いに戦前まで「テツドー」と呼ばれる「沖縄県営鉄道嘉手納線」が南北に走っていました。1922年3月に開業した鉄道は那覇市「小波蔵駅」と嘉手納町「嘉手納駅」を結び全長は22.4kmでした。太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、沖縄戦で米軍により路線施設が破壊され消滅しました。この「テツドー」が通る以前は海岸線の「シラハマ」という名前の砂浜が集落の近くまで押し寄せていたと伝わります。この「シラハマ」は現在は埋め立てられていますが、戦前まで集落の住民の恰好の水浴びの場でした。


(浜川ウガン/ハマガーウガン)

(浜川ウガン/ハマガーウガンの祠内部)

奇岩屹立した「ヨリアゲノ御嶽」の岩山(シー)の南側麓に「浜川ウガン/ハマガーウガン」の祠があり「浜川オガン/ハマガーオガン」とも呼ばれています。「浜川ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『島森ヨリアゲノ嶽 神名 イシノ御イベ 浜川村 平安山巫崇所』と記されています。琉球石灰岩が用いられた寄棟造の家形祠は南側に向けて建立されており、祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と霊石が祀られています。戦前まで旧暦2月には集落に悪疫の侵入を防ぐ行事である「シマクサラシ/シマクサラサー」が行われ、旧暦3月には父方の共通先祖を持った「門中/ムンチュー」と呼ばれる血縁者達が本家に集まりご先祖様の墓参りをする「カミウシーミー/神御清明」で拝されていました。


(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)

(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)

(按司墓の陶器製厨子甕)

「浜川ウガン」の祠北側には「ヨリアゲノ御嶽」の岩山が聳えており、丘陵のほぼ頂上付近の斜面に「按司墓」があります。墓前には2基の石造りウコールが祀られており墓は野面積みの石垣を土台にブロックが5段に積まれています。このブロックの上部は開いた造りとなっており古琉球の風葬墓である事が見て取れます。この風葬墓の内部には三基の蓋の無い陶器製厨子甕が安置されており、厨子甕の内部に人骨が確認出来ます。この古墓は「浜川集落」の土地を治めていた按司の墓で、陶器製厨子甕の細かい装飾から見て、この三基の厨子甕に葬られた人物達は身分の高い豪族の物である事が分かります。古琉球では崖や洞窟に遺体を置き数年間かけて腐敗を待ち洗骨し厨子甕に納骨します。崖や洞窟は古来「現世と後世」の境界の世界と考えられ、聖域であると同時に忌むものとされていました。


(ヨリアゲノ御嶽の古墓)

(ヨリアゲノ御嶽の森)

(ヨリアゲノ御嶽の森)

「按司墓」の下方で「ヨリアゲノ御嶽」の丘陵中腹にアコウの根が幾つも絡みついた古墓があります。墓門には石造りウコールと霊石が祀られており、墓に向かって左側にはあの世のお金である「打紙/ウチカビ」を焚く「銭倉/ジンクラ」が設けられています。この古墓も「按司」に関係する人物の墓であると考えられます。「浜川ウガン」や「ヨリアゲノ御嶽」がある岩山の森は「浜川ウガン遺跡」として北谷町文化財指定第一号として登録されています。この遺跡の丘陵南側には8〜10世紀の貝塚が形成されており、丘陵の上部から投棄された遺物が地層に組み込まれていると考えられています。また、この遺跡は祭祀遺跡の可能性もあり詳しい調査が必要だと言われています。類例遺跡として伊是名島の「アギギタラ貝塚」があります。


(字浜川旧部落の銘石)

(殿之神/浜川之殿)

(殿之神/浜川之殿の祠内部)

「浜川ウガン」の南側に隣接する場所に「殿之神」の祠があり「浜川之殿」とも呼ばれています。『琉球国由来記』には『浜川之殿 浜川村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛浜川地頭、神酒三宛芋。同村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。また、1731年に成立した漢文による地誌である『琉球国旧記』には『浜川殿 在浜川邑』と記されています。祠内部には「殿之神」と刻まれた石碑がありウコールと霊石が祀られています。「殿之神」で行われる行事は旧暦2月に豊年満作と健康祈願する「ニングヮチャー」、旧暦2月の麦の初穂祭である「ニングヮチウマチー」、旧暦3月の豊漁と海の安全を祈願する「サングヮチャー」、旧暦5月の稲の豊作祈願の「グングヮチウマチー」、旧暦6月の稲の収穫祭である「ルクグヮチウマチー」で「ウカミヤー/御神屋」と呼ばれる屋号「クラニー/蔵根」の家が取り仕切っていました。


(瀧宮神)

(瀧宮神のヒヌカン/火の神)

(合祀拝所)

「殿之神」の祠に向かって左側に「瀧宮神」があり、安良波原の西側海岸に連なる「アラファヌシー」と呼ばれる岩礁の「瀧宮神」へ遥拝する為に設けられたと伝わります。戦前は背の高いスーティーチャー(ソテツ)があり、それを目標にして祈願が行われていたと伝わります。「瀧宮神」があるこの広場は旧暦3月3日に重箱を持ち寄り海の神様にお供えして拝していました。この「瀧宮拝み」の行事が終わった後に酒宴を行なっていた事から、この一帯は「サングヮチャーモー」と呼ばれています。「瀧宮神」に向かって右隣りに3体のビジュル石と1つの霊石が祀られた「ヒヌカン/火の神」があります。「瀧宮神」に向かって更に右側奥には4基のウコールが並んでおり「拝所カーシヌシー」「拝所アワグルン」「拝所トグチヌマタ」「拝所シリーン作」と記されています。「カーシヌシー」は集落の北側で米軍嘉手納基地の敷地内に位置する岩山の事で、現在この4基のウコールは米軍嘉手納基地内に点在する拝所をウトゥーシ(御通し)する合祀拝所だと考えられます。


(メーガー/浜川集落の合祀井戸)

(浜川集落の合祀井戸のウコール)

(浜川集落の合祀井戸の建物内部)

「浜川ウガン」から南東側に約200メートル程の位置に「浜川集落の合祀井戸」があります。集落には先人達が使用したと伝わる「メーガー・クシヌカー・イリヌカー・イリクシヌカー」の4つのカー(井戸)があり、この合祀井戸には「メーガー」に他の3つの井戸が併せて祀られています。「クシヌカー」は国道58号線の拡張により消滅しましたが、子供が生まれた時の産水を汲む「ウブガー/産井」として使用されていました。「イリヌカー」は集落の西側にあった事からその名称が付けられ「イリクシヌカー」は集落の西側後方で現在の国道58号線上にありました。合祀拝所には向かって右側から「前之神井戸・後之神井戸・西之神井戸・西後之神井戸」と記された銘石があり、前方には4つの井戸を示す4基のウコールが祀られており、一番手前には合祀拝所を祀るウコールが設置されています。


(アマジチメー)

(ウカミヤー/御神屋)

「ヨリアゲノ御嶽」の西側で「シラハマ」の北側一帯は「アマジチメー」と呼ばれ、海岸沿いに沢山の墓がありました。ここは昔から病死した家畜や浜に流れ着いた水死体、さらに無念仏などを葬る土地でした。また、この地には「ナーファバカ/那覇墓」という墓があったと伝わり、その墓の主は那覇の人であったと言われています。現在もこの場所には多数の大きな「カーミナクーバカ/亀甲墓」が点在しています。この「アマジチメー」にある屋号「クラニー/蔵根」の屋敷に「ウカミヤー/御神屋」があります。この家は「浜川集落」の草分けの家筋で、創始者を祀る建物は母屋とは別に屋敷の東側に所在しています。「浜川集落」の創始者を祀る仏壇がある「ウカミヤー」は「アサギ」とも呼ばれ、旧暦2月・旧暦5月・旧暦6月のウマチー(三ウマチー)の際に家主により拝されています。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023.06.24 22:37:45
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.