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カテゴリ:ぶどう 庭の花 木 メダカ
庭の桜 葉も 残りは2枚くらい さて 来年は 花がさいてくれるかな ??? まあ 楽しみでもある 09月12日 桜の葉 2枚だけ 残っている 11月19日 桜の葉 まだ 2枚 残っている すこし 紅葉してきているかな 2018年 04月04日 発芽して 葉もでできている が 花はなし 05月05日 さくら 葉だけは まあまあある 今年もこのまま おいておこう 05月12日 まあ 庭においておくだげでも さくらの木はいいものだなあ 08月11日 さくら 葉が 猛暑で やや黄色になったりしている 水不足かな 09月02日 さくら 葉が まったく なくなってしまった 鉢なので水の不足かな ?? 10月14日 さくら 枝から 芽が膨らんできて 葉が 出てきた 秋の葉がついた 11月17日 庭のさくら 葉がついている 秋になって 葉は 青々としている 12月01日 普通の桜の葉は紅葉して落下しているが 庭のさくらの葉は青いなあ 12月22日 さくらの葉 青々としていたが 氷点下の気温になると さすがに紅葉した 12月29日 さくら 葉は全部 また 落下した しかし 枝の芽は膨らみつつある 2019年 01月12日 さくら 枝がふくれてきている 花なのか 葉なのか どっちかな 02月02日 さくら 芽が膨らんできている 4月になると 葉も出てくる 02月16日 さくら 枝の芽 2つの種類があるので 花と葉の芽かな 03月02日 さくら 芽が やや 色づいてきている よし 03月16日 さくら 芽が青々としてきている ふくらんでいる 03月21日 さくら 花芽も ふくらんでいる 花もそろそろだなあ 03月23日 さくら 開花も近いなあ 葉もでてきている 03月31日 さくら 花の開花は もう 数日だなあ 04月06日 さくら 花が咲いた 満開だなあ 05月19日 さくら 葉が茂ってきて伸びてきた 紐て固定した 06月22日 さくら 水が不足しているのかな 葉の色が やや 茶になっている 09月07日 さくら 葉も秋になって 枯れてきているなあ すくなくなってきている 11月24日 さくら 枝の芽 たくさん ついてきている 12月21日 さくら 花の芽 もついてきている 春は花が咲いてくれそう 2020年 01月01日 さくら 花芽 膨らんできている 花が楽しみなり 01月25日 さくら 花芽 いい感じだなあ 花が咲くのは4月なり 02月01日 さくら 花芽 芽のふくらみ たくさんあるなあ 02月08日 さくら 花芽 膨らんできているなあ いい 02月15日 さくら 花が咲くのは4月なりまだ 早いなあ 02月22日 さくら 芽はふくらんできている 見た目は目立っている 02月29日 さくら 花芽 膨らんできている 花が咲くのは もうすぐだなあ 東浩紀 おべんきょうその033 人生論 東浩紀は、『弱いつながり』の序文にあたる「はじめに」において、次のように説いている。 ぼくたちは環境に規定されています。 「かけがえのない個人」などというものは存在しません。 ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。 あなたは、あなたの環境から予測されるパラメータの集合でしかない。 ……しかしそれでも、多くのひとは、たったいちどの人生を、かけがえのないものとして生きたいと願っているはずです。 ……ここにこそ、人間を苦しめる大きな矛盾があります。 ……それは哲学的に言えば「主観」と「客観」……の違いということになりますが、 ……みないちどは感じたことがある矛盾ではないかと思います。 その矛盾を乗り越える……有効な方法は、ただひとつ。 ……環境を意図的に変えることです。 — 東浩紀、『弱いつながり』、幻冬舎、2014年、「はじめに」、9~11頁 東は、『弱いつながり』において、「観光客」という概念を提出し、「観光客」という生き方を提案する。 人間は、環境の産物に過ぎない。 Googleが、その人物の過去の検索履歴や閲覧履歴から、思考や行動を予測しているように、その人物の人生は環境から予測可能であり、その上、その環境に閉じ籠もっている限り、その人物は、その環境の規定から外れた人生に移行することができない。 そこで、東は、「観光客」として旅に出ることで環境を意図的に変え、「非日常」たる観光のなか、自分が「村人」として暮らしている「日常」では得ることのできないノイズに晒され、新しい検索ワードを得ることを説く。 「観光客」になることによって、自分が自分の属する場所の「村人」であることを忘れないながらに、しかし「村人」であることから一時的に自由になることができる。 「観光客」は「旅人」でもない。 ある一箇所に留まる「村人」と、留まることなく移動する「旅人」と、その二つの間を「無責任に」往復する人間を、東は「観光客」と定義する。 そして、その旅にも決して過剰な期待はせず、あくまでも偶然性に身を委ねることを説く。 東浩紀の哲学は先述のように二元論を基礎としている。 『存在論的、郵便的』では「郵便空間」と「誤配」の概念、二つの超越論性について説かれ、『動物化するポストモダン』では二つの原理にかかわる「動物化」について説かれ、『一般意志2.0』では「人間的公共性」と「動物的公共性」について説かれた。 人生論と明記された『弱いつながり』では、東が旅先で思索した人間についての考察を軸に話を進めながら、「記号」と「記号にならないもの」、「言葉」と「モノ」、「必然性」と「偶然性」、「強い絆は計画性の世界」と「弱い絆は偶然性の世界」等々の二項対立が書き出されていき、その間を移動する存在として「観光客」が説かれる。その要所要所では、先行する著書に説かれた哲学の問題意識とのかかわりを説明している。 東は「弱さ」や「偶然性」の大切さを確認した上で「偶然性に身を曝せ」と書いている。記号のみによって作られているインターネットへの接続を維持したまま、観光旅行という形で一定以上の時間をかけて体を移動させ、記号にならないものに触れよう、という『弱いつながり』の内容は、そのための行動について述べているものである。 また、ある親からある子が生まれる偶然性について語り、人生の基礎にある偶然と、弱い絆のとしての親子関係についても述べられている[112]。 『弱いつながり』の思想について、紀伊國屋じんぶん大賞受賞時の次のようなコメントを発表している。 本書でぼくが訴えたかったのは、ひとことで言えば、「哲学とは一種の観光である」ということです。 観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。 哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に専門知はありません。哲学はどのジャンルにも属しません。 それは、さまざまな専門をもつ人々に対して、常識外の視点からぎょっとするような視点を一瞬なげかける、そのような不思議な営みです。ソクラテスの対話編には、哲学のそんな本質がすでに明確に刻まれています。 ……(中略)…… 哲学は役に立つものではありません。哲学はなにも答えを与えてくれません。 哲学は、みなさんの人生を少しも豊かにしてくれないし、この社会も少しもよくはしてくれない。そうではなく、哲学は、答えを追い求める日常から、ぼくたちを少しだけ自由にしてくれるものなのです 。観光の旅がそうであるように。 — 東浩紀、紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞コメント はた坊 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.03.05 02:52:50
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