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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.08.29
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カテゴリ:国内旅行
​​更に東照宮の見学を続ける。
​​​-​​​​​が今回の見学ルート。



         【https://www.nikkotoshogu.com/html/kosu/toshogu.html】より

右手に神楽殿、左に祈祷殿。



「奥宮(おくみや)」への入口を守る「眠り猫」を見に行く。



日光東照宮でもうひとつ有名なのが、この「眠り猫」。
家康公の眠る墓所「奥宮」に通じる「東回廊潜門(ひがしかいろうくぐりもん)」の
上部に刻まれている。
家康公の御遺骸が納められている大切な場所で、何をのんきに眠っているの?と思いますが、
実は「猫がのんびり眠っていられるほど平和な世の中になるように」との願いが
込められているのだと。
この眠り猫は、伝説の彫刻家と伝わる「左 甚五郎(ひだり じんごろう)」が
制作したと薄めされる彫刻。しかし、本当に左 甚五郎の作品かどうかは、現代においても
定かではないのだと。



斜めから眺めると獲物を狙っているような、今にも飛びかかりそうな顔に。
心なしか前傾姿勢にも感じられます。なんとも不思議な彫刻。



ネット情報によると
『日光東照宮では、平成の大修理が平成9年から執り行われ、境内の老朽化した建造物などが
 修理の対象となった。そしてこの眠り猫もいよいよ2016年6月に修理されることになり、
 一旦、この坂下門から取り外された。
 その後、2016年11月に坂下門に戻ってきましたが、よく見ると..ぬぅあんと!
 「薄目で少し目が開けられた状態」で戻ってきたと。
 この目が開いているという事実は、飾られてから1ヶ月半経た後に判明したそうです。
 目が開けられた理由としては、参照した大正・昭和期の図面の目の部分が黒で塗られて
 いるのを見た彩色担当者が、目の中心部分の黒さを強調し、更に周りを灰色にしたため、
 目が開いたようになってしまったと。
 江戸期以降、近代まで一説では「眠り猫の目は主人(家康公)を守るため薄目で
 少し開いていた」という説があるのは事実ですが、確証があるわけではありません。
 このため、「薄目を開いた眠り猫」は、判明後、すぐに再修理に出され、現在は
 従来通りの眠り猫が据えられています。』と。
三猿の顔と言い、薄目を開いた眠り猫と言い、修理では色々な事が起きるのですネ!!
下の写真は、昨年11月、修理完成直後の「眠り猫」の写真とのことです。
なるほど、薄目を開いている様に見えますね。


  【https://www.sankei.com/premium/photos/170730/prm1707300021-p1.html】より

実は、この眠り猫の彫刻の裏側には「雀(すずめ)の彫刻」が据えられています。
天敵であるはずの猫(眠り猫)の裏側に、なぜか雀が据えられているのです。
この理由は、猫が起きていれば雀は食べられてしまいますが、猫が居眠りしていれば
雀と共に共存しているという平和の願いが込められているのだ、と云われています。
つまり、「警戒心の強い猫すらも安心して眠りに付ける世の中の到来」を意味し、
さらに「天敵である猫が眠っている時にスズメが安心していられるように、
弱い者も安心して過ごせる世の中である」といった深い意味合いがあるようです。
これはすなわち「猫が眠りに付くほど、徳川幕府(江戸幕府)の時代が平和であり、
この平和が末永く続くであろう」という意味も込められていると。



東回廊潜門(坂下門)を振り返る。



杉の木立の中を奥宮に向かって進むとひんやりとして、
澄んだ空気が気持ち良いのであった。



全部で207段もある石段。その踏み石は全て大きな一枚石でできていて、石柵も一枚石を
くり抜いて造られているのだと。
石段を昇った先には奥社の入口となり銅鳥居が建っていた。
この銅鳥居は1683年(天和3年)に5代目将軍徳川綱吉公が奉納した鳥居であり、
鳥居の扁額(へんがく)は後水尾天皇の勅筆と。



奥宮拝殿への石段の両側にいる狛犬達。
重要文化財に指定されており、関東最古の狛犬であると。
阿形の狛犬は巻毛。



吽形の狛犬はウェーブのかかった鬣(たてがみ)。



拝殿【重要文化財】。
人数が集まると順番に、多くの観光客に対して一斉に、
神職の方が奥宮について説明をしてくれたのです。



説明を聞いた後は拝殿裏の「鋳抜門(いぬきもん)」へ。




門の軒下には「蜃(しん)」という伝説の生き物の彫刻が
守護神として墓の入口を守っていた。



「御宝塔」(御墓所)。



家康公の神棺をおさめた5mの御宝塔。
しんと静かな空気があたりを包んでいた。



宝塔の前に置かれた鶴の蝋燭立て・香炉・花瓶は、朝鮮から贈られたものであると。



御宝塔の周りをぐるりと歩くと、大きな杉の木が。
こちらは願い事を唱えると叶うといわれているご神木「叶杉」。
カップルが仲良く手を合わせて。
何を祈っているのであろうか?チョット二人の間の空間が気になるのであった。



鋳抜門を宝塔側から。



そして拝殿の見学に向かう。拝殿内は写真撮影禁止であった。
拝殿・石の間・本殿は、東照宮の中心となる建物で御本社とも呼ばれています。
拝殿は文字通り、神様に拝礼するための御殿。
構造は、屋根は入母屋造【いりもやづくり】で正面に千鳥破風が付き、正面の向拝は
軒が唐破風。豪壮な造りで、柱や粱などにも地紋彫が施され、細部に至るまで
おびただしい数の彫刻や絵画、極彩色の文様で埋め尽くされていた。

そして再び拝殿前の唐門の前に。


唐門は絢爛豪華な極彩色の陽明門とは対照的に貝殻をすりつぶした故粉で
塗られた繊細な小さな門。
本社の正面で正面3m側面2m正面の扉は唐木寄木細工の両開桟唐戸。
屋根の下には寄木細工の昇り竜、降り龍と、白と黒を基調とした破風下や、
長押には中国の聖人賢者の堯、舜、巣父、許由、竹林七賢、 仙人、七福神、
花鳥、水鳥が施されていた。



この門は江戸時代には将軍に拝謁できる身分の幕臣・大名のみ、ここをくぐることを
許され今も大きな祭典と国賓相当の参拝者にしか開くことはないとの事。
門の上の中国の聖人賢者。



唐門の向こうに工事中の拝殿の足場が。
人物の彫刻は、陽明門と唐門にしか置かれていない。 唐門には6体・64人の人物彫刻があるのだと。



再び陽明門を拝殿側から。



拝殿側にも見事な龍の彫刻が。



「魔除の逆柱(まよけのさかさばしら)」
12本の柱には胡粉(貝殻をすりつぶしてつくった白色の顔料)が塗られ、
グリとよばれる地紋が彫られています。しかし、内側の2本目だけが
他の柱と逆に下向きになっています。



1本だけ渦巻き文様の向きが逆の下向きになっている柱が。
東照宮にはこのように一箇所だけ他とは異なる仕様に仕上げている細工が
あちこちで見られます。
この理由として言われているのが「完成された建物は、いずれは崩壊する。
正に完成した瞬間から崩壊が始まる。」
という言い伝え。陽明門の逆柱は未完成というわけではありませんが、
敢えて1つだけ仕様を変えることでまだ完成した完璧な建物ではないよと
いうことを表わしており、この逆柱は魔除けの意味があるとされていると。



陽明門内部の天井には、「昇り龍」と「降(くだり)龍」(狩野探幽作)が描かれていた。
『八方睨みの昇り龍』と呼ばれる「昇龍」。



こちらは別名「四方睨みの龍」と呼ばれる「降龍」。



陽明門正面上層高欄。
中央の高欄部分に9個の唐子彫刻が施されていた。
同様に陽明門の左右と背面にも唐子彫刻が。



陽明門上層高欄の唐子彫刻。
左から「石拳」、「蝶捕り」、「竹馬(木馬)遊び」、「鬼ごっこ(ことろことろ)」。



中央の「司馬温公の瓶割り」
大きな瓶に落ちた友達を助けるために石で瓶を割っている温公(左から二人目)、
勉強よりも命の大切さを教えている彫刻であると。
そして中央右隣の「石拳」、「舞踏」、「奏楽」。



そして陽明門右端の「孟母三遷(もうぼさんせん)」。
子供が勉強するようにと、環境の良い場所を探して、三度引越をしたという孟子の母親の話。
彫刻では、青い表紙の本を読む子供時代の孟子と、その左側に母親が配されています。



鼓楼前の廻転燈籠。
オランダから献上された回転灯籠。
オランダは、鎖国下の日本において欧州の国の中では唯一交易が認められていた国であり、
東照宮へは3回奉納を行っている。この回転灯籠は1643年にオランダの東インド会社から
贈られた銅製燈籠でアムステルダムで製作され、長崎出島を経て陸路江戸まで運ばれたと。



よく見ると中央の三つ葉の葵の御紋が逆さまになっている。
オランダで製作した際に間違って御紋を逆さにしてしまったのだと
故に「逆紋の回転灯篭」と呼ばれているのだと。
これ、日本人だったら切腹?断罪?のところであろうが
オランダ人が制作したのでお咎めがなかったとか。
下の写真は今回撮った写真ではなく前回訪ねた時の写真ですが。



そして本地堂(薬師堂)を訪ねた。
日光東照宮には「眠り猫」と同じぐらい見逃せない場所。
それは、天井に龍が描かれている「薬師堂(本地堂)」。
靴を脱ぎビニール袋に入れ、順番を待つ。ここの内部も撮影禁止。
この薬師堂の、縦6m、横15mの巨大なヒノキ板が34枚もはめ込まれた天井には、
狩野派の「狩野永真安信(かのう えいしん やすのぶ)」によって描かれた8mの
龍の水墨画があります。この龍こそが「薬師堂の鳴き龍」と呼ばれている龍の絵。
龍の顔の下で拍子を打つとカーンと音が鳴ったあと音が共鳴し、鈴を転がしているような
龍の鳴き声に聞こえるため、「鳴き龍」または「鈴鳴龍」と呼ばれているのです。
拍子を鳴らす場所、顔から離れた場所によっては音が共鳴せず、全く鳴かない場合も
あったのです。



日光東照宮の時を告げていた鐘楼と鼓楼
陽明門の手前にある櫓(やぐら)のような二つの建物、奥がが 鐘楼 、手前が鼓楼。
読んで字のごとく、 鐘楼 には鐘(かね)が納められていて、鼓楼には太鼓が納められています。



こちらは鐘楼前の朝鮮鐘。
1643年に4代将軍家綱の誕生のお祝いに来日した朝鮮通信使から鐘と花瓶香炉、燭台が
贈られたと。鐘の側面には、「朝鮮国王が東照宮におさめるために作らせたもの」という
意味の文面が見られます。使われた対馬から取り寄せたものです。
龍頭(鐘をるための上部の突起)に小さな穴(日本の鐘にはないもの)があるなど、
朝鮮鐘の特徴も見られます。このことから、別名「虫蝕の鐘」とも呼ばれています。



そして表門から出て「授与所」前に。



参道を下る。



参道の途中では日光猿群団の猿?が活躍中。



長い竹馬乗りを披露中。



暑い中、お疲れ様です。




              ・・・​つづく​・・・​​​​​​





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Last updated  2018.08.29 11:52:48
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