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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.07
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カテゴリ:国内旅行

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

新金谷駅を後にして、次の目的地は静岡県掛川市上土方嶺向にある『高天神城跡』。
国道473号線を走り、JR金谷駅前を通過し右手に旧東海道石畳(金谷坂)を右手に見ながら
坂道を登っていく。
途中車を駐め、大井川そして県道381号線に架かる大井川橋を見下ろす。



静岡『空港入口』交差点を直進。
此処を左折すると静岡空港へ。
私が日本国内で利用したことのない数少ない空港の一つ。



そして茶畑の中を30分ほど走ると左手に『高天神城址(たかてんじんじょうあと)』と書かれた
案内板が。後ろの山が鶴翁山と言われ、山全体が『高天神城址』であると。



標高132メートルの鶴翁山の北麓に到着。
ここは高天神城の搦手側にあたり、ここから整備された登山道が山頂まで通じていた。
鶴翁山の裾野に在った大きすぎる?駐車場に車を駐め散策開始。
搦め手門跡には『高天神城想像図』が二つの峰を真ん中で繋いでいた。
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。
戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた決戦場で、東海一の堅塁を誇った山城。
標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼
ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。 兵(つわもの)どもが夢の跡。
うっそうとした杉や檜に覆われた昼なお暗い石段は、木漏れ日の光と影の中、
戦国ロマンを抱いて、静かに時を重ねていた。
城跡は国の文化財に指定。平成29年4月6日に「続日本100名城」に認定された。



『武田勝頼が開城させた「難攻不落の名城」高天神城跡』。



『続日本1004名城スタンプラリー設置場所案内図』。
スタンプはここにはなく、『大東北公民館』内にあると。



『郷社高天神社(たかてんじんじゃ)』石碑。
高天神社は、静岡県掛川市下土方嶺向にある神社。高天神山の山頂付近に立地する。



『郷社高天神社』石鳥居。
高天神城城への道は西の峯に鎮座している高天神社の参道にもなっており鳥居を潜り進んで行く。



その前に鳥居の右側には広場があり石碑が建っていた。



説明板によると赤堀磯平と言う方の顕彰碑のようであった。

お茶に関係した方のようであった。そういえばこの城の周りは茶畑が一面に。



『史跡 高天神城跡』石碑。
ここから東峰の本曲輪跡までは階段を200段以上?登って行ったのであった。



『高天神社境内案内図』



『高天神保健休養林案内図』。
高天神城は、東峰に本丸、西峰に西の丸(高天神社があります)があり、
鞍部(中央の低い部分)に矩(かね)曲輪がある「一城別郭」「連郭式山城」。
まさに松本亀次郎の「もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ姿かな」の通りですが、
私的には「2つの羽を広げて空を飛ぶ鶴」型というより、「クランク」状、「Hの字」型。



『搦手門跡』と書かれた木柱が右手に。
その奥に杖も用意されていた。



『搦手門址』。
「この城は、1つの城に曲輪が2つあり、一城別郭の敷と言われている。
東の曲輪は、この城の「うり」である。大河内政局(まさふさ)の石牢があります。
また、西の曲輪には武田氏が補強のため造った横堀といくつかの切割(尾根を切る)の
跡が残っています。」



『搦手門』
「城の裏門に当たり、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。
元亀から天正二年にかけて、渡辺金太夫照が大将として城兵二百十余騎を率いて守備した
所である。」
渡辺金太夫照は渡辺金太夫信重ともいい、姉川七本槍 の一人。
下土方村(城東郡の大字)を領した。
城の裏門に当たるこの搦手門は、元亀から天正二年にかけて徳川方の渡辺金太夫が守備していたと。
落城後、金太夫は武田氏に仕えた。衰亡する武田氏に対して金太夫の忠誠は変わることなく、
最期は甲州に降り、天正十壬午年三月五日信州高遠城に奮戦討死した。



比較的緩やかな階段を右に左に登っていく。
周りの崖には堆積してできた縞模様が見られ、この山は大昔海の底だったのではないかと。
そして道の突き当りの崖の所・左手に『三日月井戸』が。



天正二年の七月に武田側によって作られたと云う『三日月井戸』。
城中唯一の水の手で、枯れる事は無かったと云う。
井戸と言うより小さな水たまり?しかし山城に水は貴重な物であり、
これは湧き水の様であったが大切な施設であったこと間違いなし。



上方から見下ろすとなるほど『三日月井戸』。
岸壁に沿うように造られた井戸で、誰が入れたのか金魚が何匹か泳いでいた。



三ケ月井戸を超えたあたりから石段から丸太の階段に変わり、勾配も少し急になって来た。



『高天神城跡略図』



再び『高天神保健休養林案内図』。



そして階段を登り終えると、高天神社境内に入り狛犬が迎えてくれた。



二頭の牛も迎えてくれた。

「天神社」(天満宮)=「菅原道真」。

死した不遇の道真の怨霊が雷神となって、清涼殿への落雷他天変地異の数々、それらが
「天に満ちた」ことからその名となったのだ。



右に尾白稲荷、左に『かな井戸 井戸曲輪跡』。



『尾白稲荷』。



「最後の戦い(天正9年)の後に城山に『白い大きな動物がいるらしい』という上方が入った。
城主の叔父に当たる小笠原氏義が武士をやめ農民になっていた(帰農)が弓矢の名人であった。
この事から、その者が射ると白い尾の狐だった。それを家康に報告した所、以後『尾白と名乗れと
言われた。』と言い伝えられている。その後、御子孫が先祖の供養のため祀っておられる。」



「由来 
今から、千六百年余り前、この高天神に地の神、護国長寿の神として降臨。
その後、当山での修験者「藤原仙翁」を下僕として附近一帯を守ってこられました。
戦乱の世、自己の姿(尻尾の白い狐)を見せたがために、賞金を付けてのお触れが出され、
ある夜、この井戸を飛び越えようとした所を、三の丸の大将小笠原與左衛門(強弓の師)に
射止められました。與左衛門は、褒賞を得、性を「尾白」と改めてきたものの、以後、高天神は
魔の山として恐れられるようになりました・・・・。
神通力を奪われ、四百有余年間、このたび、高天神社の祭神、菅原道真公、また、藤原仙翁、
大河内政局、四坊僧のお力添えを得て、目出たく、此所に尾白稲荷大神として醒誕、関係各位の
同意により祭祀されることになりました。
大変な神通力がある故、商売繁盛、縁談、難病諸病は勿論のこと、真心を以っての合掌には
後霊験あらたかです。」



前方を右に進み、坂道を登って行き、北へ回り込むと二の丸、袖曲輪があり、
西下へ降りていく虎口がある。



ここから北へ伸びた細い尾根には堀切で遮断された堂の尾曲輪、井楼曲輪があり、
いずれも西下にある長大な横堀に面して土塁を設けており、見所の一つであるとの
ことであったが・・・・。
しかし、この日はこれ以上、高天神城跡は目指さず、左手の高天神社社殿へ。



『高天神城合戦将士英魂之碑』。



『かな井戸 井戸曲輪跡』。
井戸曲輪にあり高天神城内にある二つの井戸のうちの一つ、名の由来は不明だが、湧き出る水が
鉄(かな)分を多く含んでいるためとも言われる。
武田軍が高天神城攻めの際井戸の水脈を切ったためとも言われ、そのためか今は水は出ない。
一説には篭城方のお姫様が落城時に身を投げて自害したとも言われる。



『かな井戸 井戸曲輪跡』の奥に高天神社の二ノ鳥居と階段が。



『この付近は、東西の曲輪の中央で、馬の背にあたる所で、激しい戦いが行われた場所と
言われている。井戸の「かな」の表示は、鉄分が含まれているとか・・・。
右方向に進むと、武田方が造った横堀、切割が確認できる。』



『高天神社』二ノ鳥居と階段。



『高天神社』。
御祭神は
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)
天菩毘命(あめのほひのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
の3柱を祀っており、社名の「天神」も天神である菅原に由来すると考えられると。



階段を上っていくと、『西の丸跡』という杭が建てられていて
その後ろには御神木が。つまり元々はここは西の丸。
西の丸は岡部丹波守真幸が守っていた時期があり、丹波曲輪と呼ばれてもいたそうです。
ちなみに岡部丹場守真幸(元信とも言われる)は元今川家の武将で武田家に仕え、
天正2年の戦いでは攻める側でしたが、天正9年の戦いでは高天神城主として徳川軍と戦い、
壮絶な最期を遂げた武将であると。



『社務所』。
御朱印を頂きたかったが、社務所内に人の姿はなし。



『高天神社例大祭』のポスター。
高天神社は、高天神城跡にあり、かつての高天神城を守護する神社。
この祭礼は、東峰にあった神社を西峰に移したことに始まり、1年に1回、3月最終日曜日に
東峰の社(元宮)に神様が里帰りされる行事として行われると。
今年は3月31日に行われたようであった。
祭礼は桜の見ごろと重なることもあり、毎年多くの見物人でにぎわう。
また、高天神城は、駿河・甲斐の武田氏と三河・遠江の徳川氏の領土争いで、戦国末期の
激しい攻防が繰り返された場所。その攻防で重要だった火縄銃の演武も見応えが
あるのだと。



『高天神社』社殿前から登ってきた階段を振り返る。



社殿近くからの駿河湾方面の眺望。



『高天神社』社殿。小さいながらもなかなか立派な神社。
優雅な姿をした鶴翁山にある高天神社は、旧城飼郡(きこう・紀甲評)土方にあり、
式内「比奈多乃神社」の論社のひとつとも。



扁額『高天神社』。



高天神社の脇にひっそりとあった『高天神城記』石碑。



ひたすら漢字で、由緒が書かれていのであろうか?



お参りを済ませ、帰路に。



高天神の井戸曲輪の近くにあった、この地出身の偉人 松本亀次郎の『高天神歌碑』



『もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ 姿かな たか天神山 又の名鶴翁山 鶴峯 松本亀次郎 』 



『日本の中心の架け橋となった松本亀治郎』
「1866年(慶応2年)現在の掛川市上土方嶺向に生まれた。
ある時、「中国の学生達が日本に来て勉強したくても日本語を教えてくれる学校や本がない」と
いう事を知り、日本語を教えてくれる教師になった。
教えた学生は2万人余と言われている。その中には、文学者の魯迅(ろじん)、政治家の郭沫若
(かくまつじゃく)、中国の首相となった周恩来(しゅうおんらい)がいる。」
さきの大戦により東京からふるさとの生家に戻り、昭和20年(1945)に79才で亡くなった。」



左に上って行くと『大川内石窟 御前曲輪』の案内板が。



『大川内石窟』


    【https://kojodan.jp/castle/264/photo/150779.html】より

『御前曲輪跡』。
本丸の南東を守護する曲輪で、本丸の前に位置することから付いた名称か、神様の前に
位置することから付いた名称か不明である。
太平洋戦争前に模擬天守が造られ、そのコンクリートの土台が今も残っていると(落雷で焼失)。


         【https://kojodan.jp/castle/264/photo/54382.html】より

そして車に戻り、スタンプの置かれている『大東北公民館』に向かった。



公民館内には子供達の『令和』の毛書が。



スタンプを頂きました。




『高天神城史年表』。



『松本亀次郎の故郷』碑。



『松本亀次郎先生(1866年~1945年)略年表』

1866年(慶応2年) - 遠江国城東郡嶺村(現在の静岡県掛川市上土方嶺向)に生まれる。

1888年(明治21年) - 静岡師範学校を卒業し、静岡高等小学校の国語教師となる。

1903年(明治36年) - 佐賀師範学校を退職し上京。弘文学院、後の宏文学院で魯迅に日本語を教える。

1914年(大正3年) - 東京・神田神保町に東亜高等予備校を設立。

1945年(昭和20年) - 生家にて死去。






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Last updated  2020.05.01 12:15:11
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