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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.03.06
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カテゴリ:国内旅行
「韮山城跡」を後にして次に訪ねたのが「源頼朝公配流の地・蛭ケ小島(ひるがこじま)」。
静岡県伊豆の国市四日町12。



「遺蹟 永暦元年(一一六〇)源頼朝公配流の地 蛭ケ小島」碑。
1160年(永暦元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の
命乞いで、翌年、伊豆国のここ蛭ヶ小島に流罪となった。
伊豆国で約20年間を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、ついに源氏再興の兵を挙げたのだ。



「蛭ヶ島公園
源頼朝は14歳の時、平治の乱に敗れ、伊豆に配流されました。
その後20年間流人として過ごしました。ここ蛭ヶ島は頼朝が流人生活を送った場所と伝えられて
います。公園内には、江戸時代に伊豆の地誌「豆州志稿」を著した秋山冨南が、この場所を
頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)があります。
また、平成16年に富士山に向かって頼朝と政子が寄り添うプロンズ像「蛭ヶ島の夫婦」が
建てられました。」



「蛭ヶ小島」の場所はここ。
当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の
中の微高地(びこうち)(田島)であったと考えられていると。 中州にある中で一番小さかった
ことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと。



公園内には多くの俳句作品が展示されていた。



「北條の里に 漲(みなぎ) る 淑気かな」(右)。



『遠藤韮城』の句碑。
碑には「ふるさとは富士の全き良夜かな」と刻まれていると。 
彼はのちに朝鮮俳壇で知られる俳人のひとりであり、『ホトトギス』の虚子選雑詠にも
入選を果たした俳人 と。



「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」と呼ばれれる頼朝と政子の銅像。



逆光故に斜めから。



ズームして。
源頼朝(31歳)と北条政子(21歳)の像であると。



こちらは、2018年2月に訪ねた際の写真です。

2022年 蛭ヶ小島公園 - 行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー

源氏再興を誓い富士山を見つめているのであろうか。



富士山を間に入れて。



時計塔。



「源頼朝公配流の地・蛭ケ小島」の前、「蛭ヶ島の夫婦」が見つめる北方向の道の西側を見る。
煉瓦で出来た遊歩道には陶製のプレートが、韮山駅から蛭ヶ島公園、韮山城まで、伊豆の歴史を
説明するタイル板が埋め込まれていたのであった。



『源平のおもな合戦(1180~1185)
 【一ノ谷の戦い】 京に上ろうとする平氏を義経らが打ち破った戦い。
 【屋島の戦い】  屋島で体勢を立て直そうとした平氏を襲撃。
 【壇ノ浦の戦い】 源平最後の大決戦 清盛の妻二位尼は8才の安徳天皇を抱き海中へ飛び
          込み自害しました。
平家の滅亡(へいけのめつぼう)
 1185年(元暦二年)、源平最後の決戦、壇の浦の戦いで平家軍は壊滅。平家は滅亡します。』



『​弟 義経との再会(おとうとよしつねとのさいかい)👈リンク
富士川を平家が敗走したのち、黄瀬川に陣をはる頼朝の元にはるばる奥州から弟の義経が
かけつけました。父義朝が平治の乱で討死した時、義経はまだ2歳の幼児でした。』



『韮山名物
” いちごの電照栽培 ” 冬の夜景は見事です。』



『富士川の対陣(ふじかわのたいじん)
頼朝追討の平家軍は、平維盛を大将軍として京を出発し、富士川の西岸に布陣していましたが、
水鳥の羽音を夜襲と思いにげてしまいました。』



その他、以前に訪ねた時、様々な場所にあったものです。
『平治の乱
平治元年(1150年)に興った平清盛と源義朝の権力争いです。
このとき、13才の頼朝は初めて戦に参加しましたが、源氏は敗れ父義朝も討たれました。』



『平 清盛
保元・平治の乱で平氏の武士団を率いて藤原氏と源氏の勢力をおさえました。
太政大臣になり平家を栄えさせましたが、強い勢力にまかせておごった平家は人々に嫌われる
ようになり、反旗を翻した源氏との戦いの最中に熱病にかかり世をさりました。
宋との貿易にに乗り出す等、先進的な考えをもつ政治家でもありました。』



『蛭ヶ島
もとは狩野川の氾濫によりできた中の一つで、当時は湿田に囲まれた島状の地形でした。
頼朝は永歴元年(1180年) 1 4歳の時にここに流され、約20年間の流人生活をおくりました。』



『真珠院とハ重姫
若き日の頼朝とをに落ら、悲恋の末失意のうちに古川に身を投げた伊東の豪族の娘八重。
真珠院に建てられた供養堂では「はしごがあったら、ハ重姫を教うことができたのに」という
人々の思いからはしご供養が行われています。』



『頼朝と政子
北条時政が都にのほっていた時、娘の政子と頼朝の間に女の子が生まれました。
しかし時政は平家ー門の山木判官兼隆に政子を嫁がせようとしました。
婚礼の日の夜山木の館を抜け出した政子は雨の降る中を夜通し走り頼朝のもとに行きました。』


『北条時政(ほうじょうときまさ)
伊豆国の役人だった時政は平家から頼朝の監視役を命じられていました。しかし頼朝が
むすめ政子を妻とした後は、娘婿頼朝をたすけ鎌倉幕府の、初代執権となります。
しかしその後息子の義時・政子との対立に敗れ引退。耳は願成就院にあります。』



『江川邸
この地の世襲代官として長く領民に親しまれた江川氏の住宅です。
主屋は鎌倉時代の住宅を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。』



「蛭ヶ島茶屋」。



「鎌倉殿の13人」のポスター。



「北条氏歴史紀行 スタンプラリー」が行われていると。



「蛭ヶ島茶屋」案内板。



「蛭島碑記」の古碑の碑文を撰文した秋山富南の顕彰碑
「源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790年)
豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、
韮山町の有形文化財に指定されています。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南頌徳碑(しょうとくひ)で、
豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものであります。」 と。 



公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は市指定文化財。
「平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母(ままはは)・池禅尼(いけのぜんに)の命乞い
(いのちごい)によって伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流(はいる)されました。
1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの
20年間をこの地で過ごしたとされています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかで
あったと思われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の
三社詣(さんじゃもうで)、天城山での巻狩り(まきがり)などの伝承も残されています。
当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の
中の微高地(びこうち)(田島)であったと考えられます。 他にも蛭ヶ小島と称する中州が
ある中で一番小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと思われます。
現在は、伊豆の国市の文化財に指定されています。」 と。



「蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、伊豆の国市四日町町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、
兵衛佐頼朝配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が
現存するところから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であった
ことが想像される。
永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗揚げ、やがては
鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。
しかし、『吾妻鏡』治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、
北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、
ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に
伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が
建立したもので、伊豆の国市の有形文化財に指定されている。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った萩原正夫が、
明治26年に建立したものである。」



「韮山史跡・観光総合案内図」。



様々な観光スポットが写真入りで説明されていた。





頼朝と政子の「梛(なぎ)の葉の縁結び」記念碑。
伊豆国に流罪となった源頼朝と北条政子は、変らぬ愛の証として、伊豆山神社の御神木の葉を
持っていたといわれている。それが「椰の葉」。
政子は、椰の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛を祈ったといわれている。
「椰の葉」は、横に裂けないことから「愛のお守り」として、また、「家族平穏のお守り」として
功徳があると。



「頼朝と政子(梛の葉の縁結び)
北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、三十一歳の
源頼朝と二十一歳の北条政子は恋に落ちました。
源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を
伊豆国の目代である山木判官平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山木館を
脱出し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。
当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も
北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と
相会することができたのです。
かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができました。
近世中期の投節のひとつに
『こんどござらば持て来てたもれ、伊豆の小山のなぎの葉を。』
という歌があります。
「今度、おいでになるときには、伊豆の小山のなぎの葉を持ってきてくださいね」
という願いのうちに「それをお守りにしたいから」との意がこめられています。
女の方から男に言った言葉です。
当時の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると、願いごとがかなう(結ばれる)と
されていました。
「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。
源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉は、
当時の娘たちのあこがれであり、願いであったことでしょう。
梛を鏡の裏のお守りとすることは、寛永の頃から享保の頃まで流行したようです。」



そして駐車場横にあった「歴史民俗資料館」を訪ねた。



「伊豆の国市 歴史民俗資料館
この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが
18世紀中頃以前に建造されたものと推定される。
軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となって
上までのびている。この形式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する
庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。
昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和52年12月20日、静岡県の
有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、
韮山町歴史民俗資料館として昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。」



蛭ヶ島敷地内にある、民族資料館。建物は、18世紀初期頃の創建と推定される庶民農家で、
住宅としては県内最古。県指定文化財。



土間にあった懐かしい農機具。



畳のない板の間のみの広間・座敷を見る。



「旧上野家住宅について
一、この建物は間口11.9m、奥行5.9m、建物面積は65.7m2(19.9坪)です。
ニ、広い「土間」を左にとり、右側に「ひろま」「ざしき」「なんど」の3間を配しており、
  この形式を「広間3間取型式」といい、口伊豆地方に多い型式です。建物の総面積に比し
  「土間」や「ひろま」を広く取っているのは、民家が単なる「住まい」という単一目的だけの
  ものではなく、「生産」という大きな役割を果たす場所でもあったからです。
三、建物の材料は松・けやき・杉の他、竹、茅等を使っており、これらはすべて近くの山野で入手
  できる材料ばかりです。また柱等の表面仕上げは鉋(かんな)を用いず、手斧(ちょうな)等を
  使用した荒仕上げがふつうでした。
四、「土間」と「ひろま」の中央境の柱が大黒(柱)、また「ひろま」と各部屋の中央境の柱が
  小黒(柱)です。それぞれの柱は梁を抜けて棟を支えています。このような柱を棟持柱といい、
  平屋建てで使われるのはたいへん古い型式です。尚、各間柱や梁の間隔は寸法が一定せず、
  不揃いのことも古い民家の特徴といえます。
五、当時の一般農家には天井がなく、また部屋に畳を敷くこともなく、このような板の間に、
  必要により、ゴザやムシロを敷いて起居したようです。
六、「いろり」は単に煮物や暖を採るだけのものではなく、生木等を燃やすことによって出る煙が
  木材や屋根茅にしみ込み、虫害や腐蝕を防止する役目をしました。またテレビやラジオの
  なかった時代における一家団らんの場所としても、たいへん親しみ深い場所でした。
  尚、「いろり」には一家の者の座る場所がハッキリと定まっており、それぞれの場所に名前が
  つけられていました。
七、広い「土間」の入り口に近く、「わら叩きの台石」があるのも農家の特徴でした。雨の日や、
  夜の仕事に縄やぞうりを作る「わら」を打った場所です。
八、この建物を復元するにあたり、「わら縄」はすべて手ないのものとし、また、新しく補てん
  した材料も近在古民家の古材を使用し、昭和五十三年の焼印を打ち区別してあります。
  その他、屋根棟の(瓦)覆いを「口伊豆型」にあらためるとともに、やぐら煙出し(あげおむし)
  は後世の改造になるもののため、移築の際、撤去しております。」



天井のない藁葺き屋根の内側。



水場には壺や樽が。



はたご(機)・(機織り機)。



水田器具や背負い駕籠。



木臼と杵。



ゆりい(囲炉裏)。



再び屋根裏を見る



                              ・・・​もどる​・・・


                   ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2022.03.22 08:26:37
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