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テーマ:マハトマ・ガンジー(100)
カテゴリ:マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界
「父が子に語る世界歴史6」より
ネルー、ガンジーを語る 続き 1919年4月10日にアムリッツアーに勃発した流血事件の知らせが、ラホールにあったパンジャーブの高官連中の耳に届いたとき、彼らは完全に度を失った。 これは1857年の血なまぐさい反乱(セポイの乱、第一次インド独立戦争)が起こったと考え、イギリス人の生命が危機に瀕していると思ったのだ。 彼らは血迷って、テロに訴える決意を固め、戒厳令や様々な事件を起した。 インドを怒らせたのは、何ヶ月も後になって、アムリッツアー発砲事件のダイヤー将軍が行った、事件の侮辱的な弁明と、何千という負傷者に対する彼の野蛮な冷淡さだった。 「本件は私の所管事項外に属する」と彼は言った。 ※「たんに群集を解散させることなどもはや問題ではなかった。その場に集まっていたものだけではなく、特に全パンジャーブに、軍事的見地から十分な道徳的効果を及ぼすことが問題だったのである。不当にやりすぎたということは問題にはならなかった」(ハンター調査委員会に提出したダイヤー将軍の報告) 上院は彼を賞賛し、イギリスの支配階級のいつもの態度が露呈された。 インドの怒りの炎は燃え上がり、パンジャーブの非道に対する怨嗟の声はインド中に高まった。 この年以来、4月13日はインドの国民記念日となり、ジャリアンワーラー・バーグは政治上の聖地とされている。 1919年12月、国民会議派大会はアムリッツアーで開かれた。 会議の性格は一変し、一種大衆的な性質を帯びた。 そこには大衆に信望の厚いガンジーがいた。 彼はいままさに国民会議派並びにインドの政治における、長期にわたるガンジー時代を開始しようとしていた。 1920年、国民会議派はガンジーの非協力のプログラムを採択した。 これはカルカッタの臨時大会で採択され、後からナープールの定例大会が確認した。 闘争の方法は平和的で「非暴力」によるものだった。 それは政府の行政と、インドの搾取に対して政府の援助を拒否することを根本としていた。 まず手始めに、様々なー爵位・官位の返還、法廷のボイコット、官立の学校不登校などーボイコットが行われ、次いで文官の勤務、兵役、納税にまで及ぶことになっていた。 建設的な方面では、手紡ぎ、カダール(手織り)、法廷に代る調停審判所におかれた。 そして2つの重要な項目はヒンズー教とイスラム教の統一、不可触民の排除だった。 国民会議派大会はその規約を改正し、行動に便利な団体になると同時に、大衆の参加に門戸を開いた。 こうしてできあがった方針は、国民会議派を今までと全く違ったものにした。 古い、練達の国民会議派の指導者は躊躇し、疑念で胸をみたした。 ただ一人モティラール・ネルーが最初の段階でガンジーを支持した。 しかし、一般の党員や大衆全体の気分には、なんの疑念もなかった。 ガンジーは彼らの心を天がけらせ、夢中にさせた。 彼らは「マハトマ・ガンジー・キー・ジャイ(万歳)」を高唱し、非暴力、非協力の新たな福音に対する感激を表現した。 大衆の感情の高まりと、初期の運動の成功は、旧会議派指導者をその流れに合流させた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年08月15日 21時38分23秒
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