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2009年05月12日
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「武者小路実篤全集」第9巻「二宮尊徳」より 相馬仕法に関する部分の後半(58~61ページ)を抜粋(読みやすくするために、旧かな遣いなど改めた)

 28 実行の勝利

 池田は相馬藩の窮状を話した。財政が困難に陥り、民が窮し土地が荒れている有様を話した。
金次郎はそれに対して言った。
「相馬藩は上に人君があり、下に忠臣があってよくゆかなければならないはずですが、それがよくゆかないのは基礎がぐらついているからです。よりどころがしっかりしていないからです。拠り所は何かというとその国の分度です。つまりその国の経済上の基礎が決まっていないのです。入らないものを入るように思ったり、又国の状態がどうなっているか正確に知らないからです。分度をよく知り、これだけは使ってもいいという方針をちゃんと立て、それを守ってゆけば、万事がよくなるのです。1万石なら1万石でよくゆく方法があるのです。10万石なら10万石でその方法があります。しかし止まるところを知らないと、いくら何百万石あってもたりません。天下の大小名がことごとく天分を守り人力をつくす時は、毎年分外の余裕が出来るものです。その余裕で民をにぎあわしてゆけば、それは江河の水をくむようにどんどんつきずに増えてゆくものです。本源が一つ立てばどんな藩でも、必ず平安に暮してゆけるものです。分を知ることが大事なのです。そしてその分度を立てるのには過去10年20年の税を調べ、それを平均すると、どのくらい税を取るのが至当であるかがわかります。そして艱難に処して艱難を行い、窮民はうるおし、廃地は復興すれば、田地の収入は分度以上にのぼります。その分度以上を分度のなかに入れないで、それを国家再興の用財として、それをもってまず一村を興し、次々と興してゆけば幾万町歩の廃田も復興することが出来るものです。又効を急いで無理をしてはいけません。根本から天理に従い、自然に気長に遠大な志をもって進んでゆくことが必要です。そして相馬藩の復興を志すなら先ず、貢租の帳簿を出来るだけ古くから調べて見ることが必要で、それで分度がはっきり決まるわけです。」
 池田も直接会ってますます感心し、決心を強めたが、すぐに実行するわけにもゆかなかった。その内に金次郎は幕府の仕事以外に自分が携わるのを断ることにした。そこで皆驚いて、幕府に、金次郎の良法が中途で廃れる恐れがあるので、金次郎が幕府の用だけでなく、他のことにも携わることが出来るようにして戴きたいと嘆願した。幕府でもそれを許した。
 そこで草野や池田は喜んで、180年の貢租の帳簿を金次郎のところへ持っていった。金次郎はそれを見て言った。
「さすがは旧国だけのことがある。自分は今までは2,30年の貢租を調べることが出来ただけだったが、今度は180年の貢租を調べることが出来る」
研究好きの彼は喜んだにちがいない。
そして彼はそれを調べ、数月かかって為政鑑3巻を作った。
彼は180年を三分し、その一分60年を一周度とした。最初の60年の平均が14万79俵余だった。次の一周度を平均は11万8千64俵で、最後の一周度は平均6万3千792俵に減じていた。次に180年を90年ずつに分つと、上半は平均13万8千277俵で、下半は7万6千347俵で、全部三周度の平均から3万965俵減っている。それが最近10年になると平均5万7千205俵になっている。一目して衰えていることが分かる。
彼はそういうふうに根気よく調べた結果、年6万6千776俵を分度と決めた。そうして皆が丹精すればそれ以上に出ることは困難なことではないと彼は思った。
彼は為政鑑にその彼の考えを実に詳しく書いて相馬侯に届けた。侯はそれを見て感心し、草野や池田を招じて早速めせた。
「どうだ。これを見れば、我が国がもう救われたといってもいいようなものだ。つとめてこの教えに背かぬように骨折ってもらいたい」
二人は畏まって喜んで承諾する。
三人が心を一つにする。池田は鬼の首でもとったかのように喜んでそれをもって帰り、皆に読んできかせる。
皆、思ったより無理なことが書いてないので安心すると同時に感心する。これならムキになって反対する必要はなかったと思う。
そこでいよいよどこから廃地復興の仕事を始めたらいいかという具体的な相談になった。そこで皆は先ず山中山の峠にある山間の小村で、冬は寒さ実にはげしく、夏も又冷気が強いという厄介な村で、3年に1年は五穀が実らないというところだ。だから貧民が多く戸数も減じ田畑は荒れ果てている。手がつけられない難村中の難村であった。これは金次郎の考えと一致はしない考え方だ。彼は先ず郡中の手本になるところからよくしてゆくのが本当だと思っている。水は高いところから低いところにゆくように、人間の徳化は高い人より低い人にゆくように、農村も善村を先ずよくするのが順序であると思っている。これは本当の経験で得た智慧で、普通の人は先ず一番困っているところから手をつけたがる。早くよくなる所からほったらかしておいてもいいのだから、一番困っているところから手を下したがる。
金次郎は貧しい農村も救えるものだということは知っている。しかしそれは労多くして効少なく、他の村が一年かかるところが数年かかり、得るところは甚だ少ないことを知っている。彼は草野村で発業すれば他のところ5,6ヶ村を興すだけの金が入り、又事業が10年ぐらい遅れなければならない事を知っている。
そこで金次郎は相談をうけた時、自分の考えを言った。池田にはその意が通じたが、他の人々にはそれがわからなかった。それで今度は又違う難村二つを挙げて、それから再興しようということになった。池田は反対してもきかれなかった。
何事でもすらすらとうまくゆかないものだ。実に簡単なことが、はがゆいほどわからないものが多く、そういう人が議論が多く、意見の多いことは一番厄介なことだ。池田も草野ほどしっかりはしていなかったか、いつも他人の言うことを否定する力はなかった。それで金次郎はのり気になれなかった。機が熟していないことを感じた。
しかし外に二宮金次郎がい、内に草野池田がいる。又藩主の意向が伝え聞いている。そこで人々から選ばれなかった二村が自覚して、金次郎の教え通りを行う気になった。それは代官助役の高野丹吾というものが、二宮の教えにすっかり感心し、以前再興を命じられてどうにもならなかった、成田村及び坪田村を今度は自覚をもってよくしようと思った熱誠から出た。
二村は貧村だったが、しかし高野の熱心を受け入れる力はあった。そして高野がそのため50俵出して復興の費にあてると、次に我も我もと応分の寄付をした。
そこで池田のところへ高野は出かけてその様子を話した。池田は喜んで、それなら早速金次郎の所へ教えを受けにゆくといいと言った。そこで高野は上京し、草野に会い、共に金次郎を訪ねた。
金次郎は草野老人がゆけばいつも心よく通した。そこで草野と高野の話を聞いて金次郎は言った。
「貧村から仕事を始めるのは私の考えではないが、しかし誠意を無にするのは天意を無にすることだから、やったらいいでしょう」
 と言った。そして彼は又こう言って教訓した。
「伊勢の鳥羽から相模浦賀にゆく間にいい港は伊豆の下田があるのみで、船頭が風浪を免れるためには、下田の灯台を望んで来る。ところが、近隣の妻良子の悪い奴が岸上で焚火したのを船頭はあやまってそれを目標として舟を進ませたので、岩頭にぶつけて難船し、そして悪者たちに財を奪われたことがあるが。私の仕法も灯台のようなもので、烏山の灯台は菅谷だったし、細川の灯台は中村だったが、二人とも途中で灯台の位置を変えたので、折角出来かけた仕法が難船してしまった。相馬藩には池田草野の大灯台があるが、あなたも二村にとっての灯台だから、動いてはいけない。いつも仕法を照らす間違いのない灯台でいてくれなければこの事業は成就しません。幸い私の門人に相馬藩の富田高慶という人がいます。ご存じかと思いますが、その人は信用がおける人で、私のやり方をよく知っていますから、その人を相談相手にして事を始められたら得る所があると思います。
 高野は勿論喜んだ。そして国へ帰って富田と相談をし、共に働き出した。
 その結果は大変よかった。金次郎の方法が間違いなく行われた。
 善人の称誉、窮民の救助、道路橋梁の修繕、陋習の改善、夜業の開始等、実に金次郎式をより細かいくらいに実行され、そして結果がめきめきとあらわれた。
 そこで他の村々が我遅れじと仕法の発業にしたがった。
 金次郎は一時に沢山の村に仁政をほどこすことはかえって面白くなく、しくじるものであることを知っている。どうしても一村を完成してから、他村に及ぶのが本当で、そうやってゆけば、間違いなく次々と完成されて、幾百千の村も遂にはものになる、遅いようでそれが実は一番早い道なのだということを実によく知っている。
 そこでその内で特に優れた結果を見せた村にだけ仁政を先ずほどこすことにした。抜け目のない現実と、人間の正体を知る彼は、結果を見通さずに事を実行するようなことはない。
 かくて数年で50ヶ村再興した。かくて彼が仕法の行われてから、収入もまた増えて、10年の平均が7万8千941俵になった。つまり分度の6万6千776俵を越えること実に1万2千165俵で、次の10年の分度は7万2千858に決めることになった。
 かくのごとく二宮金次郎の教えを実行したものは興り、実行出来なかったものは衰えた。





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最終更新日  2009年05月12日 22時43分42秒



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