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2009年08月30日
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茨城の史話 茨城大学名誉教授 瀬谷義彦 二宮尊徳の実像ー大和村青木の場合

 茨城での尊徳の活動をみれば、実践家としての尊徳の姿、尊徳の実像が最もよく理解されるだろう。
 それでは相模国生れの尊徳が生地とは遠い茨城と、なぜ深い関係をもつようになったのだろうか。それは彼が文政4年(1821年)35歳の時、小田原藩主大久保氏の分家宇津家の財政立て直しの命を受け、その2年後37歳の時、宇津家の知行地(大名なら領地という)である下野国桜町の陣屋に移ってきたからである。その陣屋は今の栃木県二宮町にあり、そこは地理的に下館市域に隣接する場所にある。桜町での尊徳の評判が、たとえ支配領域は異なっていても、下館藩領をはじめ茨城の諸地方に伝わらないはずはない。荒廃に泣く諸藩や村々が、尊徳仕法を魔力視して、辞を低くして尊徳に頼むのも、地理的条件が大いに関係していたことは間違いはない。
 また尊徳仕法の研究に新分野を開拓した茨城大学教授だった河内八郎氏が、「余りにも有名になっている尊徳像を云々(うんぬん)するよりももっと本質的に、かつ歴史的に二宮尊徳を問題にするには、何よりも、彼を、近世末期、幕藩制崩壊期における北関東人として認識することが必要なのではなかろうか」(「二宮尊徳における常総・野、そして前近代と近代」1987年発行「茨城近代史研究」2号所載)と述べている点に注目すれば、茨城地方の農村も北関東の農村として、同じような構造的危機に直面していたということから、尊徳としても、終局的には引き受けざるを得なかったという点も見逃せないだろう。
 それでは茨城において、尊徳仕法の世話になったところを仕法開始の年代順に挙げてみることにしよう。
1 青木村(現真壁郡桜川市) 2 下高田村・高田村(下館市) 3 本郷村・堤上村(西茨城郡、岩瀬町) 4 谷田部藩(筑波郡谷田部町) 5 門井村・辻村(真壁郡協和村)他7か村
6 下館藩(下館市周辺の村々) 7 江戸崎村(稲敷郡江戸崎町) 8 大生郷村(水海道市)
9 中根村等5か村 10 花田村(真壁郡関城町)
 これによって藩としては譜代小藩石川氏支配2万石の下館藩と、外様(とざま)小藩細川氏支配1万6千石余の谷田部藩の2つと、村では青木村をはじめ20か村余が尊徳と関係をもったことになる。
 こうしてみると、藩としては小藩だけであるが、水戸のような大藩でも、ある時期尊徳仕法に関心を示したことは、(前)報徳博物館長、佐々井典比古氏に教えられたことを思い出す。
 こうして見ると、一般にはあまり知られないことと思うが、茨城県西の地を主に尊徳仕法ゆかりの地が、意外に多いのに驚かされよう。
 さて茨城で最も早く尊徳仕法と関係した青木村の場合をまず取りあげてみることにしよう。これについては「大和村史」「茨城県史」(近世編)の記事や、茨城県歴史観県史編纂室長、川俣英一氏「幕末の農村計画ー二宮尊徳の青木村仕法について」の論考などが注目される。
 もともと青木村は旗本川副氏の知行地となって以来、代々世襲された。川副氏の知行地は10か村1,500石余あったが、そのうち青木村が850石の村高で最も大きかった。
 ところが天保2年(1831年)には耕作可能の田畑は以前の3分の1となり、元禄時代130軒もあった家も、人口減少で3分の1以下の39軒になってしまった。青木村荒廃の大きな原因は用水の不便と火災によるものといわれる。用水は桜川を堰止(せきと)めて引用したが、地盤が悪く大雨のたびに決壊して莫大な修理費を要した。古く天領で真岡(栃木県真岡市)の代官所支配下にあった時代は、何とか修理が進められたが、小旗本の支配に移ってからは修理が不十分で収穫は激減した。青木の名主(なぬし)をはじめ37人の農民が連名で、桜町御役所(栃木県二宮町にあった陣屋)の尊徳あてに、用水堰の普請(ふしん)を願って、尊徳に「格別の御慈悲」をもって一村をお救いくださるようにと、嘆願書を提出したのは、天保2年11月末であった。
 これに対して尊徳は、用水の乏しいのを口実として、良田を荒れさせる村民の現状を批判し、自己の生活態度を改め、倹約して有余を生じたならば、他人のかん苦を救うように努力すべきことを強調、それが分からなければ、2度と頼みにくるなと戒めた。名主の舘野勘右衛門はこれをみて感泣し、再び桜町陣屋に尊徳を訪ね、一刻も放置できない窮状を訴えて、尊徳の指示を守ることを誓って嘆願した。
 これに対して尊徳は、「難事業の用水だけを強調し、村民がいちようにできる事をしないのは誤りではないか。茅(かや)芒(すすき)を伸び放題にし、冬になると野火で茅芒原が焼け、民家も焼けて農民は他地方に流離する。愚もまた甚だしいではないか。一村再興の前にやるべきことはまず火災の根元である茅を刈ってみよ。刈り終われば相当の価格で買い取るべし」(大和村史)として、農民らの刈った茅に対して14両余を交付し、桜町の名主や屋根ふき職人を遣わして刈り取った茅で村の神社や民家31棟の屋根替えをした。その費用はすべて尊徳から供与されたという。感激した村民のどんな苦しみにも堪えるという決意に、尊徳も心を動かし、知行主の川副氏の許しを得たので、尊徳は天保4年3月桜町陣屋を出発、青木村を視察したところ、先に約束した荒地の開拓が予定通りできていたので、青木堰建設を引き受けることにした。堰の工事は尊徳自身が考案した設計図によって進められ、天保4年3月下旬完成した。人夫約1,300人余、費約60両余で、元禄15年代官支配時代に行った堰工事にくらべると、短時日で費用も半分以下だったので、世人を驚かした。青木村の古老たちはこの時の工事を「極楽普請」(普請・ふしんは土木工事のこと)といって喜んだという。
 尊徳仕法第一期は、この青木堰完成による田の水不足の解消にはじまり、荒地の開発や新規の開発も進み、仕法の分度額を超えたものは、すべて推譲の論理に従って、新しい開発資金に向けられたので収穫も倍増した。しかし飢饉や疫病などの災害もあって、その救済にかかって、思うようには進まなかったが、天保10年には第一期の仕法は完了し、入百姓も加え家数も62軒、人口も323人となり、桜町仕法とともに有名になった。
 しかし仕法の第二期には、新旧農民間の紛争、知行人川副氏の分度不確立が原因で、有終の美をなし得なかったが、堰完成、荒地開発、借財の返済、人口増加などによりかなりの成果を収めたことは事実である。青木村には明治30年尊徳への謝恩の意味で報徳碑が建立された。
 茨城での尊徳の実像はまず青木村においてみることができる。





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最終更新日  2009年08月30日 14時54分17秒



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