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2009年10月02日
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グーグルの検索の画面のイラストが季節やトピックに合わせて衣替えする。
今日10月1日は、マハトマ・ガンジーだった。
GAIAのカテゴリーでも「ガンジー」があるくらいだからちょっと嬉しくなった。
「パワーかフォースか」によると、意識のレベルで、最近の歴史上の実在の人物では、マハトマ・ガンジーが最も高い。
 「剣の教義」は現在読んでも人類の意識のレベルはまだまだ及ばないなとため息がでる。

剣の教義(青空文庫掲載)
M・K・ガンジー
福永渙訳 (読みやすくするため旧漢字やかな遣いを改めた)

 暴力支配の現代では、暴力の終局の至上権の法則を誰かが拒否し得ようとは、何人も考えることができないであろう。それだから、たとえ一般の暴動が起ろうとも、「非協力」の進行を妨げないようにという忠告の手紙が匿名の人から私のところへ来るのである。又、他の者は私が密かに暴動を画策しているに違いないと独りで決めて、公然と暴力を宣言する楽しい時がいつ来るかと尋ねて来る。イギリス人は、公然であれ祕密であれ、暴力以外のいかなるものにも屈しはしないと彼らは私に言う。又聞くところによると、私は決して本音を吐かないから、印度中で最も腹の黒い人間であって、私がたいていの人と同様に暴力を信仰していることは一点の疑いもないと信じている人もいるそうである。
 剣の教義が人類の大多数を支配していることはこのようである。そして非協力の成功は主として暴力の有無によるのであり、この事に関する私の意見は多数の人々の行動に影響するところがあるから、私は自分の意見をできるだけ明瞭に述べて置きたいと思う。
 若し怯懦と暴行のうちいずれか一つを選ばなければならないとしたら、私はきっと暴行を勧めるであろう。だから、私の長男が、1908年に襲われてほとんど死ぬ目に遭った時あの場にいあわせたら、逃げ出して私を見殺しにすべきであったか、それとも彼が用いることを得、又用いんことを欲していたところの腕力を振って私を護るべきであったかと尋ねた時、私は腕力を用いても私を擁護するのがお前の義務であったと答えたのである。私がボア戦争、いわゆるズールー反乱、及び今度の大戦に参加したのもその故である。私が暴力的手段を信仰する人たちに武術の訓練を勧めるのもその故である。私はインドが怯懦な態度で自分が受けた不名名誉をぬぐおうともせずに、泣き寝入りを続けているよりは、むしろその名誉を回復せんがために武器を執って起つことを望むものである。
 けれども、非暴力は限りなく暴力に優り、情けは懲罸よりも男らしいといふ事を私は信ずる。情けは武士を飾る。しかし、情けとは懲罰の権力ある強者のみがもつ特権である。無力な弱者が情けをかけるということは意味をなさない。猫に食い殺されようとしているネズミが、猫に情をかけることはできない。故に、私はダイヤー将軍及その一味の者に対して、彼等の罪悪に相当する懲罰を加えよと叫ぶ人々の感情が分る。彼らはもしできることなら、ダイヤー将軍を八ツ裂きにしたいと思っているのだ。私は自分が無力な弱者であるとは思っていない。ただ私はインドの力と自分の力をより良き目的のために用いたいと考えているだけだ。
 私の言うことを誤解してくれては困る。力は体力から生ずるものではない。それは不屈不撓の意志から生ずるのだ。普通のズールー人は体力では普通のイギリス人よりも遙かに優れている。ところが、ズールー人はイギリス人の少年を見ると怖がって逃げる。それは、その少年の持っている拳銃、又は少年のために拳銃を用いる人を怖れるからである。彼らは死を恐れるのだ、したがって身体が逞しいのに似合はず臆病なのだ。われわれはこのインドにおいて、十万のイギリス人が3億の人間を脅かす必要のない事をすぐ悟り得るであろう。それ故に、思い切った情けはわれわれの力の確認を意味する。文化的な情けと同時に、吾々の心の中に、ダイヤーやフランク・ジヨンソンのごとき徒をして、敬虔な印度人の頭に再び侮辱を加えしめないような強大な力の波が起らねばならない。現在私が自分の目的を達し得ないことは、私にとっては何でもないことだ。われわれは腹を立てず、怨みを抱かずにいるには、あまりに踏みつけられていることを感ずる。けれども私は、インドは懲罰の権力を振うことによってより利益を得ると公言することを控えなくてはならない。われわれは、世界のためになすべきより良い仕事と、宣(の)べるべき、よりよい使命をもっている。
 私は夢想家ではない。私は実行的理想家でありたい。非暴力の宗教はただ聖徒や賢者のためにあるのではない。それは又普通人のためにあるのだ。暴力が動物の法則であるように、非暴力は人類の法則なのだ。動物にあっては精神は眠っている、動物は体力の法則の他には何らの法則を知らない。万物の霊長たる人間は、それよりもより高い法則――精神の力に従うを要する。
 それ故に、私はあえてインドに自己犠牲という古い法則を提供したのだ。何となれば、サティアグラハ(真理の把持、真理の力)及びそれから生れた「非協力」や「市民的不服従」は、受難の法則の新らしい名前に過ぎないからである。暴力のまっただ中において非暴力の法則を見い出した聖者たちは、ニュートンより偉大な天才であった。彼らはウエリントンより偉大な戦士であった。武器の使用の範囲を知った彼らは、その無用なことを悟り、悩める世界に向って、救いは暴力に存せずして非暴力に存することを教えたのである。
 動的状態における非暴力は、意識的の受難を意味する。それは悪をなす者の意志におとなしく服従することを意味しない。われわれの全精神を挙げて圧制者の意志に反抗することを意味する。人類のこの法則に従って行動するならば、一個人にしてよく不正な国家の全権力に反抗し、その名誉、宗教、霊魂を救い、国家の没落もしくは再生の基礎をうち建てることができる。
 従って、私はインドが弱いから非暴力を実行せよというのではない。私は、インドがその力を自覚して、非暴力を実行することを望む。インドが自己の力を自覚するには、何らの軍隊的訓練を要しない。われわれがややもすれば自己は一塊の肉に過ぎないと考えるから、そんなものを必要だと思うのである。私はインドがあらゆる物質的弱点を超越して凱歌を挙げ、全世界の物質的結合を蔑視し得る不滅の霊魂をもつことを自覚することを望む。猿の群れを引き連れた一人の人間ラーマが、ランカの怒とうによって保護されている傲慢な十個の頭をもったラヴアンの力に反抗するという聖典中の物語は何を意味しているか。それは精神力の物質力征服を意味していないか。しかし、私は実行家として、インドが政治界における精神生活の実行力を認めるまで待ってはいられない。インドは自己が無力であると考えてイギリス人の機関銃や、戦車や、飛行機の前に萎縮した。そしてインドは自己が無力であるから「非協力を採用」した。この非協力は同じ目的に役立つに違いない、すなわち十分に多数のインド人がそれを実行するならば、イギリスの不正の荷担からインドを解放するに違いない。
 私はこの「非協力」をアイルランドのシン・フェーン主義(アイルランドの政党。Sinn Feinはわれわれ自身の意味。1905年A.グリフィスが英国からの民族独立をめざす政治結社として結成。)と区別する。何となれば、「非協力」は暴力と肩を並べて進むことを許さないからである。私はこの平和的な「非協力」の試用を暴力派の人々に勧める。「非協力」はもともと弱いものだから、失敗することはないだろう。それは手答えがないために失敗するかも知れない。それが真に危険な時期である。国民的屈辱をもはや忍べなくなった高潔の士は、その怒りを漏らしたくなるであらう。彼らは暴力に訴えるであろう。しかし私の知る限りでは、彼らは彼ら自身又は彼らの祖国を非道な待遇から解放することができずに死ななければならない。もしインドが剣の教義を採用したら、一時的の勝利を得るかも知れない。が、その時には、インドは私の心の誇りとはならなくなる。私がインドに愛着を感ずるのは、私のすべてを印度に負うているからである。私はインドが世界に対しして一つの使命をもっていることを堅く信じている。インドは盲目的にヨーロッパを模倣してはならない。インドが剣の教義を採用する時は、私の試練の時であろう。私はその時が来ないことを望む。私の宗教は地理的限界をもたない。その信仰を把持する時それは私のインドに対する愛をも凌ぐであろう。私の生涯は、私がインド教の根柢であると信ずるところの非暴力の信仰によって、インドのために尽くすことに捧げられるであろう。
 私は私を信じていない人にあえてお願いするが、私を暴力主義者と考えて、暴動を扇動し、始まったばかりの闘争の円滑な進行を妨げないように望む。私は、祕密は罪悪として嫌っている。試みに諸君は「非暴力的非協力」を行って見られよ、しからば私が何ら隠し立てをしていないことが分るであらう。
(1920年8月11日「ヤング・インデイア」紙所載)





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最終更新日  2009年10月03日 03時56分57秒
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