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2010年09月10日
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私立周智農林学校
第一章 本校創設と推譲
 本校は福川泉吾、鈴木藤三郎両氏の創設に係り、福川氏令息忠平氏(現東洋精糖株式会社取締役)主として之が経営を総括せらる。福川鈴木両大人は誠実熱心なる報徳実行の人にして、至誠、勤労、分度、推譲の四教を守りて共に今日あるを致せるもの。福川大人嘗(かつ)て思へらく。二宮先生の教えに、人は云う我が道は積財を勤むと、積財を勤むるにあらず、世を救い世を開かむが為なりと。吾れ多年分度を守り勤労に努めて聊(いささ)か財を積む事を得たり。今や則ち世に推譲して社会有益の事に散ぜざるべからずと。よって之を鈴木藤三郎氏に謀り、先ず之が最初の事業としてここに本校の創設を見るに至れり。本校開校式における鈴木大人の辞に曰く、
「本校の設立は主として福川老人の力による者也。福川老人は拙者の為には無二の恩人也。拙者昔時起業の際氏の誘掖(ゆうえき:力を貸し導く)を受けたること極めて多し。氏は先見の明識ある人にて、維新の始め衆に先じて生糸製茶の貿易に従ひ、後山林経営の必要を観破し、今や又我周智郡発展のため農林学校設立の必要を感ぜられ、拙者に御相談を賜はり、遂に本校の開設を見るに至りたり」と。
かくて明治38年より之が準備に着手し、翌39年4月15日を以て盛大なる開校式を挙げたり。その際設立者の報告に曰く。


(訳)本校は福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が創設したもので、福川氏の令息忠平氏(現東洋精糖株式会社取締役)主として経営を総括されている。福川鈴木両氏は誠実熱心な報徳実行の人で、至誠、勤労、分度、推譲の四教を守って共に今日に致ったものである。福川氏はかつて思われた。二宮先生の教えに、「人は言う。我が道えは積財を勤めると、積財を勤めるのではない、世を救い世を開くらめであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない」と。そしてこれを鈴木藤三郎氏に相談して、まずその最初の事業としてここに本校の創設を見るに至った。本校開校式における鈴木氏の言葉に言う。
「本校の設立は主として福川老人の力によるものである。福川老人は私のためには無二の恩人である。私が昔、起業の際に福川氏が力を貸し導きを受けたことは大変多かった。福川氏は先見の明識がある人で、維新の始めには衆に先んじて生糸・製茶の貿易に従い、後に山林経営の必要を観破し、今やまた我が周智郡の発展のために農林学校の設立の必要を感じられ、私に相談を賜わって、ついに本校の開設を見るに至ったのである」と。
こうして明治38年からこの準備に着手し、翌39年4月15日に盛大な開校式を挙げた。その際の設立者の報告に言う。


農業の一大発展を計るは、戦後(日露戦争)経営上刻下の急務に属す。而して之が機関として試験場農会等の設ありと雖も、農家が之によりて以て実際にその改善を企つる者果して幾人かある。蓋(けだ)し農業者現今の状態は、祖先伝来の耕作法を踏襲して進化の大法を知らず。ただ無意識に犂鋤(りじょ:からすきとくわ)を揮(ふる)って、科学の何物たるとを弁ぜざる者比々(ひひ:並び連なるさま)皆然り。故に農業を根本的に改良発展せしめんとせば、必ずや農家の子弟をして農業教育を受けしめ、学理を研究せしめると共に、之を実地に応用せしめ、以て農業の真趣味を解せしめざるべからず。是生等が本校の設立を計画したる所以(ゆえん)にして、聊(いささ)か以て帝国の発展に資する所あらんとせり。時あたかも帝国農家一致協会の東京に移転したるを以て、直にその建物敷地全部を求めて本校の位置を定め、教室作業場その他を新築することに決し、昨(明治)38年11月15日付を以て、文部大臣に設立認可を申請し、本年1月8日土工を起し、3月13日教室の上棟式を挙げ、爾後工事を督励し漸く竣工するに当り、3月31日付を以て本校設立を許可せられ、超えて4月13日本校校長の認可を得、ここに本日を以て開校の式典を挙行するに至れり。今本校設計の大要を述べんに、既に工事をおわりたる建物は、本館65坪、教室68坪、作業場24坪、使丁室7坪にして、今後なお建築すべきものは、養蚕室43坪、肥料舎12坪、家禽舎5坪也。是等は近き将来に於て完成せらるべき者也。又、生徒実習地としては果樹園1町歩、田畑各5反歩宛を附属せしめ、その他図書器械標本品等もまた教授に差しつかえなきの設備をなせり。なお今後必要に応じ相当の設備を施して、本校の目的を遂行せしむるに於て遺憾なからしめぬ事を期せり。


(訳)農業の一大発展をはかることは、日露戦争後、経営上ただいまの急務に属する。そしてこれの機関として試験場・農会等を設置しても、農家がこれによって実際にその改善を企てる者がはたして幾人あろうか。思うに農業者の現在の状態は、祖先伝来の耕作の方法を踏襲して進化の大法を知らない。ただ無意識にスキとクワをふるって、科学がどういうものかを理解していない者がほとんど皆同様である。このために農業を根本的に改良発展させようとするならば、かならず農家の子弟に農業教育を受けさせ、学理を研究させと共に、これを実地に応用させ、農業の本当の面白さを理解させなければならない。これが私たちが本校の設立を計画した理由であって、少しでも帝国の発展に役立つ所があればとするところである。ちょうど帝国農家一致協会が東京に移転したために、すぐにその建物敷地全部を求め本校の位置を定めて、教室・作業場その他を新築することに決定し、去年明治38年11月15日付けで、文部大臣に設立認可を申請し、本年1月8日に建設工事を起し、3月13日に教室の棟上げ式を挙行し、その後工事を急がせやっと竣工するに当り、3月31日付で本校設立を許可され、翌年度4月13日に本校校長の認可を得、ここに本日をもって開校の式典を挙行するに至った。今、本校設計の大要を述べると、既に工事を終わった建物は、本館65坪、教室68坪、作業場24坪、小使室7坪で、今後なお建築しようとするものは、養蚕室43坪、肥料舎12坪、家禽舎(かきん:鳥小屋)5坪である。これらは近い将来に完成されるものである。また、生徒の実習地として果樹園1町歩、田畑各5反歩までを付属させ、その他図書・機械・標本品等もまた教授に差しつかえない設備を設置した。なお今後必要に応じて相当の設備を施し、本校の目的を遂行するに支障がないように期するものである。

想うに、世に私立学校の数少なからずと雖も、農林業に関するものはその数極めて稀に、ことに本校の如き目的の下に、而もかくの如き完全なる設備を以て創設せられたる者は、当時に在りては全国唯一の本校あるのみなりき。近くは備中倉敷町の素封家大原孫三郎氏、自己所有の農地80町歩の収入を挙げて、生徒600名を収容し得べき私立大原農学校の設立を企画して、校舎敷地1万坪の地均らしに着手せりとの報を得たり。本校設立がひろく社会の注目を惹き、各地に於て漸次之にならうものの現われしは邦家の為深く喜ぶべき事なり。
 謹んで按(あん)ずるに、二宮先生の教えたる至誠以て本と為し、勤労を以て主と為し、分度を以て体と為し、推譲を以て用と為すの四大綱領は、互いに相倚(よ)り相結びその間毫も軒輊(けんち:高低等の差すべきものなしといえども、ことに最後推譲の教えは、翁の深く精神を籠められたるところにして、人道は譲って益あり奪うて損あり、譲るものは天理に適(かな)うがゆえに栄え、奪うものは天理に背くが故に衰うと云い、或はまた好む所の酒を扣(ひか)え、安逸を戒め、欲するところの美食美服を押え、分限の内を省いて余裕を生じ、他に譲り向来に譲るべし、これを人道とは云うなりと云い、或は湯船の譬えを引きて、夫れ仁と云うは向うへ押す時の名なり、我が方へかく時は不仁となり不義となると云う。鈴木氏即ち推譲の意を解して曰く『今この理を卑近なる例を以て説明せむに、凡そ農夫が田畑に対して肥培を譲る者は収穫多く、之に反し収穫のみ奪い肥培の譲りを為さざる者は、ついに収穫を減ずるに至る、広くこの理を応用すれば、商工その他百般の人事皆然らざるはなし。故に報徳の教えに於て推譲を以て用となすは、専ら進んで譲るの意義にして、斯道運用の最大要旨なり。分度既に立ち度外の財を生じなば、富家は宜しく之を推譲して一般社会の福利を図るべし。その反報や自家の長久を得るに至らむ。又貧者は之に因て独立自営の基礎を立つべし』と。彼の有名なるカーネギー氏が、富者唯一無上の幸福は、その生存中公益となる事柄を起して、無数の同胞に与うるに永久の利益を以てし、よりて富者自身の生涯を高尚にし、かつ神聖にするを得ることこれなりと云えるは、まことに富者の福音にして、また実に推譲の意に外ならざるなり。推譲の語は司馬遷が史記に出ず、曰く先富有而後推譲と。


(訳)想うに、世に私立学校の数は少なくないが、農林業に関するものはその数は極めて稀である。特に本校のような目的の下に、このような完全な設備で創設されたものは、現在にあっては全国唯一の本校があるだけである。近くは岡山県の倉敷町の財産家大原孫三郎氏が、自己所有の農地80町歩の収入をあてて、生徒600名を収容できる私立大原農学校の設立を企画して、校舎敷地1万坪の地ならしに着手したとのニュースを聞いた。本校の設立がひろく社会の注目を惹いて、各地で次第にこれならうものが現われたことは日本のため深く喜ぶべき事である。
 謹んで考えるに、二宮先生が教えられた至誠を以て本と為し、勤労を以て主と為し、分度を以て体と為し、推譲を以て用と為すという四大綱領は、互いに助け合い結びつけ、その間に少しも高低の差はないが、特に最後の推譲の教えは、二宮先生が深く精神をこめられたところであって、「人道は譲って益あり奪うて損あり、譲るものは天理にかなうがゆえに栄え、奪うものは天理に背くがゆえに衰える」と言われ、あるいはまた好む所の酒をひかえ、安逸を戒め、欲するところの美食美服を抑え、分限の内を省いて余裕を生じ、他に譲り将来の人々に譲るべきである、これを人道とは言う」といい、あるいは湯船の譬えを引いて、「それ仁というは向うへ押す時の名である、自分の方へかく時は不仁となり不義となる」と言う。鈴木氏は推譲の意義を解して言う。『今この理を身近な例を以て説明するに、おおよそ農夫が田畑に対して肥料を譲る者は収穫が多く、これに反して収穫のみを奪い肥料の譲りをなさないものは、ついに収穫を減ずるに至ってしまう、広くこの理を応用するならば、商業・工業その他どんな人事も皆そうでないものはなし。だから報徳の教えにおいて推譲を以て用となすというのは、専ら進んで譲るという意義であって、この道の運用の最大要旨である。分度が既に立って分度外に財産を生じるならば、富家はよろしくこれを推譲して一般社会の福利を図るべきである。その反報sとして自分の家が長久となるであろう。また貧者はこれによって独立自営の基礎を立つべきである』と。あの有名なカーネギー氏が、富者の唯一無上の幸福は、その生存中に公益となる事業を起して、無数の同胞に永久の利益を与え、これじよって富者自身の生涯を高尚にし、さらに神聖にすることができることであるというのは、まことに富者の福音であって、また実に推譲の意義に外ならない。推譲の言葉は司馬遷の史記に出る、曰く「先に富有し而して後推譲す」と。






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最終更新日  2010年09月10日 18時44分50秒



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