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2012年01月28日
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小野江善六翁小伝
はしがき
小野江善六翁の小伝をものせんとするに文献の徴すべきもの少なくその詳細を知るによしなく、ただ明治34年10月報徳結社の事について内務大臣に提出したる履歴の副本と翁の古稀の齢を迎えられし時、そが記念のため知人なる市川安吉氏が翁のために書きつづりし略歴一本とあるのみ。今この両冊子に基き、かたわら浜松館蔵の記録を探り、翁に関する数項を発見し、これを集録したるに過ぎず。これ九牛の一毛にして翁が多年経営尽瘁せられたる全般にわたるを得ざるを遺憾とす。見ん人これを了恕せられんことを乞ふ。
 昭和3年10月
                          後進 神村直三郎識

  目 次
一、口絵   小野江善六翁肖像
一、同    顕彰碑(表面)
一、同    同   (裏面)
一、小野江翁伝
   生立と家庭(自叙伝)
   翁と井上河内守(同)
   翁と開墾地(同)
   翁と公共事業(同)
一、翁と講演(浜松館記録抜粋)
一、翁の文藻
一、翁の終焉と吊辞〔弔辞略〕
一、翁の建碑及寄付金芳名録〔略〕
一、編集を終へて

「小野江善六自叙伝」 

 予が履歴は曩(さき)に家政調帳なるものをものして粗(ほぼ)其(その)事を記(しる)し置きぬれど、世にありし頃、町内有志と謀りて領主の御為め、或は有志のため為す事ありしくだりは彼の調の帳にて未だ尽さざりければ、こたび更に其(その)くだりを書きつづりて左に掲ぐる事とはなしぬ。しかばあれど、年頃ことにふれものにあひて記(しる)し置つる帳簿はかぐつちのあらび〔火の神の荒び:火事〕に烏有(うゆう)〔全くないこと〕となしつれば其(その)年月を記(しる)すによしなし。ただ其(その)ことがらを記憶のままに記(しる)し置ぬと云爾(しかいふ)。
 明治十九年秋          小野江豊長識(しるす)


生立と家庭
 豊長通称善六といふ。父は遠江国周智郡森町の農山中豊平なり。豊長は其(その)六男にして、母はさちと云ひ、同郡市場村加藤某の女(むすめ)なり。豊長幼名六郎と云ふ。七歳にして母を失ひ十一歳にして父を喪ふ。後流浪して十三歳に至り同国敷知郡浜松田町の商小野江善六方に奉公し商業に従事する事十五年間。時に年二十七歳、主家一女あり。之に娶(めと)はせ豊長を養子と為さんと云ふ。豊長以為(おもへ)らく奉公の身を以て俄然(がぜん)其(その)家の養子となる。恐らくは家族親戚の信用無らんと辞すること再三。然れども主家尚豊長の実家に迫り素志を遂んとす。茲(ここ)に安居院義道と云ふ人あり。此(この)人二宮尊徳先生の遺教たる報徳の道を教諭し、其(その)頃豊長実家の親戚新村豊作方に逗留すと聞き、直ちに行きて豊長進退の可否に就きて教を乞ふ。先生曰く、昔舜聖は天下を保つて与(あずか)らずと云へり。所謂(いはゆる)其(その)位に在りと雖も其(その)位に安んぜず驕慢の所為無く己れ与(あずか)らざるの謂(いひ)にして乃(すなは)ち一点も私心を挟まざる義なり。且(かつ)賢を尊ぶときは惑はずとの金言あり。之を遵守するときは仮令(たとへ)主家の養子と為るも何の難き事之れあらんと此(この)諭し周到懇々教示せらる。此(この)語豊長心魂に徹し豁然(かつぜん)として白日晴天を視(み)るが如し。茲(ここ)に於て意を決して其(その)諭示に従ひ、竟(つひ)に主家の養子と為り、夫(それ)より報徳の門に入り、純ら該教を修行し義道先生に師事し弟子たるの道を失はず、先生病没の秋、遺体を田町玄忠寺に埋葬して後法養怠らず。
山田開墾の事
 遠州国敷知郡島之郷村同郡高林村両村入会地字山田四つ池と云ふ該地は山間殊に瘠薄(せきはく)の地にて、荒蕪不毛の地なりしを万延二辛酉年領主井上河内守殿へ右荒蕪地開墾方願上御聞届の上、報徳の教に随ひ耕耘(こううん)培養辛苦勤行数年にて終に荒蕪を開く事、田二町八反歩余。爰(ここ)に至て新に農家四戸自費を以て建設、衰貧の者を集め之を補助し農事を営ましむ。
 畑地開墾の事
 山田四つ池開墾の地へ農家四戸建設すと雖も、田面のみにて畑地無し。因て慶應元子年最寄り和地山の内、不毛の地を旧領主井上河内守殿へ拝借願上げ許可を得て畑地に開墾す。然るに素より瘠土の原野新開なれば、右小作四戸の者、耕耘(こううん)肥培不行届(ふゆきとどき)に因り又々荒地とならむことを憂ひて自ら茶の実を蒔付けしかば漸次成長に及び、其(その)後旧浜松県所轄たりし時、地所御払下げを願ひしに速に許可を得て所有地となれり。此(この)地改正反別畑九反四畝三歩あり。





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最終更新日  2012年01月28日 06時42分35秒



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