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カテゴリ:木谷ポルソッタ倶楽部ほか
ほぼ徹夜で 校正して 北海道の友人にメール便速達で送った 昨年の9月に彼の案内で 小樽港の北防波堤を視察し、彼に「あとがき」を書いてもらっていたのでその確認がある。 それとともに、「鈴木藤三郎翁の足跡を求めてin台湾」と小冊子が 台湾で初めてわたしたちの会の本を印刷製本していただいた、いわば産婆にあたる利先生のレクイエムの意味を持つのに対し、 今度の「ボーイズ ビー アンビシャス」は北海道の友人とも共通の畏友木谷さんを紙の碑に刻むものででもある。 私たちの活動の一端は木谷兄の街づくりの広報運動や文筆活動に刺激されたところがあるのである。 報徳とは私たちが受けた先人の徳を受け継ぐとともに更に発展させて、後の世の人々に報いることにある。 その意味で今回の本を作成し、日本全国の公共図書館に収蔵していただこうと思う。 資料として収めた宮部金吾の内村鑑三小伝(米国留学まで)、新渡戸稲造小伝、広井勇小伝を一緒に収めたことだけでも価値があると考える。 とくに内村と広井の小伝は入手が難しいのである。 新渡戸と宮部金吾の往復書簡も往復の形で世に提示されるのは始めてであろう・
会員の一人に 別の目での校正をお願いしたが、忙しいなかやっていただけるかどうか。 マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をベースとしており、その知識があったほうがよいと思われる。
「終りに」に上記の事情を幾分か記した。
終りに 街作りには3人以上の仲間が必要です。世界中のまじめな魂との交流が大切です。 平成十四年(2012)九月、私は北海道の友人の誘いで札幌と小樽を訪問した。東京に勤務していた時、北海道の○○、大分県の木谷さんと交友し、その後も交友は続いた。木谷は文筆が達者で「健太郎さんと薫平さんに教わったこと」(自費出版)の外、新潮新書から「湯布院の小さな奇跡」を出版された。その本に湯布院の健太郎さんらがドイツの温泉町バーデン・バイラーを視察した時、ホテルの主人グラウテルから、あなた方は町をよくするため何をしているかと一人一人指差されて問い詰められ、真っ赤になって何も答えられず、それがきっかけで湯布院の街作りを決意する感動的な場面が載っている。グラウテルはこうも言った。 「街作りには三人以上の仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。 札幌農学校の三人組を考えるとき、この固い友情の絆が、彼らが苦難のとき、どれほど頼みになり慰めとなったことを思う。一方、広井は孤独に自分のうちに沈潜し、信仰の事は内村を除いて人に語ることがなかった。ピューリタニズムは、人間を孤独にし、人を神と直接向かわしめるところがある。新渡戸はあだ名をつける名人で、広井を手紙で「ズル」「ズルッコ」と幾分侮蔑がこもったあだ名で呼んでいる。広井は同級生との付合いも犠牲にして金をため、同級生を出し抜くように二期生で最初に渡米する。 これは三人組にも衝撃を与えたようで、新渡戸、内村、宮部と広井に続くように渡米する。広井がアメリカの橋梁会社などに勤め、土木の実務を身につけ、英文で著した本が欧米の土木の教科書として名声を博するなど実績を積み上げるなかで、三人組も広井の真価を認めるようになった。内村鑑三は広井が亡くなった時の葬儀を主宰し、広井を「紳士の工学」を打ち立てた「清い工学者」でしたと讃えている。 私の北海道行きの目的の一つは、広井が築造した小樽港北防波堤を視察することだった。 広井は台湾で百年ダムを作った八田與一の恩師で八田に大きな影響を与えた。「人類のため」の工学を目指した青山士も広井の教え子だ。 北海道の友人は千歳空港まで車で出迎えてくれ、札幌に向かう途中 「札幌農学校に興味があるようだから」 とクラークが「Boys be ambitious」と言った旧島松駅逓跡に寄ってくれた。 クラークは苫小牧へと馬で去る時、この駅逓の休憩所に寄った。 当日農学校は休校とし、教員・生徒はここまでクラークを見送った。 案内された方が土木出身で「二期生に広井勇がいます。 土木の世界では『広井公式』という波力公式を作っている人ですが、内村や新渡戸ほど知られてなくて」と漏らされたのが印象的だった。 「明日小樽港の広井勇が築造した百年防波堤を見に行くところなんですよ」と言うと喜ばれた。 翌朝友人と一緒に台北経済文化代表処札幌分処の処長にお会いした。 平成二十四年(2012)八月静岡県森町で開催した文化講演会用に作成した「鈴木藤三郎の足跡を求めてin台湾」のパンフレットを置いてもらうためだった。 処長は丁寧に応対して下さりパンフレットも置いて頂いた。 その後私達は小樽を目指した。 小樽には建設省小樽港管理所に展示室があり、広井勇の防波堤建設に係る資料が展示されていた。副所長自ら案内して頂き説明を伺った。 「二〇一二年が広井勇の生誕百五十年にあたり、高知の故郷の町でも記念展をやりたいと見えられましたが、広井勇は知られていなくて」と言われた。 その時八田の恩師である広井勇と札幌農学校をまとめてみたいと思った。 広井はほとんど手紙を残していない。 「『工学博士廣井勇伝』「書翰より見たる廣井博士」によれば、 「内村鑑三氏との信仰上の問題に関する往復の書信などは全部焼き捨てた」 とあり、宮部金吾あての十四通の書翰が『今は何より尊い資料である』と書かれています」とある。 そこで札幌三兄弟と広井を含めた中で交流の記録をまとめた。 私たち三人の友誼もまた共に記念するために。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年03月03日 08時01分35秒
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