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2014年12月19日
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4 二宮金次郎と妻なみ

 

二宮金次郎は最初中島きのと結婚した。このことは『報徳記』に載っていない。きのとの結婚は長く続かなかった。きのは離別を申し出て去って行った。福住正兄の『二宮尊徳翁略伝』によると「親戚の勧めにより妻をめとる。妻、性吝(りん)。翁の貧人をあわれむの多費なるを喜ばず。しばしばこれを諫止す。恬然(てんぜん)としてかえりみず。ここにおいて妻、離別をこう。翁、これを許す」とある。

きのは、金次郎が貧しい人を憐れんで金銭を恵むことを快く思っていなかった。金次郎の母が「人を恵む者など稀だ」と言ったが、当時も今も、人の情であろうか。金次郎は「幼年の困窮艱難、実に心魂に徹し」「あるいは我のごとき極難困窮、暮し方たより少なき者を恵まんと欲し」て、貧窮に苦しむ人を恵んでその喜ぶ姿に、父母の姿を偲んだのであろう。

金次郎は小田原藩主から桜町赴任を命じられる。。

金次郎独白:せっかく家を復興し、祖先の田畑を買戻し、追孝ができた。ところが殿様から親しくお言葉をたまわり、宇津家の領地を復興してくれと命を受けた。今、殿様へ忠を尽そうとすれば、せっかく建て直したこの家をつぶすことになろう。孝を全うし、祖先を祭ろうとすれば、君命を廃することになり、忠義を全うできない。古来、忠義を二つながら全うできないと言われている。私はどうすればよいだろうか。

 

(金次郎はしばらく沈思していたが、ハッと思い当った。桜町赴任の決意を父母の眠る墓所で語る)

 

ああ、何を憂い何を惑うことがあろうか。元来忠孝は一つである。人が至孝であれば忠は自ずからその中にある。君命を得ないときは、一家を興し、祖先の祭事を行うのが孝である。一度君侯の知遇を得て、百姓を安んじてくれよと命を受けたからには、この民を安んずることが孝である。もし君侯の命を廃するならば、たとえ億万の財産ができ、一家が繁栄しても、父祖の霊は必ずや私を孝ではないとされるであろう。僅かな一家を廃して万民の苦しみを除き、君侯にご安心いただき、また、百姓の生活が安定すれば、また父母のみ心にかなうであろう。

お父さん、お母さん、私は、万家のために一家を廃します。これでよいですね。

 

(金次郎は家に帰って妻に告げた)

 

二宮金次郎:

今、明君が上にいまして、私に廃れた村を興し、その民が安らかに暮らせるよう命じられた。三年にわたって辞退したが、殿様は許されない。止むを得ずその命を受けることになった。このような大業は、平常の行いでは成就できない。したがって一家を廃して、相続の道を捨て、身命をなげうって努め励もうと思う。

しかしこれは婦女子の理解できるところではない。私と共に多くの辛苦を尽して、君命をはずかめないことを思うならば、共に野州におもむこう。もし、普通の心で、苦労を厭う心があるならば、今すぐに去るがいい。

 

妻:あなたは何ということをおっしゃるのですか。女子が一度嫁するときは、二度と帰る道はありません。生家を一歩出る時にあたって私の心はすでに決しております。あなたが火を踏むとおおせであれば私も共に踏みましょう。ましてや夫が君命を受けて大業を成そうとする、これは私の幸せではありませんか。身を捨てて苦労に甘んずることなど、いうに足りましょうか。名誉や利益に走って身の安逸を願うのは君命がなくても望まないところです。どうぞ心配なさいますな。一緒に野州に参りましょう。

 

二宮金次郎:

はっはっ、お前の言うとおりだ、ありがとう。

 

(講話)ここに金次郎は、自宅から田畑まで売り払って、夫人と子どもの弥太郎を連れて栃木県桜町に赴きました。二宮金次郎の大業を支えた夫人の存在は大きいのです。

 尊徳先生は、三十一歳で堀之内村の中島彌野右衛門の娘「きの」と結婚します。婚礼は文化一四年二月二八日に行われした。その年十二月に服部家の家政改革を引き受けます。翌文政元年より詰めきりでした。「きの」はこの留守中に田畑の耕作を行い、家政をしきらなければならなかったのです。金次郎は仕法中給金は受けません。妻「きの」から見れば、いわば一銭の得にもならないことに、家のことは自分一人にまかせと不満を募らせていたことでしょう。翌年一月一八日に徳太郎が生まれますが、二月二日に亡くなります。「きの」は金次郎に望みを失い、この人は到底将来を頼むに足らないと離別を要求します。金次郎は「きの」に、畑にわたを蒔いて欲しいだけの反物でも織って携えて帰れと言いますが、「永くいればそれだけ損だ」と実家に帰ったと伝えられています。文化二年先生三十三歳の時で、わずか二年間の結婚生活でした。この間のことは「報徳記」では触れていません。「二宮尊徳翁略伝」では「妻の性は吝嗇で、先生が貧民を恵むことの多費であることを喜ばず、しばしばこれをやめさせようとした。先生は何事もないかのようにこれを省みなかった。ついに離別を求めた。先生はこれを許された。」とあります。服部家では服部家の家政建直しに従事していたため離別に至ったと気の毒がり、当時服部家に女中として雇入れていた波子を後添いに勧めました。波子は当時十六歳、金次郎は三十四歳で十八歳の開きがあります。波子の父は年齢の相違がありすぎるとためらいますが、波子は「服部の旦那様の仰せには『金次郎ならばよい』とのお話である」といって結局話がまとまりました。文政三年四月二日婚儀が行われました。

 この「波子」こそ、後年「歌子夫人」といって内助の功が讃えられた女性です。その功績を刻んだ顕彰碑が、夫人の実家のあった飯泉の地にあります。飯泉観音の裏手にあたります。この地にたたずむと、夫人は飯泉観音が二宮金次郎を助けるためにこの世に遣わされたのではなかったかと思われてきます。







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最終更新日  2014年12月20日 02時31分46秒



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