12347962 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | 報徳記&二宮翁夜話 | 二宮尊徳先生故地&観音巡礼 | イマジン | ネイチャー | マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 | 宮澤賢治の世界 | 五日市剛・今野華都子さんの世界 | 和歌・俳句&道歌選 | パワーか、フォースか | 木谷ポルソッタ倶楽部ほか | 尊徳先生の世界 | 鈴木藤三郎 | 井口丑二 | クロムウェル カーライル著&天路歴程 | 広井勇&八田與一 | イギリス史、ニューイングランド史 | 遠州の報徳運動 | 日本社会の病巣 | 世界人類に真正の文明の実現せんことを | 三國隆志先生の世界 | 満州棄民・シベリア抑留 | 技師鳥居信平著述集 | 資料で読む 技師鳥居信平著述集  | 徳島県技師鳥居信平 | ドラッカー | 結跏趺坐 | 鎌倉殿の13人 | ウクライナ | 徳川家康
2015年01月25日
XML
カテゴリ:広井勇&八田與一
聖書と日本の非戦論 山口陽一(「聖書と日本人」p.167)

近代の日本において反戦の思想が世間の注目を浴びたのは日露戦争の折である。すなわち、日露開戦を主張する主戦論に対し開戦を非とした非戦論がそれであり、キリスト教徒の一部と社会主義者によって主張された。以来、明治期の反戦論は非戦論と称される。
ここでは「日清戦争の義」を叫んだ内村鑑三が、やがて「猛省」して非戦論に転じ、ついにはキリストの再臨を待望するに至るまでの時期を扱う。(略)
 聖書と非戦論の関係は単純ではない。旧約の歴史は信仰のゆえに剣を取る<聖戦>の歴史であった。しかし、イエスの神の国は、剣によらず十字架の死と復活によって打ち建てられ、古代教会はイエスに従って非暴力を実践した。これは非戦論というより平和主義と呼ぶのがふさわしい。ところが、ローマ帝国によるキリスト教公認から国教化の結果、戦争は容認されて<義戦論>が生まれ、ついには十字軍から宗教改革期の宗教戦争という<聖戦>に再び行き着く。プロテスタント正統主義も<義戦論>に立ち、これは主流派の教会において受け継がれた。そこでは、国家は神の支配の下に位置付けられ、罪の世の必然として戦争は是認されたのである。
 これに対し、兵役拒否の<非戦論>を叫んだのは、フレンド派(クエーカー)に代表されるように、既成の教会から離脱した少数者たちだった。
 戦争に対するこれらの立場のうち、<聖戦>の論理を旧新約戦争から導き出すことはできない。ある得るのは現実主義の<義戦論>と、<非戦論>にまで徹底する平和主義であるが、この小論で注目するのは、日清戦争の経験から聖書を読み直して<義戦論>を捨てたキリスト者たちの<非戦論>である。

二 日清戦争の義

 日清戦争の前年の1893年4月、東京帝国大学教授井上哲次郎は『教育ト宗教ノ衝突』を著し、キリスト教は日本の国体と相容れないとの主張を繰り返した。内村鑑三の一高不敬事件(1891年1月)に端を発する「教育と宗教の衝突」論争である。この時期、日本の教会は、国家主義の風潮により大きな打撃を受けた。10年先日本はキリスト教国になるだろう、というような希望を抱かせた欧化主義の時代は去り、教会の数的成長は目に見えて停滞を始めていた。
 内村を逡巡させた「教育勅語」の宸書に対する奉拝のような国家儀礼への参加の是非に関して言えば、強くこれを批判した植村正久から、それに近い柏木義円、さらには拝礼を可とした横井時雄・金森通倫まで相当の幅があった。ただ、木下尚江のような特例の除けば、総じて日本の「国体」とキリスト教は衝突するものではないとないとの弁明がなされた。
 近代日本がその国運を賭けた最初の戦争に突入したのはこうした時代だったのである。
日清戦争は、日本の教会にとって国家の一員たり得るかを問う試金石となり、教会はフレンド派の一部を除いて全面的に戦争を支持することになる。
(略)
 内村鑑三は、The Japan Weekly Mail の8月11日号に “Justification for the Korean War” を発表し、欧米に向けて日清戦争の正当性を主張する。
 もし戦争の多分は欲より来るとするも、すべての戦争は欲の戦争にあらず、利欲をもって戦争唯一の理由とみなし、もって神聖なる人類性の価値を下落せしむるなかれ。吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと、その義たる法律的にのみ義たるにあらず、倫理的にまた然り、義戦たるものはこの種の義に因らざるべからず
 彼は、日清戦争の目的を三つあげる。朝鮮の独立、シナの懲戒、そして東洋の文明化と永久平和である。この時の内村の論の特徴は、世界歴史の中から多くの義戦の例を引き、義戦の理由を具体的に示していることである。聖書からはギデオンがミデアン人と戦ったのを義戦の一例として語っているが、新約からの引用はない。
(略)
 日清戦争が義の戦争であることを具体的に論じていた内村鑑三は、戦後しばらくたった1897年(明治30年)12月 “A Retrospert” (猛省)を迫られた。弱小国の救援、すなわち朝鮮の独立のための義の戦いは変節し堕落した。
「台湾をもぎ取ることと、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と何の関係があるか」と彼は憤慨する。朝鮮の隷属は主人を変えただけ、賠償金は軍備増強のみに使われた。
「これほど栄光にみちて始まり、これほど恥辱にみちて終わった戦争がかつてあっただろうか」


猛省
(明治三〇年一二月一四―一六日『万朝報』)
 三年半前、日本国民が一体となってシナとの戦争に入ったとき、我々は最も高貴な動機をもって危険な企てを始めたのだった。それは弱国をその尊大な隣人の支配から救うためだった。我々の強さはその時まだ試されていず、シナの弱さもまだ露顕していなかった。彼の海軍はわが海軍に勝り、彼の国庫は無尽蔵、彼の要塞はほとんど難攻不落と考えられていた。それでも戦争は義戦として始められ、それゆえに我々はたとえ国家の存立を犠牲にしても戦う価値があると考えた。それはペルシャのアケメネス朝の王たちに対するギリシャ人の戦いに似た戦い―文明のための戦い―と我々は考えた。正直なところ我々ははじめてこの戦争におもむくことを求められたとき、血と肉とに協議すること、ましてや自己と欲望に協議することなどつゆほどもなかった。
 *
 牙山においてピョンヤンにおいて、黄海の海上において、我々の鬨(とき)の声はこれだった―弱小隣国の救援!殺戮(さつりく)はこの動機に基づいてのみ正当と認められた。そう、我々は命を失うことを何とも思わなかった―自分たちはまさに「人が人のために死ぬ所」たる祭壇に犠牲として捧げられることを知っていたからである。支配者の剣が堕落するまでの日清戦争は、日本史の中で、その道徳的達成の最高点を示す指標としていつまでも記憶されるだろう。
 *
 ところが、そこで変節が始まったのだ。まず指導者たち、ついで軍人、そしてついには全国民が、最初の誓いを捨ててしまった。彼らはいまや全く新しい道―卑劣不正な征服の道に入った。「シナ四百余州を双肩に担う」、「我が金融組織を確立するに足る金を吸収する」、「手負いの兎はしっかり捕えるまでははなさない」といったような声が、我がラッパ吹き新聞から聞こえ始めた。陽光輝く澎湖諸島に新しい遠征隊が送られ、自然の警告を無視し、恐ろしい悪疫を犯して征服を敢行した。威海衛は陸海からのわずかな攻撃だけで陥落し、丁汝昌の北洋艦隊の殲滅は、死んで行った者には不幸であっても我々の幸福には何の関係もないこととして、歓呼された。そして陸軍が遼東半島の背面に入ったとき、「過てる兄弟を膺懲(ようちょう)する」よりは「弁髪(べんぱつ)狩りをする」ために戦争が遂行された。牛荘を奪うのは何ら面倒なことではなかった。北京や奉天にむかい、我々は「二世紀にわたって蓄積された馬蹄銀(ばていぎん)」を目当てに急いだ。
 ピョンヤンを占領した時には、正義が我々の目的だった。凍結した遼河を渡り、山海関にむかった時には、その同じものが我々の口実に過ぎなかった。国家の進路が本来の高貴な道からこのように逸脱した―これは目撃するに最も悲しい逸脱だった。
 *
 敵と講和を結ぶことになったとき、我々は朝鮮の幸福と独立を最大の関心事となすべきだった。講和条約のその他の条項は、すべてこの唯一本来の目的に従属せしめられるべきであった。このことに失敗して、我々は戦争全体に失敗した。そして事実はどうなったか?
 *
 下関条約は平和の条約ではなかった。正確に理解すれば、それは将来長年にわたって極東を荒廃させる幾多の続けざまの戦争の条約であった。すでにそれはきわめて不可解なやり方で朝鮮の王妃を処分した。すでにそれは西洋の一強国による中国の一港湾の最も無法な占領を招いた。そしてあの恥ずべき条約の当然の結果として、またこれから起こるべき幾多の破滅的な事件を予想するのに、予言者の目は必要としない。
 なぜ、こうなったのか?日本があの条約において偽善的にふるまったからである。義戦が不義のうちに終結されたからである。台湾をもぎ取ることと、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と何の関係があるか。シナの暴徒の手にかかって殺された二人のカトリック宣教師の生命の代償の一部として、山東地方の鉱業独占権を要求するドイツの態度も、これよりわずかにもう少し不合理の度合いが大きいにすぎない。下関条約で、日本は戦争の本来の目的である朝鮮の独立のために、何ら特別な保証を求めなかった。二億両(テール)、遼東半島、揚子江流域の新条約港の開設、および台湾と澎湖諸島の割譲は、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と、極めてかけ離れた関係をもっているにすぎない。我々はここに告白しよう。かつて「日清戦争の義」を書いたことをみずから極度に恥じていると。下関条約はあの戦争を不義なるものとした。あれは義戦として始まったが、欲戦として終わったのだ。
(略)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年01月26日 02時23分03秒
[広井勇&八田與一] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.