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2015年07月25日
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【三四六】春野新芽を生ずる。去秋実る所の種子なり。万理此に出でざる莫し。今日福を得るは、祖先の積善に在るなり。今日禍に遇ふは、祖先の積不善に在るなり。譬へば種へざれば生ぜず、培はざれば茂らざる如くなり。仏氏之を過去の因縁と謂ふ。且夫れ謹敕篤実。或は学に志し、或は学で之を識るも、亦祖徳の余光、自己の力に非るなり。萊菔の長ずるは、培養に在るなり。葉茶の香は、寒肥在るなり。今年飢寒を支へ身命を養ふは、去歳業を勤るに在るなり。今日播て以て之を食ひ、今日織て以て之を衣る。古より以来、未だ之れ有らざるなり。然らば則ち自持を以て自力と為す者、亦過らざるなり。鹹葅塩少ければ、則ち保つ能はざるなり。萊菔肥少ければ、則ち長ずる能はざるなり。人祖徳無れば、則ち自持能はざるなり。万理皆然り。件を逐ひ之を説く。殆ど煩に耐へず。故に春野の国詩を賦し、以て之を総括す。

1 春の野にめだつ草木をよく見れば さりぬる秋に実のるくさぐさ

【三四七】余、君命を奉じ、野州の廃邑を興す。荒蕪を墾き、溝渠を鑿り、徑路を造り、橋梁を架し、家屋を営し、厩厠を作り、衣食を給し、農器を班ち、善を賞し窮を恤み、撫循教導、事務百端、費用無算、未だ考妣の墓標を建る能はず。況んや、其の他に於てをや。何となれば則ち公事急にして、私事を営むの暇無ければなり。

1 我は初約の如くに今居住なく、二人の子の置処もなし、路頭に迷たるに等しく、一旦の安居せず、下館永久の道行はれざる事を歎息するのみ(下館談話記)

下館談話記
さる天保9年に御領分を立て直して永安にする仕法を、先君(石川総貨ふさとみ)から御直書でまた各々方から厚く頼まれましたので、やむを得ずいろいろと再復のお世話を申し上げました。果たして天保9年に3万5千両あった借財があったのが、5年後には1万6千両に減少して、おいおい借金が無いようになり、したがってこれまでの難儀やしのぎの道も立つようになりましょう。さらにまた民間の再興の糸口を開き、灰塚村の一村のことは皆様がご承知の通り復興して、村民一人もそのところを得ない者はなく安心できるようになりました。いよいよ天保9年に依頼の時のように、憤発して実行されれば、きっと領村の再復はもちろん、積年の借財もすべて返済でき、上下の永安の道も立つことは必定となりましたが、私が幕府に召し出されて以来、以前のようにはお世話ができなくなったとは申しながら、一同が手堅く実行していただければ、すぐに安心できるようになったところ、またまた借財がかさんで当惑されている様子を、先日衣笠氏からいろいろとお話がありました。
このところ幕府の仕事が忙しくわずかな時間もありませんが、天保9年以来すでに10年余りに及んで、一年ごとに安心できる仕法であるのに、今になってかえって借財がかさんで当惑しているとのこと、このままほおっておいては先君が厚く依頼になったせんも無く、また一身をなげうって世話してきたかいも無くはなはだ嘆息して、やむをえず万事を差し置いてまかりでて相談にまいりました。
以前領内の村々の再復する方法を実施したいという旨を仰せ付けになりましたときも、従来他藩などの領村立直りの事業を実施中で、これ以上拡張することはどれほど仰せをこうむりましても辞退いたすしかない。下館藩の仕法が成功するかしないかをしっかり定まって、いよいよ成就できないようであれば、最初からの帳面類を残らず焼き捨てて、下館の仕法もできない次第がこのようであれば、幕府において御採用になっても御為めに成らない旨を届け出て隠退いたしましょう。
もしまたいよいよ拡張すべき道ではあるが、何となく流れててしまい次第に借財も増すようであれば、やり方によっては借金皆済の道も立つようにしましょう。
去る天保9年に御依頼になったときも外にやり方が座無く、下館藩の過去の帳簿類を調査して、平均の分度を定め、再興の仕法を作成いたしました。
このたび成不成の根元を明らかにして、拡張しても、畳置きになろうと、10ヶ年以来の成果を、きちんと取調べて見れば、論を待たないで明白に分かることでしょう。
先日なぜそれ以来の調査ができないのかと衣笠氏へ尋ねましたところ、
奉行の鈴木源八郎氏が長く病気で遅れて、病床にあるのに調査の進み具合を尋ねるのも病気にさわるので、やむなくそのまま流れておりますとのお話。
これは何という事でしょうか。御仕法の調べは私事ではなく、一国の興廃にかかわる大事であるのを、一人の病気にかかわり、捨て置かれているとは、指の小さなキズを憂えて、全身の大きな患らいを捨てておくのと同様ではありませんか。一身の憂いを除く為には10本の指も切り落としても顧みないものではありませんか。これは大小軽重のためには、国家の大で事あれば、このために一命をも棄てるのが臣たる者の常道ではありませんか。
御家の興復の大業を病人のために実行できなず、廃しおかれるとはあまりの心得違いではありませんか。これは全くそうではなく、復興の志願がないためです。
復興の志が無いようならすぐに止めるべきところ、何となく歳月を送っては、依頼された方では差支えもないでしょうが、年来世話いたしてきた私において、今日の幕府での仕事を続けるべきか当惑しているところで、いずれかに定めたいと思ってまかり出ました。
鈴木氏や大嶋儀左衛門の両士がまだ桜町に出張されない時も明細の調査をいたして差上げました。いわんやその後の調べは誰かいなくても、分ららない事は無いところです。早々に調査してご覧にもいれましょう。その上でよろしくないということであれば、残る所なく焼き捨てて、お互いにこれまでの事などは取り棄てましょう。それとも調査するにも及ばないで、このままで止めてくれよとの思召しならその通りにいたしましょう。またますます押し立てたいと天保9年のように借財を皆済し領中を再復したいので取り計らいたいというご依頼であれば、最初どうしようもないほどの極難の状態でさえ承知して仕法を組み立ててあげたのですから、今は借金はだいぶ減っただけでなく、領内も自然と豊かになったのですから、引き受けて無借の道を取り計らうこともやさしい事です。
最初の半分ほどの状況でも無いのですから、安心できるよう取り計らいましょう。
そもそも先君の厚い仁心で家政を取り直したい、領民を恵み育てたいと頼まれたのですから、思いがけず御逝去になり愁歎は限りなく、しかしながら思召しは当君が幼年でありますが、父君の思し召しを無に遊ばされるような不孝の思し召しは全くないことでしょう。いわんやおのおの方には先君の思し召しを継いで、幼君を補佐し、国家の永安にする政治を実施し、死に仕える事、生に仕えるような忠義に励み勤められることは当然として、いよいよ先君の思し召し通り借財を皆済し領分の復興の道を押し立てられれば、先君の尊霊を安らかにし、当君への忠義もしっかりと立ち、2万石を永久にする大きな幸いこれに過ぎないことになるでしょう。
このように厚く実行しさえすれば、まず皆済の道も立つようにいたしましょう。
私の方は最初からとにかく思いは無いことですから、どちらでも決めてくだされば、その旨をそれぞれへ伝達して、一身の進退をいたしましょう」と申されたところ、特に異論もなく、相談の上でごあいさつに及びましょうということで退散しましたとの事。

(略)

尊徳先生が衣笠に言われた。
「むかし、曾子は(死ぬ時に)門人に告げて『わが手をひらけ、わが足をひらけ、戦々恐々として深淵に臨むがごとく、薄氷を踏むがごとし、今まぬがるることを知るや、小子』と言われた。
桜町亡所を復興した実業を見て、下館2万石復興のことを委任されてから、身を忘れ、財をなげうって、日夜のわずらわしい仕事や苦労を厭わず、盛衰・存亡・栄枯の根源を明らかに調査して、その中を執って、国家の政務の大本を立て、数万の借金を消し去る道を立てて、衰廃再興の道を行って以来、既に10有余年、その成果も少なくありません。そうであるのに善と見て強く行うことなく、またあえて廃することもしないで、ゆったりとして惰弱に流れる、つまり道を廃するの基である。どうしてこれならば、始終一のごとく憤発勉強しないのか。もしよくないならばどうしてすぐに止めて私に委任した荷を除かないのか。戌年以来の諸帳面を閲覧して、これもよくない、あれもよくない、実行に足るものはないというならば残らず焼き捨てるべきである。一書も余すことなく焼いてその後に私もまた(曾子と同じように)下館のことを免れるを知るといえよう。善を見て行わないのも勇気が無いからだ、不善を見て捨てないのも勇気がないからだ。
人生は限りが有る、いずれの時を期して一定しないのか。そもそも戌年の頃、下館藩の急難は極まっていた。
あの時にこの仕法がなければ、困窮は月々に増し、歳々に迫っていたであろう。上が困窮すれば下が取る財がない。下の限りがある財で限りのない望みに供する、数年もたたないで国中が衰微し、民は飢寒を免れないようになろう。このようになっては国があるといってもどうして亡国に異なろうか。そうであるのにこの大患を免れただけでなく、10年以上無難に年月を経て、それだけでなく数万両の借金を払って、今日に至る。その事の功績は平常のことではない。もし仕法がない時には市中の財は尽きて、困窮した民が離散することは疑いない。今、家々が潤っていることは戌年以前に倍している。中兵(下館藩の御用商人)が才能があったとしても、どうしてこのような豪邸を造ることができよう。ほかの7人衆もどうして今日の安泰が得られよう。これは皆、国の憂いを私が背負ったから人々の幸せが存するのではないか。一藩もまた同じだ。
私はこれに異って、人の幸せを先にして身の幸せを捨て、人が安らかに暮せるようになして自身が安らかに暮せることを計らわない、専ら下館藩2万石の憂いを除くことを先としたために、10年以上たった今になっても一日も安らかに暮せる住居もなく、2人の子も処置もしていない。ところがこれは嫁を取り、彼は孫を産む、これは婿を取って、彼は相続の道が立って安心したという。元から人々の望みを得させるために困苦していることであるから、この仕法をいよいよ厚く行って、最後に成就できればもっとものことであるが、いったん困難な状況をしのいで、それぞれの苦しみを免れるやいなや、帳面も調べず、あるいは約束を変じて分度を越え、国の分度に無い物を一藩の藩士へ渡し、借財でその不足を補って、千辛万苦の丹誠を廃して、再び亡国の大患を招いて、空しく歳月を送る。どうして道といおうか、義といおうか、忠といおうか。

(略)



右、先生下館戌年以来之御仕法何となく相流居、初発先君公御直書を以厚御頼仰入れられ、御役々同断御頼被 仰入、御役々同断御頼有之候甲斐もなく、又不得止事御衰微御立直、旧復永安之御仕法一身に替、万苦を甘んじ、御世話被申上候詮もなく、一国御上下之御憂は不及申、先生今日之御奉公御進退にも拘り候儀に付、無余儀於中兵居住、取捨御決断之御談合有之候処、的論明言百分一も相認度、病床に於て苦痛を忍び筆を執候得共、短才不知之及所にあらず。只自ら遺忘に備んが為千言之一を記す。然れども其深意を失もの多からん。愚蒙之筆を立て却て高徳を損する之憂少からず、故に他見をゆるさず。
  于時嘉永三庚戌十月十五日







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最終更新日  2015年07月25日 08時00分06秒



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