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2016年07月14日
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小さな由布院、百年の町づくり 木谷文弘

1――湯布院が求めてきたもの
「九州の山ん中の小さな田舎というかムラ、それが湯布院なのです」
大分県湯布院町について、湯布院の人に尋ねると、そのような答えが返ってくる。人口が1万2千人の盆地だ。
周囲は山に囲まれている。田園風景が広がっている。
なるほど小さな田舎のムラだ。そのムラに、年間 4 百万人ほどの観光客が来る。我が国有数の観光地といって
もいいだろう。
「大勢の観光客がどうして来るようになったのですか?」
そのような質問をすると、湯布院の人たちは困惑した顔を見せる。湯布院の人たちにもその理由はわからな
いということらしい。
40年前の湯布院はどこにでもある田舎の鄙(ひな)びた寒村だった。湯布院の隣町別府には、当時、多くの団体観光客
が訪れていた。湯布院の誰もが「別府のようになりたい」と思っても不思議ではなかった。
しかし、湯布院の人たちは叫んだ。「別府になるな。湯布院を小さな別府にしてはいけない」
別府のようなまちづくりを進めていけば、小さな湯布院は大きな別府に取り込まれてしまう。ムラの良さが壊されてしまう。
湯布院の人たちは考えた。
「湯布院は湯布院の地域性を生かした独自の歩き方をしなくてはいけない。『湯布院はゆたかな町なんだ』といわれる故郷をみんなでつくっていこう」
湯布院という地域をどうしようかと考えた時、湯布院の人たちは「ムラ」であることを大切にしようと考えたのは確かだろう。ここでは「ムラ」というキーワードを中心に、湯布院の「祭り」「産業」「自然」について述べてみたい。

2――ムラである湯布院の祭り
一年に一度ある祭りのために、一年間、一生懸命働く人がいる。ムラの祭りとはそういうものだ。祭り、今風に
いえばイベントといってもいいだろう。
湯布院では「音楽祭」「映画祭」など多くのイベントが開催されている。そのほとんどが、40年の間に考えられ
たものだ。すべてが手づくりだ。手づくりであるがために、バブルがはじけた今でも継続されている。今年で、
音楽祭は 31 年、映画祭は 30 年を迎える。手づくりのイベントは大きな感動と、次への期待を感じさせてくれる。
それも長続きの理由だろう。
第8回の「湯布院映画祭」での出来事だ。映画祭のゲストはノーギャラだ。交通費と宿泊費のみを主催者が持つだけだ。ゲストの迎えもスタッフの自家用車で迎えることになる。特別試写会で「竜二」という映画が上映された。スタッフは主演の金子正次を空港に迎えに行った。
金子の顔色が悪い。
「湯布院映画祭に招待された。挨拶ぐらいはちゃんとしたい」
金子は手術後の身体だった。痛み止めの麻酔を打つ
と気分が朦朧とする。挨拶ができない。挨拶が終わるまで我慢をすると言う。凄い人がいる。スタッフは何も言
えなかった。
映画上映の前、金子はステージで挨拶に立った。白いスーツに白い帽子とサングラスの格好だった。「新人だ。派手にやれ」と会社から言われていた。金子はひとこと言った。
「竜二です」
観衆に受けた。映画はより受けた。上映が終わっても拍手がしばらく続いた。観客席にいた金子が立ちあがった。拍手はまた高まった。シンポ
ジウムも盛り上がった。
立食による交流会が始まった。
金子は気分がすぐれなかった。それでも映画の余韻を引きずったまま、観衆との談話を楽しんでいた。
誰かが椅子を持ってきた。
椅子に座った金子を中心にしてみな車座になって床に座った。田舎のなおらいとなった。
それから3ヶ月後、金子は「竜二」の一般上映開始直後に亡くなった。肝臓癌だった。
その話を聞いた湯布院映画祭のスタッフたちは泣いた。大分の一般上映を前に、前売り券を多量に預かり、スタッフたちは全員で売って回ったという。
これが湯布院のムラの祭りである。手づくりだからこそ、このような感動が生まれる。イベントが祭りが終わる。
スタッフたちは来年へ向かって走り出している。
3――ムラである湯布院の産業湯布院の人たちはまちづくりを進めようとした時に、まず「地域ありき」と考えた。観光地としてのまちづくりではなく、地域そのものを良くしていこうと考えた。ムラの産業の中心は農業だ。農業の発展なくしてムラである湯布院の発展はない。そこで、農業と観光業の「協働」を積極的に仕掛けてきた。例えば、旅館の料理人新江憲一の話だ。
湯布院の野菜を使って料理をしよう。「地産地消」ということだ。安全安心な料理を提供できる。それが、湯布院の農業と観光業の協働だと、新江は考えた。
新江は農家を訪ねた。湯布院の農家はホウレン草をつくっているところが多かった。単一品種をつくる方が生産性も増し効率的で品質の良いものをつくることができた。
「湯布院で採れる野菜でお客へ料理を出したい。いろいろな野菜をつくって欲しい」
新江はお願いした。農家の人は承諾しなかった。自家用の野菜はつくっていたが、旅館相手となると片手間といかなかった。品質の問題もあったが、一定量をいつも確保できるかの不安もあった。新江は農家へ一年半通った。やっと了承を得ることができた。
シュンギク、大根、白菜と届けられた。湯布院の旬のものが入る。新江は喜んだ。冬が過ぎ春が過ぎて夏が
近づいた。キュウリ、ナス、トマトが、毎朝、届けられた。
しかし、夏野菜は毎日収穫できる。野菜は余るようになった。新江は困った。仲間の料理人に頼んだ。それをきっかけに「ゆふいん料理研究会」というものを、新江は立ち上げた。
「ゆふいん料理研究会」とは、旅館、ホテルなどの料理人たちが集まって料理の研修や研究をするのだ。80名ほどの料理人が夜9時頃から集まる。それぞれの宿のレシピをお互いに紹介しあう。時には農家の人も来た。農家が料理を勉強するようになった。料理人が農業を勉強するようになった。湯布院の料理がますますおいしくなった。
農業と観光業だけではない。湯布院のイベントのポスター貼りでも、昔は、各商店へお願いして回った。今では「もうすぐ音楽祭やね。
ポスターはまだできないのかな」との催促がくるようになった。イベント間近の駅前の商店街はポスターがずらりと貼り出されるということになる。ムラだからできた手づくりイベントの成功と感動は、観光業と商業の協働をも可能にした。
湯布院では、農業と商業と観光業との複合的な「協働」のシステムがいつのまにかつくられている。それは、お互いに助け合うというムラの「結い」の心が今でも生きているということだ。
4――ムラである湯布院の自然・景観湯布院のまちづくりは「ゴルフ場建設反対」運動から始まった。別府と湯布院の間にある「猪の瀬戸湿原」という自然を守ろうと、湯布院の人たちは叫んだ。ゴルフ場というと、当時、観光業にとっては誘致こそすれ建設に反対するとは信じられないことだった。しかし、ゴルフ場の自然と湿原の自然の「質」の違いを、湯布院の人たちはわきまえていたのだ。それがために「湯布院は自然を大切にする町」として知られるようになった。そして、湯布院のまちづくりにおいては、自然保護、景観の保全ということをいつも考えてきた。
ひとつの例が、駅前通りだ。駅前広場から見る湯布院の商店街通りはすっきりとしている。一見「電線地中化」がなされているように見える。電線地中化は、田舎である湯布院ではなかなか進まない。そこで、湯布院の人たちは考えた。電柱や電線を家屋の背後へ回した。湯布院を訪れた人がまず見るであろう由布岳の景観を、湯布院の人たちは大切にしたかったのだ。
しかし「地域ありき」「自然ありき」でやってきた湯布院の自然景観や町並みの景観も、最近、怪しくなってきてい
る。観光客の増加とともに、県外資本の土産店や宿泊施設が進出してきた。町内のあちこちに建てられる建物や
看板による景観の破壊状況が年々ひどくなっている。デザインに統一性がなく、ただけばけばしいだけのそれら
は「湯布院らしさ」というものを考慮していないのだ。
駅から金鱗湖へ続く道が湯布院観光の一番のルートだ。その中でも、観光客が多く散策する湯の坪地区の状況が特に問題視されている。そこで、地元の人たちが集まり「湯の坪街道デザイン会議」というものを立ち上げた。行政主導ではなく民間主導というところが湯布院らしい。メンバーは地元の観光関係、商工関係、町づくりグループと多岐に渡っている。公平性を期するために、観や交通などの専門家にもアドバイザーとして参加してもらっている。湯布院の人材のネットワークの奥深さがわかる。
会議では「湯布院らしさ」を取り戻すために、どうすればいいのかを検討し、景観形成の方針を策定した。
建物の改築、看板や自動販売機の設置など景観を変更る場合には、事前に地権者同士が話し合いをする「湯の坪景観協定」を締結した。協定では、景観の改変を伴う一切の行為について、地権者が「湯の坪デザイン委員会」に計画書などを提出、相談をし、同委員会の助言、指導、勧告に従うことを義務づけている。
ムラである湯布院の「湯布院らしい」景観を守るために、地域の景観はまず地域で考えていこうということだ。
5――湯布院の百年のまちづくり~農村生活観光地昭和46年に、湯布院のまちづくりにとって何が必要なものかと、志手康二(「夢想園」)、中谷健太郎(「亀の井別荘」)、溝口薫平(「由布院・玉の湯」)の三人がヨーロッパを旅した。その 60日の旅が、湯布院のまちづくりに大きな影響を与えたといわれている。その旅で、出会ったドイツの温泉保養地バーデンヴァイラーのホテルのオーナーから話を聞き、3人は多くの示唆を戴いたらしい。
主なものを列記する。
・まちづくりにとって必要なものは「緑」「空間」「静けさ」だ。
・まちづくりはひとりでは孤立する。大勢の仲間で進めることが大切だ。
・ひとりでも多くの人がよその町を見ることが大切だ。
去年、私は中谷、溝口ら湯布院の人たちとそのバーデンヴァイラーという町を訪れた。
バスが町中へ入った時に、溝口が言った。
「変わっていない。昔、来た時と町の風景が変わっていない」
町の景観が30 数年前と変わっていないらしい。変わったものは何かないかと、私たちは町中を散策した。町の中の自然が少し大きくなっていた。建物のいくつかは建て替えられていた。高さや色彩などが変えられていないから、ムラの醸し出す懐かしい雰囲気の中で気持ちがやすらいできた。
ドイツの旅を続けながら、私は思った。ドイツの農村の風景は実に美しい。美しいだけではない。実質的に生産している景観が農村のゆたかさを感じさせてくれた。この景観は、行政が考える五カ年計画や十カ年計画でつくることはできない。少なくとも百年という時の積み重ねが必要なのだ。
「30年前は保養温泉地、これからは農村生活観光地だ」今回の旅の途中、中谷が言った。ムラである湯布院のあるべき姿は「農村生活観光地」ということだ。「農村生活観光地」の湯布院、持続していく湯布院のまちづくりには、百年ではなく永遠に続くということだ。ムラである湯布院らしい「祭り」「産業」「自然」を味わいながら楽しみ
ながら、「ムラ」ということをより深めていけばいい。その中で、人々がゆたかさを感じながら生きていけばいいということだ。(文中敬称略)





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最終更新日  2016年07月14日 08時01分55秒
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