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2016年08月27日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
六 父の死と小学校(二〇頁)
維新前後非常に繁雑であった駿府代官時代を終え、更に過渡の江戸に帰った父は、生来の虚弱に心身の疲労も出たのであろう、健康はすぐれなかったようである。そして退官後、ことに私が一一歳(明治三年)になった初夏から病床に親しみがちであった。病あらたまるや、父はその死を覚って、病床に肉親を呼び色々と遺言されたが、自分にはただ一言「金吾しっかり勉強せよ」と言われただけである。この一言は少年の肝に深く銘じた。父のいまわの際の言葉に添うような自分を築きあげたく、私は一生涯を通じて、この父の・言葉を真実に守ろうと堅く誓ったのである。父の逝きしは七月二五日の事である。享年五二歳。
 一二歳(明治四年)の時、東京府下の六小学校を以て文部省の直轄となし、新しい教科規則下に近代的小学校の教育が始まった。その結果として、私の通っていた外国語の学校は閉鎖された。建物は在来の六校をそのまま使用することとなった。私は再び三味線堀の西福寺に戻って来た。しかし今度は文部省直轄となったので前とは全く総てが変っていた。寺小屋風の小さな机は既に姿を消し、テーブルとベンチが用いられ、黒板も用意されていた。習ったものは、かな使い、習字、単語、読方、洋法算術、学問のすすめ、究理図解、世界国尽等がある。自分の上級は一組あっただけで、それも生徒がたった一人、後に水産界に貢献した下(しも)啓助氏がいたのみである。下氏とは氏の逝去まで交友を続けたが、下氏はよく「君が、自然科学者になろうとはあの頃にはちっとも思わなかったよ。多分政治家にでもなりはしないかと考えていた。」と述懐された。私は小学校では首席を占めていたので時の村上校長から将来を嘱目され、非常に愛されていた。ところが、一三歳(明治五年)の夏、横浜高島学校に入学の希望が達成したので、退学の手続きを取るべく兄が村上校長の所にお願いに出頭した。この年に文部省の教育新制度が発布され、小学校より中学校、更に大学に進む過程が確立された。私の退学の件に関して村上校長は反対で「私立で洋学を修めたいとは以てのほかと憤慨し、かつ「官立で学業が進めば洋学は自然修めることとなるべく、敢えて好んで私立学校に進む必要はない。退学は許可しない。もしも断じて退学を望むならば将来官立学校に再び入れないようにする」と申し渡された。兄は逃げるがごとく引き下がって来た。一家額を集めて相談したが、他日官学に入る場合を顧慮し、横浜にいる間は宮部家の別姓である外松を名乗る事とし、ここに宮部金吾は外松金吾となり、横浜高嶋学校の生活は始まった。
七 横浜高嶋学校(二二頁)   
一三歳(明治五年)の八月下旬、私は始めて家を離れ横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、品川を後に汽車で横浜に向かった。
 新橋―横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治五年一二月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官の高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。高嶋学校は、この前年明治四年八月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及させようと金三万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町五丁目)に約一万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に一三個、側面(東西)に一八個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。平屋建ての附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。
学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がいたが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約一ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて一、二度行った事がある。
高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生二人、大きな室に舎生四、五人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の二人がある。この二人はいずれも通学生であった。日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、さんばしにかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。一四歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に二階にあがって一休みした。牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。
明治七年(一五歳)の一月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らない間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は二階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で四人おり、私を除いては皆二〇前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれた。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、声高にかく語る人の話を聞いたのである。奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の二人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校となり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。その三月東京外国語学校英語科の入学試験を受け合格したので、私の横浜遊学はこれで終止符を打たれ、外松金吾は再び宮部金吾に帰って東京の生活に戻ったのである。思えばこれはまた私に非常に幸いであったので、もし私が思慮分別のない生意気盛りを、その上、気ままにひとりで横浜の寄宿生活を続けていたら、私はどうなっていたであろう。私はただわきの下に冷たい汗の湧き来たるのを覚えるのみである。





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最終更新日  2016年08月27日 02時59分33秒
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