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2016年09月28日
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遠州報徳師父の風景6 耕地整理の父名倉太郎馬
名倉太郎馬は「耕地整理事業の父」と称され、静岡県だけでなく全国の模範となった。「静岡県磐田郡における耕地整理の起因」の概略より。
「磐田郡における耕地整理の起因はどこにあるか。その由来は遠くはない。同郡の田原村彦島30町歩余りの耕地整理が源で、この事業の企画は明治5年である。彦島村の耕地整理は、明治維新後徳川藩庁となった中泉郡政役所の支配下だった時代、村は水害のため異作が続き、村民は怠惰に流れ農業を放任し、自ら耕作に尽す者もなかった。このため、借財が集積し困窮した。当時の村長は憂慮し挽回を藩庁に出願した。藩庁は遠江国報徳社員神谷庄七郎と荒木由蔵に命じ、明治4年11月に当村に出張させた。明治5年1月以来、一村の救済策について村民の職業家事経済に至るまで改革を行い実行させた。農業は栽培、耕作法から種苗の精選、堆肥製造及び施肥の方法まで農業の学理技術を説明し、田地を定規植えすると収益が多大となると説明した。太郎馬は考えた。従来の道路や畦は曲がりくねり実行が難しいと。明治5年4月字前田の地5反歩は太郎馬と他一名の所有だったが、同所の道路と畦を取り去り新しく道路と畦、水路を設置した。田植え時に定規植えを施行すると、区画は整然として美観となり、縦横が真直ぐなため除草の労力が少なく、日光や空気の流通がよく肥料の分解を促し、道路も肥料や収穫物等の運搬に便利で、水路は灌漑や排水を自由にできるようになった。模範的耕地整理となり好成績を得て、農業経営上収益が多かった。太郎馬は全村の耕地整理を企画提案した。村民は全員賛成し、同年工事に着手、耕地の中央に北境西島から南境松袋井に至る長さ500間余りの幹線道路を設け、土地所有者相互の協議が決定した所から順次改良した。明治7年2月浜松県庁に出頭し、明治7年から同16年に至る十か年の一村回復見積書を提出した。上申書は悪水路に関するもので、彦島は低地で、太田川、原野谷川の二つの川の間にある。流れが滞留し、年々洪水のために作物は被害を受け、困難に陥った。これを除く方法を講じなければ、今回の回復も計画の期間内に成就することが難しいと悪水路模様替目論見書と図面を添付した。県庁は実地踏査し、関係9か村の村長や村民代表を県庁に集め協議した結果、水路を全面的に建設することになった。悪水路の流れを彦島地内から南方の松袋井を経て、西浅羽村長溝地内で原野谷川に放流する事とした。悪水路の修正は、明治8年1月に着手し同年12月に竣功した。耕地整理により実に10町8反歩が増加した。彦島村は水害が多く不毛地が多く、沼などが多かったが、耕地整理・土地改良で水害を免れ効果が大きかった。彦島村の悪水路修正の経費は800円余りに及んだが、県から無利息年賦償還の借用をした。以後水害の憂慮がなく生産技術も進歩し、村民が皆農業に励んだ結果、十分な収穫が得られ、10年の見積仕法もわずか5年で、明治11年12月には、全て償還した。





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最終更新日  2016年09月28日 02時02分44秒



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