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カテゴリ:遠州の報徳運動
遠州報徳師父の風景7荒井由蔵「報徳とはひとたび死ぬることでござる」
山名郡堀越村の難村救済で「駿河の人、荒井由蔵という者を招いて村民を永井五郎作の家に集めて連日連夜報徳の道義を聞かせた」とある。安居院義道翁伝記(「報徳」第23号21頁)に「駿河に入り富士浅間神社に詣り、大宮々司富士又三郎を訪れ、法を講じた。時に同大内村の荒木由蔵という者があった。かつて小田原某寺の住職だった僧忠山が同村の寺に来て、つぶさに小田原藩の報徳の事を聞き、欽慕した。安居院庄七が報徳の道を講ずると聞いて峯陣屋に行き面越を翁に求めること数次、初めて面会し教えを聴くことができた。由蔵は歓喜し、一社を村に結んだ。これが駿河中報徳結社の創始である。」とある。荒井由蔵が安居院に報徳の道を聞いたのは安政3年(1856)29歳の時である。由蔵の家は不幸せが続き、父親は持病、弟は癲癇を患っていた。由蔵は数年看病し神仏に祈った。断食し先祖代々の墓石を磨き先祖供養など行ったが、効果はなく、弟は病気が起こると夜中口から血を吐いて歯を食いしばり手足は伸びて曲がらず、その後気狂いのように大酒を好み酒店を走り回り、喧嘩口論となった。この時、安居院が同家に来て報徳の道を教諭した。由蔵はその教えを聞いて悟った。これは神仏の罰ではない。祖先以来、自己の血統に蒔いた種が実って生長したものだ。先祖伝来の田畑家屋敷があっても不幸せが続いては一日も安心できない。財宝をなげうっても安心立命を基にすべきと決心した。由蔵は安居院に相談し、鳥坂村名主粟田久左衛門、大内村荒木常衛門も安居院門下だったので3名で発起し、安政3年12月から水路工事に従事し、田の区画整備、用水の高低を測量した。耕地の間に土手を築き、長さ90間の埋樋を設置し、悪水は川へ流し、安政4年3月竣工した。由蔵は家財を傾け、日夜人夫を使い帳簿を整理し埋樋や耕地開発に心を尽くした。事業に従事し一日も休まず励んだ。すると不思議なことに、父の持病も全快し、実弟の癲癇も平癒した。 明治3年5月、静岡市龍爪山麓の平山・長合・北沼・足沢の4か村が龍爪山を管理し、入会村として39村がまぐさ場として利用していたが、近年平山村など4村が開墾しまぐさ場が狭くなって困ると裁判所に訴えた。裁判官は現地を検分し、境界を定め判決を下したが4村が実行しない。39村は駿府徳川家達公に直訴しようと河原に集った。由蔵は河原に駆けつけ「私が役所に出頭し必ず入会山の件は円満に解決するからしばらく待て」と慰撫し、主だった者10人を引き連れ、静岡県知事公舎に行き、10人は控室に待たせ一人で時の大参事山岡鉄舟に会って事の次第を説明した。鉄舟は「至極もっともだ。4か村に引き渡すよう処置する」と言い渡した。代表の10人は歓喜し、39村全村民が報徳社に入社した。これが「駿河国西報徳社」である。「報徳とはいかなることか」と山岡鉄舟は由蔵に聞いた。「報徳とはひとたび死ぬることでござる」と由蔵は答えた。「わかった。それはよろしい」と山岡は膝をたたいて言った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年09月28日 03時01分32秒
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