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2016年10月22日
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カテゴリ:尊徳先生の世界
尊徳思想との出会い

クミアイ化学工業株式会社創設者 望月喜多司

 人間は、苦難に直面したとき、真価を発揮する―これは老いも若きも区別なく真理だと思います。
火事にあい、父に死なれて私の家は急坂をころがるように傾いていきました。

 しかし、私はふと日本の偉材、二宮尊徳先生のことを思い出したのです。
 二宮金次郎が父をなくしたのは数え年の十四歳でした。私と全く同じであることを知ったのです。
尊徳先生はその二年後に母を失い、「力耕勉学」を実践して、二十四歳で一家再興の実を挙げました。
 私の祖父も父も死んだのが三十六歳、ことによると私も若死にの運命を背負っているかもしれません。

 しかし、尊徳先生は、亡父の霊前にぬかづき大奮発して歴史に輝く偉大な業績を残されたのです。年が同じというただそれだけでしたが、なんとなく幼い私の頭にひらめくものがあったのです。

 私は腹のなかで「よしっ、おれもたるゾ」と叫んだのでした。そしてその時から私の尊徳研究が始まりました。

 実は、望月家と二宮尊徳先生とは多少のかかわりがありました。祖父の九半治が尊徳先生の崇拝者だったのです。そこでこの際、二宮尊徳先生のことについて少し触れておきましょう。

(略)

『望月喜多司回顧録』より



30 周年記念業績論文集の刊行にあたって
株式会社 ケイ・アイ研究所
イハラケミカル工業株式会社
代表取締役社長 望月 信彦
株式会社ケイ・アイ研究所は 1980 年 12 月 25 日に設立され、1982 年 1 月に磐田市福田塩新田の現社屋において研究業務を開始してから、おかげさまで 30 年を迎えました。これはひとえに、株主の皆さま、関係者の皆さま、地域の皆さまの長年にわたるご支援、ご鞭撻の賜物であり、心から感謝申しあげます。創立 30 周年にあたり、当社の研究業績を紹介する記念業績論文集を刊行することとしました。この 30 年間のクミアイ化学・イハラケミカルグループの新農薬創製への取り組みと、その中で当社が果たしてきた役割などについて、ご理解を深めていただく一助となれば幸いです。
1969 年にクミアイ化学が開発商品化した超大型除草剤「サターン剤」は、国内水田面積の約 60%を席巻しましたが、それ以降大型商品がなく経営面への影響が懸念されました。サターン上市後 10年が経過した昭和 54 年当時、クミアイ化学とイハラケミカルの合成陣はそれぞれ静岡県清水市と富士川町で独自に業務を行っていました。当時、研究開発の強化が一大重点施策であったこともあり、より効率的に新規農薬を生み出すために、地域的な不利の克服、連携強化などの点を考慮して、合成陣を集約して合成研究の一段の飛躍と国際競争力の強化を図ることが検討されました。その準備段階として、1980 年 6 月にケイ・アイ開発本部が設置され、クミアイ化学とイハラケミカルの両社にそれぞれ、近い将来の統合を前提としたケイ・アイ合成研究所が新設され、KI コード番号化合物の合成が開始されました。
そして遂に 1980 年 12 月 25 日、株式会社ケイ・アイ研究所が資本金 15 億円(両社の折半出資)をもって静岡県福田町のイハラ工業団地内に設立されました。新会社の名称は、クミアイ化学とイハラケミカルのそれぞれのアルファベット頭文字を取ったものであり、両社合成陣の英知を結集した合成研究所がここに産声をあげたのです。さらに 1981 年 10 月末に建物が竣功し、移転業務を経て会長に望月喜多司、社長に望月至郎、研究所長に杉山弘成という体制で名実ともに研究活動がスタートしたのが 1982 年 1 月でした。発足時の研究所員数は 59 名であり、“もの”を出すという意気込みに燃えた多くの若い研究員で構成されていました。
私の弟でもある望月至郎が 1983 年 2 月 21 日若くして急逝したため、1983 年 2 月 22 日に私が当社社長に就任いたしました。その後、新農薬の探索から実用性把握段階におけるクミアイ化学、イハラケミカル、ケイ・アイ研究所三者間の創製研究活動を効率的に推進する新農薬創製本部を 1984 年1 月 1 日に組織し、ケイ・アイ研究所がドラッグ・デザインおよび化合物合成を行い、次にクミアイ化学生物科学研究所で生物評価および安全性評価、クミアイ化学 化学研究所(現 製剤技術研究所)で製剤研究を行い、イハラケミカル研究所で合成プロセス検討を行う研究システムと各社の業務分担の明確化を図りました。
ケイ・アイ研究所では、独創的な新農薬を生み出すため、特許情報、農薬・医薬に関係する雑誌
類からの情報を咀嚼して技術の研鑚に努めるとともに、会議においてもクミアイ化学ならびにイハラケミカルの研究員とともに有望化合物系統の早期創製に向けて積極的に議論が行われました。このように所員一丸となって目標にむけ鋭意努力したにも拘わらず、創業から3年経過してもその端緒は見えず、産みの苦しみを多く味わいました。
ようやくそのキッカケが掴めたのは、創業からおよそ 3 年半を経過した 1984 年 6 月の新規農薬の一大鉱脈であるピリミジンカルボキシ(PC)除草剤の発見でした。PC除草剤からはビスピリバックナトリウム、ピリチオバックナトリウム、ピリミノバックメチルが開発上市されました。いったん有望化合物系統が見出されると、研究員の意識は更に高まり、研究活動も順調に進んで種々の系統が創出されるようになりました。その後、20 周年を迎えるまでに、除草剤フルチアセットメチル、殺菌剤メパニピリム、植物成長調節剤プロヘキサジオンカルシウムの合計6剤が続けて開発上市されました。この経緯につきましては、弊社 20 周年記念誌に詳しく触れられています。
その後、新農薬の創製にしばらくの停滞がありましたが、株主2社の変わらぬ研究開発型企業として取り組みとグローバル戦略と連動し、創製研究についても研究テーマの選択と集中により更なる高効率化を図ってまいりました。その結果として、安全安心で環境配慮型の世界に通用する画期的新剤をこの 10 年の間にも継続的に開発上市しております。すなわち、世界的な重要病害であるべと病・疫病を極めて低薬量で防除できる殺菌剤ベンチアバリカルブイソプロピル、革新的な一発処理除草剤ピリミスルファン、世界市場で広く適用可能な畑作用除草剤ピロキサスルホンの 3 剤を最近上市いたしました。また、新たなワイドスペック殺菌剤ピリベンカルブ、そして環境配慮型の水稲用除草剤フェノキサスルホンを現在開発中であり、近い将来、農薬登録を取得する予定です。さらに、これに続く新たな有望化合物も見出だされており、クミアイ化学、イハラケミカルの開発剤パイプラインは大変賑やかな状況で、将来が楽しみなところです。
このように、株式会社ケイ・アイ研究所は「自然と調和する豊かな人間社会を目指して独創的な農薬開発を行います」の企業理念に沿って 30 年間、農薬開発に積極的に取り組み合計 11 の新規農薬を創出して参りました。そして、これからも世界の安全安心な食料生産のための環境に優しい製品開発を通じて社会貢献ができるよう真摯に取り組んで参ります。今後とも、変わらぬご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。





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最終更新日  2016年10月22日 03時19分56秒
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