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カテゴリ:木谷ポルソッタ倶楽部ほか
今は亡き父母に「家族新聞」をえんえんと送っていた。
子の作ったものは 喜んで読んでくれる 親心の有難さ 想えばこれが 現在、行っている ボーイズ・ビー・アンビシャスシリーズ や 報徳記を読むシリーズ の原型なのかもしれない。 父母に感謝である。 「坂村真民」の詩の紹介(森信三「幻の講和」第二巻より) ○第五講「家庭というもの」より 「 ねがい 坂村真民 ただ 一つ 花を 咲かせ そして 終る この 一年草の 一途さに 触れて 生きよう ○森先生は、子どもの基本的しつけは、一、朝晩のあいさつ 二、返事 三、ハキモノをそろえる の三つでよいと考える。 「あいさつと返事ができるようになれば、親のいうことの聞ける子どもになる。この二つをしつけることによって、一応子どもとしての「我」が除かれるために、親のいうことを素直に聞けるようになる。基本的なしつけは、ごく少数の基本的事柄を小さいうちにーなるべく小学校に入る前にー十分に徹底させることが、しつけの秘訣です。」と ○第六講「学校というところ」より 「 花は開けど 坂村真民 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず 罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよ 坂村さんが、今日に到られたについては、いろいろな原因が働いているでしょうが、私に分かっている範囲では、①お母さんが偉かったこと、②杉村春苔尼という優れた方を師として持たれたこと、③敗戦による引揚者の一人として、辛酸をなめられたことなどが考えられます。しかし、もう一つの大きな原因は、坂村さんは中年のころ眼疾にかかられ、一時は失明の恐れさえあったということです。そしてこの詩は、そうした消息の伺える詩といえましょう。実際、眼病は、特にそれが失明の恐れさえあるというに到っては、その深刻さは直接その経験をした人でなければ分かりません。それというのも、万一失明となると、第一教職に留まっていられなくなります。失明は直ちに失職につながるわけで、失業はやがて死につながりますから、実に深刻きわまりない出来事といってよいわけです。この詩の背景となっているこれらの事柄を頭に入れた上で、もう一度この詩を読んでみましょう。 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず 罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよ いかがです。こうして味わってみますと、詩というものが心ある人々にとって、いかに深い力を持っているか、お分かりになりましょう。 ○第七講「世の中へ出て」 「 念ずれば花ひらく 坂村真民 念ずれば 花開く 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしも いつのころからか となえるようになった そうしてそのたびに わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいて いった 坂村さんの今日に到られたいくつかの原因のうち、第一にお母さんの偉さをあげましたが、実は坂村さんは、五つの歳にお父さんが亡くなられ、それ以後は未亡人のお母さんによって育てられたそうです。 そういう中で、息子を遠く専門学校へ入られたその一つをとって見ても、坂村さんのお母さんという方が、どういう方だったかが、うかがえるのです。それというのも、もしお母さんがそれに反対だったら、おそらく現在の坂村さんはありえなかったと思われるからです。 しかし、坂村さんのお母さんの偉さはひとりそれだけではないのであります。そしてその点ハッキリうかがえる点で、この詩のもつ意義は大きいといっていいでしょう。 それにしても「念ずれば花ひらく」とは、何という良い言葉でしょう。それはこの世にあるコトバのうちでもおそらくは最上のコトバの一つといってもよいのではないでしょうか。このように考えますと、坂村さんの今日あることも、決して偶然ではないといえましょう。 ○「われわれ人間は、社会を「場」として行われる人間形成の厳しさによって、深刻な鍛錬を受けると申しました。 しかし、われわれ人間は、これら職業的な事柄以外にも、さらに家庭的な種々の出来事によって深刻な試練を受けるのであります。それは両親に亡くなられるとか、妻や子を失ったり、あるいは火災や盗難、地震等の天災に見舞われたり、時には自分自身が病気になったり、私生活上の苦難の鍛錬も決して少なくないのであります。 では、これらの試練に対して、一体どのように対処するかというと、結局これらの試練を正しく受け止めるしかない、つまり、それらの試練は、「天」がこの自分を鍛えるために与えられたものと考える他ない。同時にこれ以外には、それらの苦難を根本的に生かす道は、おそらくはあるまいと思うのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年11月04日 05時04分10秒
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