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2017年06月08日
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2017-05-20 21:45
九州BOYS(仮)改め「九星隊(ナインスターズ)」正式メンバー発表

ワタナベエンターテインメントが1月より「九州を元気にするプロジェクト」として募集を開始したイケメンボーイズアイドルグループオーディションを経て、ついに正式メンバーとグループ名が20日、発表された。最終候補生の藪佑介(20)、中村昌樹(20)、山口託矢(20)、大池瑞樹(20)の4人全員が合格し、晴れて正式メンバーに。グループ名は「九星隊(ナインスターズ)」に決定した。この日、新たな九州アイドルの幕開けの証人として、天神・ソラリアプラザ 1Fイベントスペースゼファには約1000人もの観衆が集まり、歴史的な瞬間を目撃した。



鈴木藤三郎の「米欧旅行日記」講演
昨年十二月「二宮金次郎の対話と手紙」というテーマで、ここ袋井市浅羽北公民館で講演させていただきました。
また、森町のMさんのほうで引き続き「近代日本産業の先駆者 鈴木藤三郎」について映像を交えて詳しく説明いただいたところです。今回、昨年に引き続いて鈴木藤三郎の米欧旅行日記について、お話させていただく機会を与えてくださったことに感謝します。

本日は、T公民館館長さんや森町のMさんの協力を得て、朗読形式や対話形式を交えながら、聞いていてできるだけ分りやすく工夫して説明したいと考えていますが、時間の関係でざっくりとしたお話になるかと思いますが、ご承知おきください。それではまず、鈴木藤三郎が米欧旅行に至るまでの経緯を簡単に振り返ってみましょう。

鈴木藤三郎は安政二年(一八五五)十一月静岡県周智郡森町に生れました。父は太田文四郎(通称平助)、母はちえといい、二男二女の末っ子で、幼名を才助といいます。家業は古着屋でした。安政六年、五歳のとき同じ森町の鈴木伊三郎の養子となりました。養母はやすといい、養家は菓子商でした。八歳から寺小屋へ通いますが、十二歳でおろされ、家業の菓子あきないを手伝います。朝早くから餡(あん)を煮たり、飴(あめ)を練ったりし、出来あがると、それをかついで秋葉山の方に売りに行くのが日課でした。
明治七年、平助は藤三郎に家督を譲って隠居します。藤三郎はこの頃から田舎の一菓子商で終わることに疑問をもち、当時の投機的風潮に影響されて、製茶貿易に乗り出します。一年ほど父の知り合いの製茶貿易の人のところで見習いをして、商売に従事します。
明治九年の正月、藤三郎は生家の太田家へ年始のあいさつに出かけ、そこで一冊の本に出合います。それが二宮尊徳の天命十か条が書いてある本でした。
鈴木藤三郎は非常な感銘を受けて、投機的な製茶貿易から手をひいて、再び家業の菓子製造に帰り、報徳の至誠・勤労・分度・推譲を直接家業の上に応用しようとします。藤三郎は、「余の理想の人物」という文章で二宮尊徳との出逢いを語っていますので、T館長に朗読してもらいます。

(朗読資料A)
(「余の理想の人物」『実業の日本』十巻一号所収 鈴木藤三郎)
 二十二歳の正月に実家へ年始に行ったところが二宮という本があった。何のことかと聞くと、二宮尊徳先生のお説が書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、単に金をケチに貯めるとか、朝は早く起きることということに止まり、その教えが書籍になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみるとすこぶる面白い。
その大体はこうである。人はなぜにこの世に生まれてきたのか。どうして生きるのか。金銭も名誉もその目的ではない。人は国家社会のためにその利益を増進する仕事をなすべきである。過去の人がなしておくことを今の人は更に増殖して、これを後世・子孫に伝え、もって国家社会の利益を増進する。言いかえれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして前の人から受け継いだほかに更に増して子孫に伝える。すべての人間がこの目的に向かって勤労する。その個人が分担し行うのが各自の職務となる。職務は人の賢愚によって異なるが、国家社会を利するという大目的に比べれば同一で、その間に上下尊卑の区別はない。ただ自分の職務を尽して明らかにすべきである。これが人生の大目的である。この人生の大目的を達するために各人が職務に全力を傾注するとき、たとえ自己の利益、栄達を主としていても、これらは職務の遂行にともなって自ら発達して来るものである。
この書を読んで私はかつぜんとして悟った。今まで金さえ貯めればよしとしていた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義の大切なことを知ることができた。そこで今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。それからは毎月開かれる報徳の集会に出席し、種々なことを質問し、議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。研究すればするほど、他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は、人間以上の、神のようなものに思われてきた。
こうして研究すればするほど、過去のわが身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治十年一月一日を期して自分は全く生まれかわったものとして新生活に入ることを決心し、今なおその決心にしたがって暮らしているつもりである。



「研究すればするほど、報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われてきた」とあります。鈴木藤三郎の報徳研究の打ち込みようがわかります。鈴木藤三郎の本当にすごいところは、報徳の「荒地を以て荒地を拓(ひら)く」を家業に実験して検証しようとするところです。
東北大学の大藤修先生が吉川弘文堂の人物叢書から『二宮尊徳』という本を出されましたが、その本の中で、二宮尊徳の報徳の実施方法について次のように整理されています。
「金次郎の借財整理は『借財は借財の備えを以て返済』することを基本方針としていた。高利の借財を無利ないし低利に振り替えるのである。」
「一方、農村の復興は、『荒地は荒地の力を以て起し返す』という考えに立っていた。つまり荒地開発、窮民撫育、人別増加策などによってもたらされた農業生産力回復の成果を、繰り返し復興事業に投下することによって進展をはかるのである。」
 ちなみに「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」を大藤先生に差し上げたところ、おとついお葉書をいただきまして、「藤三郎が欧米の文明や企業をどのように観察したかがうかがえ、史料的価値の高い日記だと思います」と有りました。嬉しいですね。
藤三郎はこの『荒地は荒地の力を以て起し返す』という考えに立って、まず自分の家政調べを実施し、節約できる経費を選び出して、5年計画を立てて、その余剰を繰り返し事業に投下する計画をたて、そして、それを実行します。朝五時に起きて一心に働き、自らが立てた分度を守り、利潤を事業に再投資し、価格を次第に安くした結果、最初売上高が千五十円であったのが、五年目には一万円となります。最初は家の経費を出すために、利益は二十%取らなければならなかったのに、五年の後には、わずかに五%取っても十分になり、それだけ品物を安く売ることができるようになりました。
こうして、藤三郎は、荒地の力をもって荒地を拓(ひら)くという報徳の方法が、農業だけではなく、商業、工業、何の事業にも応用されることを実証しました。この体験によって、報徳の教えに対する藤三郎の信念は不動のものとなり、後年この方法を工業や、農業に応用する基礎を築きあげます。
藤三郎はこのようにして、報徳の教えにしたがって、家業の菓子製造を新しく始めたのですが、それと同時に彼は氷砂糖や白砂糖の製造法を研究したいと思ったのでした。その理由を次のように語っています。

(朗読資料B)
(「荒地開発主義の実行」 鈴木藤三郎)
私も予定通り五か年の計画を終りましたから、今後は菓子屋をやる必要も無かろうと思いまして、砂糖屋を始めたのです。砂糖屋を考えついた次第は、以前茶貿易で横浜へ往来する頃、貿易新聞にその頃の日本の精製糖輸入高が1か年四百万円余とあるのを見て、我々が大骨折(おおほねおり)で外国へ出す茶も、やっと四百五十万円である。砂糖と引換えに過ぎない。今後、文明が進めば無論砂糖の消費高も増すわけである。これを内国で製造する事となれば、国家社会に対しても、何分の貢献であると思いまして、これを終生の事業としようと決心したのです。
 しかし、事業に着手するとしても、まず資本を調達しなければならない。第一どのようにして製造をするかいっこうに分りません。そこで東京へ出て、遠州の人で猪原吉次郎という化学者が、工部大学校の学生でしたのを訪ね、砂糖精製の事を聞きました。猪原氏は色々西洋の本を読んで聞かせてくれ、更に大学校の分析所に連れて行き、実地について一通り説明してくれました。また、「甜菜(てんさい)糖製法」という日本綴り八冊の図入の書物を見付け、国へ買って帰り、ほとんど一年間この本がこわれてしまうくらい、繰り返して読んで、いくぶんか製糖の知識を得たのです。もとより精糖の技術を手に入れたわけでは無く、資本も出来ず、すぐに着手することが出来ません。そこで砂糖に縁のある氷砂糖の製造を思い付いたのです。なぜ氷砂糖の製造を思いたったかと申せば、その頃氷砂糖は中国の福州から輸入され薬局で売っていたもので、その価格も白糖の二倍です。その品は、色も赤く笹のごみなどが交じっていて、機械的工業的の生産物ではない。それで価格が高値とすれば改良の余地は十分に有ると思い、一つこれを階段として進もうと考えて、その製造法を研究し始めたのです。しかしその実験の結果を見るのはなかなか容易ではなく、いろいろ工夫をしましたが、久しい間、非常に心身を労したのです。


その頃砂糖は輸入品で藤三郎は砂糖を「内国で製造できれば、国家社会に対して貢献であると思いまして、これを終生の事業としようと決心したのです」
明治十年、二十三歳の藤三郎は、本職の菓子製造の関係から、純白透明の氷砂糖の製法を知りたいと念願し、いろいろたずねてみたが、人に教わることも、本に頼ることもできず、自分でやってみるより仕方がないと、繰り返し蜜を煮詰めて数年を経過しました。たまたま藤三郎が上京中、放置した製造容器の中で結晶した数個の氷砂糖を発見でき、小躍りして喜びました。その後、さらに夏の盛りに密閉した室(むろ)の中で詳細な記録をとって実験・観察した結果、完全な氷砂糖製造法を発明しました。明治十八年には森町に第二工場を建設し、事業の拡張を図り、毎年一万円の利益をあげるようになった。
そこで東京移転を実現し、明治二十一年東京の南葛飾の砂村に氷砂糖製造工場を建設しました。藤三郎は砂糖精製の技術を学ぶために、化学や工学の専門家をたずねたり、洋書の参考書を読んでもらったり、研究を続け、明治二十三年には北海道の紋鼈(もんべつ)製糖会社に精製糖製造方法を学びにいきます。そして東京に帰ると、自分の考案を加えた設計や、工夫した機械をすえつけた精製糖工場を建設しました。また製造機械の工夫改良を自ら行うべく、機械の製作を行う鈴木鉄工部を併設しました。
 明治二十三年当時砂糖の国内消費は極めて少量で、砂糖消費高の大半が輸入品で、国内産は六・六%にすぎませんでした。ところが二年後の明治二十五年には藤三郎は機械の整備を進め、その年には氷砂糖は早くも中国福州製品の輸入を全く防ぐまでになりました。明治二十八年の第四回内閣勧業博覧会において、鈴木製糖所が出品した精製糖は「品質外観、一も間然するところなく」と評価されています。
明治二十八年、藤三郎は第三十九国立銀行東京支店長の長尾氏を社長とし、「日本精製糖株式会社」を設立し、自らは専任取締役兼技師長に就任します。株式会社創立後半年たたないうちに倍額増資を行い、新知識の吸収と最新の製糖機械の購入のため、欧米旅行に出ます。
藤三郎の米欧旅行の特徴の一つは、外国語は全く分らないのに、通訳を同行せずに単独で行ったことです。現在でも、調査や機械の買入れのために、海外旅行をするのに、外国語ができないに関わらず、一人で行くことは考えられないことですね。そこのところを対話で再現してみましょう。

(対話A)
送別会にて
ある人「それでは、外国語ができず、通訳も連れずに、何十万円という莫大な機械の買入れなどは、どうするつもりですか?」
藤三郎「なに、機械の構造やいい悪いは眼で見れば分るし、ことにこっちは買手なのだから、先方で、どんな方法ででも、分らせるように努力するだろうから心配はありません」
ある人「万一、異国で病気でもされたときには?」
藤三郎「病気の心配なら私ばかりではない。通訳も病気することがあるわけだから、同じことです」

(藤三郎は衣服に無頓着でしたが、送別会は新調の洋服に時計の金鎖を光らせ出席しました。)
ある人「さすがの鈴木さんでも、いざ洋行となると、違ったものですな」
藤三郎「個人の鈴木は、相変わらず質素でなければならないが、会社の代表者としての鈴木は、その職責を、もっともよく果せるようにする必要がありますから・・・・」


お手元のテキスト「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」の2ページをご覧ください。「発程」で、「明治29年7月14日、余は精製糖事業視察及び機械の購入のために欧米え出発」と、この旅行の目的が書いてあります。藤三郎は単独でしたが、藤山治一(はるかず)がアメリカ経由でドイツに行くのに同行していました。藤山氏は佐賀藩の出身で、父は治明(はりあき)。母は絹といいます。お母さんは藩主鍋島直大侯の姫君さよ子の乳母を勤めました。治一は佐賀藩から選ばれて50名の国内留学生の一人となり、東京の有馬学校という英学校で英語を学びます。治一は優秀なために進級する。父は貧しく学費を出せず、お母さんが乳母としての給金の中から教育費を出していたのですが、「女のやせ腕で費用を出すのだから、汝の進級は嬉しいが、そのたびごとに教科書代やら六円を出すのは辛い」と泣かれたことを今日でも忘れないという回想が残っています。治一は駒場の農学校を卒業し、鍋島家の給費生としてドイツに留学し、農業経済学を学びます。ところが動植物学に興味が移って勝手にベルリン大学からボン大学に移る。それが当時のドイツ公使、青木周蔵に知られ、帰国を命ぜられたのですが、その帰国費用でボン大学で学び続けたために鍋島侯からの学資を止められ、生活に困窮する。公使館の丹羽書記官がお母さんに電報を打って六百円を送金して貰い、丹羽氏がそれを切符に換えて藤山に渡してなんとか帰国する。藤山氏はその後明治20年陸軍教授に命じられ、陸軍大学校教官として、メッケル少佐その他三人のドイツ人教官の通訳をしました。日清戦争が終わって、一時免職になたので、私費で再度ドイツへ渡ってドイツ語教授法を学ぼうとして、藤三郎の同伴となったのです。ハワイ、アメリカの製糖工場を訪問する際には、藤山氏が同伴して通訳しました。藤三郎の米欧旅行において欠かせない人物です。
鈴木藤三郎の米欧旅行の公の目的は欧米の精製糖事業の視察と機械の買い付けでしたが、実は私的にもう一つ目的があったと後に「二宮先生と余が欧米観」で語っています。

(朗読資料C)
(「二宮先生と余が欧米観」鈴木藤三郎)
(▲その目的)
余は至って単純な目的を以て、すなわち欧米の製糖事業はドウいうふうに発展しているかという、ごく単純な目的を以て洋行したものである。
ただ幼少より二宮尊徳先生の末流を汲み、機に臨み、折に触れて、観察して見たいと思っていたことは、欧米の偉大な人物と、わが尊徳先生とはドンナ差があるであろうかということであった。
いまだ以て精密ということは出来ないが、ともかく余の個人として見る所によると、欧米において貧困より身を起し、ついに偉大な人物となった人のやり方が、あたかも二宮先生と同一の思想を呼吸したものではなかろうとかと、コウいう感想を抱くこともしばしばあるので、余の欧米観もまたしたがって、道徳を主として経済を説かれた二宮先生の流儀に傾かざるを得ないのである。


「欧米において貧困から身を起して、ついに偉大な人物となった人のやり方が、二宮先生と同一の思想を呼吸したものではなかろうとかという感想を抱くことがしばしばあったので、欧米の偉大な人物と、尊徳先生とはドンナ差があるかを観察したかった」といっています。
藤三郎は明治29年7月14日横浜港を出発し、16日から毎日1時間ずつ藤山氏から英語速成の講習を受けています。また上等船客でしたからボーリングに似たナインペンスという競技や甲板の上にヅーク、帆の布で作ったプールで毎日水泳をしたとあります。
5ページになりますが、ハワイでは、横浜から同船したハワイの司法大臣兼警察長官ダブル・オー・スミス氏の厚意を受けてエヴァミル製糖所を見学します。そこで工場周辺の畑で原料となるサトウキビを栽培し、鉄道を縦横にはりめぐらして、工場へ原材料とボイラーの燃焼資財を運搬する方式の大農場と製造工場が一体となった製糖工場、いわゆる原料から製品販売までの垂直統合のやり方を見学しています。ハワイからアメリカまでの船上では、藤三郎の肖像画の才能が話題となり、サンフランシスコに上陸するまでに18人の外人の肖像画を描いたと『黎明日本の一開拓者』にあります。(141頁)森町は現在でも松井冬子という日本画家を輩出していますが、芸術的才能をもった人材を生み出す風土をもった土地のようです。藤三郎はこの米欧旅行中、各国で美術館をよく見学し、オペラやバレーなどもよく観に行っていますが、音楽会へは行っていません。藤三郎は聴覚(音楽)よりは視覚的な芸術に関心が深かったようです。
7月31日アメリカのサンフランシスコ港に到着します。8ページをお開きください。「金門、ゴールデンゲートを通過」し、朝の6時に無事到着し、ホテルですぐに日本の精製糖会社に「無事安着」(Arrived safe)という電報を打っています。また「横浜港を出発して以来、きわめて健康で本日サンフランシスコに無事着きました。ご安心ください。さて航海中はかねがね心配おかけしたところですが案外無事でした。藤山君によって西洋人と毎日談話し、また運動など遊戯もあって面白く過ごしました。時々は波が高く船体が動揺する時も、少しも船酔いをせず、外人も私のことを多年、船旅に馴れているのだろうというほどに自分ながら船旅を満喫し、まずもって海の国の日本男児と少しはホラも吹けそうです」と会社あてに手紙を書いています。
「米欧旅行日記」を読むと、まず毎日欠かさず記していることに驚きますが、藤三郎のユニークなところは、船の中でも天気や温度だけでなく、進行距離、北緯、東経といった経度・緯度を記していることです。普通、日記を書く場合、天気や気温は書いても経度・緯度までは書きませんよね、藤三郎は現代で言うナビの感覚を持っていて、地球上のどの地点にいるかがこの日記を読むとわかるという驚くべきもので、そうした記録の苦労を厭わなかったのです。これは、あるいは報徳仕法を家業に適用する際に家政調べを行った経験―藤三郎は「報徳的家政整理」(「静岡新報」掲載の記事を「農業雑誌」第1017号に再録))という文章の中で、「家政調べ」とは「一家の財政の予算と決算の二つ」ですが、「自分は一度、二宮先生の教えを奉じてより30余年、かつて家政調べという事を怠った事はない」といっています。また、氷砂糖製造法の発見の際には味噌蔵を改装した室(むろ)にこもって、炭火で室内の温度を変化させて、温度と氷砂糖の生成の状況を逐一記録しているのです。そうした物事を数字で理解する理数系的な頭脳をしているようにも感じます。
また藤三郎は訪問した会社の住所、会社名、相手方についても日記の中で綿密に記録し、その場で不明な場合は( )書きにして、後で補正しています。この旅行日記はまた、日本精製糖株式会社の専任取締役としての業務日誌という一面があり、会社への視察報告をその都度この日記に基づいて、正確な情報で発信しているのです。
藤三郎はサンフランシスコ到着した日から活動を開始し、ローレンチェン商店を訪ねて東京のモスレ商会の紹介状を出し、案内を頼みました。
10ページをお開きください。8月1日には製粉工場や製粉機械製造工場を視察しています。藤三郎は日本製粉工場の重役の村上太三郎氏から製粉機械の買入も依頼されていました。3日には、同地で製糖王といわれているスクリップル氏の精製糖工場を見学しています。スクリップル氏はドイツ人で、1826年にハノーバーに生まれました。18歳でアメリカに移民として渡り、当時ゴールドラッシュで人口が激増していたサンフランシスコで食料品店を営み、ついで醸造事業を起し成功します。砂糖の需用も必ず増加すると見て、ニューヨークで精糖事業を研究し、最新機械でサンフランシスコで精糖所を設立し、10年ほどで西部の一大精糖事業者となります。スクリップル氏が製糖王といわれる理由は、成功の途上にある精糖所を売却し、ドイツの精糖所で一職工として働き、最新の精糖技術を学んで一年後サンフランシスコに「カルフォルニア精糖所」を最新機械で設立し、他の製糖所が三週間費して製造するところをわずか24時間で精糖し、さらにはハワイのマウイ島に一万エーカーに及ぶサトウキビ栽培地を開墾しました。西部では砂糖のカルテルができていて、東部も勢力下に収めようと安値競争をしかけますが、スクリップル氏は逆に東部のニューヨークに最新式の精製糖工場を建設して逆に安値攻勢をかけて、カルテルが降参して東部はカルテル、西部はスクリプル氏が支配しシュガーキングと呼ばれるにいたったのです。
8月3日の日記12ページ上段に「その規模の盛大なること実に一驚せり」と藤三郎が記したように、スクリップル氏は「偉大な財力で日に新しく計画、組織して、三年以前のものは惜しげもなく打ち壊」すという事業であったのです。
8月12日、15ページをお開きください。藤三郎と藤山氏はサンフランシスコを出発し、アメリカ大陸横断鉄道でアメリカ東部へと向かいます。
藤三郎は「米欧旅行日記」では景色などについてはほとんど記さないのですが、横断鉄道の車窓から見える光景については、克明に抒情的に記しています。
「8月12日、午後7時サンフランシスコ出発。汽車でヲークランドまで行き、ここより汽車は東北に進行し、山あいを経(へ)てトンネルをぬけ、四方を見ると前は果てしなく広がる平地にて青草を敷き、東北は雲に接し山を見ない。平野に一つの巨流がある。小雨が時にふり、サクラメントに到着する。これより平地を走ること50マイル余りで、ニユーキャッスルあたりより地勢がようやく高くなり、山なみが重なりけわしくなり進行が困難となり、汽車は傾斜して仰いで登る。谷をわたり、橋を越え、眺望絶佳の城に着く。背後はきびしい峰が壁をなし、樹木を背負ってひときわ目立つ。前は深い谷がぽっかりとくぼみ、その谷底に一つの村落がある。はるかに豆大の人、寸馬を見る。このあたりには谷間から水を引いて砂金を採る桶を処々にみる。各家、皆、採金家でまた桶のしかけがある。ここは世界三大金鉱の一つであるという。さて列車は急坂を走って機関車を増して三とし、高山が前後をふさいでそびえ立ち、険しさは最も極まった。ここから鉄道は雪に対するおおいの設備がある。それからトンネルをぬけ、スシツト村に到着した。」
 この大陸横断鉄道中の一つのエピソードがあります。

(対話B)
アメリカ大陸横断鉄道にて
(藤三郎が、アメリカ大陸横断鉄道の汽車に乗車中、大陸の山河をあおいで、うかうかとカバンを車の中央に置いていた。すると同乗のアメリカ人の婦人がそのカバンの上に腰かけて、同行の婦人とおしゃべりしていた。藤三郎はそれをみて怒って、ウヌ、くそっと起って後ろからカバンを引き寄せると、婦人は腰をとられてスッテンコロリンと仰向けさまに転んだ。そこで婦人は真っ赤になって怒って、食ってかかった。藤三郎も英語がわからないまま、日本語でやりかえした。同乗の藤山治一は、大変困って、この男は少し気が狂っているのでと、仲裁し女性の怒りをなだめた。落ち着いてから藤三郎に話しかけた。)

藤 山「君はなんであんな失礼なことをしたのかね。」
藤三郎「失礼なのはあの女のほうだ。カバンの中には、母から貰った大事な守り札とメガネが入れてある。これを女ふぜいの尻に敷かれるは忍ばんと欲しても忍ぶことができなかったのだ。」


「母から貰った大事な守り札が入っている」というのが印象的ですね。
藤三郎は生母ちえと養母やすを終生大事にしました。森町の庵山に藤三郎の鈴木鉄工部で鋳造した観音像があり、先ごろ裳裾などが修復されたところですが、随松寺本堂の脇の所に「延寿観音」と刻んだ石碑と「福寿界無量の功徳(くどく)有難や 母の為とて建てし御仏(みほとけ)」という歌碑が刻んだ石碑があり、「願主 鈴木安」とあり、「鋳造 鈴木藤三郎鉄工部」と刻んであります。庵山の観音様は「母のため」に建てた観音像だったのです。
 藤三郎は、シカゴ、ワシントン、ニューヨークと工場見学をして、明治29年8月29日藤山氏とイギリスへと渡ります。7月31日にサンフランシスコに着いてからちょうど1か月アメリカに滞在しています。
8月24日、19ページをお開きください。ニューヨークのアメリカ精製糖会社の工場を見学しますが、「当工場の大なること世界第一の精糖工場なりという。一日の精糖高五千トンという。実にこの大規模にして一切工場の整頓には感服なり」と日記に記しています。このアメリカ精製糖会社の社長が砂糖の糖度を調べる検糖機の性能を自慢したところ、藤三郎が目で見てなめれば産地と糖度は分ると答えたことから、それじゃあ、テストしてみようと言ったという有名なエピソードがあります。

(対話C)
アメリカ精製糖会社にて
(社長は藤三郎と会話の中で、氷砂糖や砂糖の精製法をほとんど独力で工夫してやってきたことを知って非常に興味を持った。そこで藤三郎に聞いた。)
社長「ミスター鈴木、これは検糖機という砂糖の糖分を検査する道具です。サンプルを決まった濃度の水溶液にしてこの検糖機に入れてのぞくと、サンプルの何パーセントの糖分が含まれているか、すぐに計算できます。あなたは砂糖の産地や糖分の含有量をどうやって調べますか」
藤三郎「それは眼で見て、なめてみればわかります。」
社長「えっ、眼で見て、なめてみればわかる?ほんとうですか?」
(社長は藤三郎をテストすることにし、世界各国の砂糖のサンプルを三十種類ほど持ってこさせた。ビンに番号を書いた紙がはってある。藤三郎は一番端のビンを取り、中の砂糖を少し手の平にあけ、じっと見てからちょっとなめる)
藤三郎「これはジャワのなになに工場の製品。純度は89パーセント」
(藤三郎の実験が十五ほどまでいった時、社長が言葉を発した。)
社長「あなたの実力はよくわかりました。もう結構です。実に不思議だ。不思議な人間だ!産地はもとより含有の糖分量もミスター鈴木の言ったとおりだ。私たちが検糖機械で検査をして初めて知ることのできるのと同じ結果が、なんの機械も使わないで即座にわかるということは、どうしても理解できない。」
藤三郎「私は菓子屋の子として育って、四十年以上砂糖の臭いの中で暮らして来た。氷砂糖でも菓子製造でも主な材料は砂糖である。原料糖に含まれる糖分量の多少を見分けることは、営業の死活に関するほど大切なことです。自分の眼で見て、舌でなめて、永年経験をつんでいるうちに自然と正確にわかるようになったので、この技術は秘法ではない。多年の努力経験の集積の結果です」
社長「ミスター鈴木、あなたは砂糖の中から生まれてきた男です。」


藤三郎のアメリカの産業を視察しての総合的な感慨が『余が欧米観』にあります。
 
(朗読資料D)
(▲米国観)
アメリカに行って種々の工業を見たが、イヤお話にも杭にも懸からない、ただ驚嘆のみであった。至る所の工場は壮大を極め、その文明・器械を以て、その進取の猛志を以て、その偉大なる財力を以て、日に新しく計画し、組織して、3年以前のものは惜しげもなく打ち壊すという有様。なかなか以て想像どころのものではない。家屋は普通10階、高いのが20階30階、巍然(ぎぜん)として天空にそびえている。世界的に田舎漢たる余の目には、ただ驚嘆であった。これにおいて余は一の迷いを抱いた。かく物質的に偉大なる文明の現象を日本においても実現さすことができようか、かつ米国がすでにこの通りであるからには、その本国たる、英国、世界の富の中心ともいわるる英国においては果たしてドンナであろうかと。コウいう考えから、余の迷いは失望となり、心の中に一種寂しい愛国的感情を以て、余は米国を去って、英国に移った。


藤三郎はアメリカの工場の壮大さ、その進取の精神、偉大な財力、日に新しく計画、組織し、三年以前のものは惜しげもなく打ち壊すという有様に圧倒され、「かく物質的に偉大な文明の現象を日本においても実現できるのであろうか」、日本はアメリカに追いつけるのであろうかと絶望的な気持ちになったのです。
一方、日記には逆にアメリカ人の日本という国が工業国として勃興することへの警戒感から何度も工場見学を断られたことについて記録しています。
8月17日、シカゴのシュガミル会社の社長から「日本人は工業上、後には最も恐るべき生活及び人件費の安いことはアメリカの十分の一であり、その国にどしどしやられては怖い怖い」と工場見学を断られています。
また21ページ、8月27日にはヨンカースのアメリカ国民精製糖会社の工場見学を申し込んでいますが、同社の社長から「日本人は将来工業上の大強敵になるから工場の見学は許さない」と拒絶されています。
8月29日に藤三郎はニューヨークを後に、カナード会社の汽船ルカニア号でイギリスに向かいます。当時、鉄道や船といった輸送機関にスピード競争の時代が来ていて、イギリス、ドイツなど競って最新の新造船を作っては投入しました。
ルカニア号は大西洋汽船中第一のスピード記録を持っていました。ちなみに第一位の記録保持者はマストにブルーリボンをなびかせることが許されていまして、今ではブルーリボン賞というと日本の映画や鉄道における賞として知られていますが、もともと大西洋を最速で横断した船に贈られる賞だったのです。
22ページをお開きください。9月4日にイギリスのリバプール港に到着しました。ここから汽車でロンドンのユーストン駅に向かいます。
9月5日にハムステッド・パーラメントヒル16番地の今井友次郎氏を訪ねますが、不在でした。ニューヨークで知り合った郵船会社の大河内輝方(おおこうち・てるかた)氏から紹介状をもらっていたのです。横浜港を出てからアメリカ滞在中は、藤山治一氏に通訳の労をとってもらいました。『黎明日本の一開拓者』では、7月28日に78ドルで金の鎖付きの金時計を求めて、藤山氏に感謝して進呈した(157頁)とあります。藤山氏はドイツ留学時代、学資が無く、汽車に乗った時、切符をなくし、時計を質屋で20マルクに換えて切符代にあてたエピソードが残っていますが、藤三郎もお金で謝礼するかわりに、換金が容易なように金鎖付きの金時計をお礼に渡したのかもしれません。
9月7日には下宿をユーストンホテルから、今井氏と同じハムステッド・パーラメントヒルのチャプマン女方に移ります。この夜、今井氏に大河内氏からの紹介状を出して今後の通訳を依頼します。今井氏はヨーロッパ旅行へも同行し、その後の機械買い付けの見積書作成・発送や契約書作製・締結などで多大の協力をしています。
「今井友次郎君の逝去を悼む」によりますと、今井氏は「東京英語学校を経て第一高等中学校に入り、中途にして奮然志を立て、アメリカに渡航しニューヨークに滞在し、英語を研究すること八ヶ月、越へて翌年三月英国ロンドンに渡り、トマスハミルトン商会に入り、日本品輸入部支配人となり、敏腕をふるう」とあります。おそらくニューヨークで英語の勉強をしていたとき、郵船会社の大河内氏と知り合い、3月にロンドンに渡っていた今井氏を大河内氏が藤三郎に紹介したということでしょうか。藤三郎との9月7日から翌年2月9日までの5か月に及ぶイギリス・ドイツの産業の視察とカタログの翻訳、仕様書・見積書・契約書作成の実務経験は、今井氏にとっても商業実務に関する貴重な体験になったものと思われます。今井氏は帰国後、明治38年からは早稲田大学の講師として、商業英語と商業実践を担当しています。
24ページをお開きください。9月8日には、ビショップスゲイトにあった横浜正金銀行の園田頭取に面会します。26ページにロンドンの地図を掲げましたのでご覧ください。ユーストン駅は上の中央あたり、ビショップスゲイトは右側になります。イングランド銀行があるあたりがシティと呼ばれるロンドンの中心部です。藤三郎は正金銀行で百ポンドの為替金を受け取り、また金本位制準備のためにイギリスに調査に来ていた日本銀行の山本達雄氏と面会しています。山本氏は後に日本銀行頭取さらに政治家に転身します。藤三郎はロンドン到着以来、アーレンス商会のモスレ氏やセッフェル氏の案内で多くの工場を見学します。それも製糖工場ばかりではなく、鉄工場など見学しています。明治24年、5年前に鈴木鉄工部を設立し、機械製造業全般に興味があったのです。
9月16日には製糖業についての著述家ニューランド氏を訪問して、砂糖の精製方法についておよそ2時間質問しています。藤三郎が後に台湾製糖株式会社で工場を建設するときに参考にしたのが、ニューラード氏のシュガーという本に載っていた工場の一挿し絵でした。「台湾製糖株式会社史」には「創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ、かつその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。」「さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、かつまた工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成した」とあります。
9月17日は三井物産の渡辺専次郎氏に面会しています。渡辺氏は東京商業学校の出身で、後に藤三郎の鈴木農場を受け継ぐ岩下清周(きよちか)と同期で、矢野二郎校長の義弟が三井物産の社長益田孝という関係で、三井物産に就職しています。何やらその後の藤三郎の事業に関連する人脈の伏線がこの米欧旅行中にできていたようにも思われます。
9月17日の日記、28ページになりますが、「不可思議千万」の事件が起こっています。藤三郎は正金銀行から手形で5ポンド手形18枚を受け取って、胴巻きに入れていたのですが、うち9枚45ポンドがなくなっていたのです。すぐに正金銀行に行って支配人に事情を話し、翌日イングランド銀行で支払停止の手続きをすることを打ちあわせ、夜にはハムステッド警察分署にも届け出ます。翌日イングランド銀行に行くのですが、すでに6枚30ポンドが支払われていたというのです。探偵ダブリュー・ブラオン氏に調査を依頼しますが、その後どうなったか、日記には記載されていません。事の真相が気になる奇怪な事件ですね。
実に当時のロンドンは世界の中心都市であるとともに犯罪都市でもあり、コナン・ドイル描く探偵シャーロック・ホームズが活躍した時代だったのです。
鈴木藤三郎がロンドンにいた一八九六年から九七年にかけて、日記とロンドンの地図を照らし合わせてみると何か親しい感じがしてきます。当時のロンドンはちょうどシャーロック・ホームズの活躍したロンドンと重なるのです。ある意味、シャーロック・ホームズの主人公は、ロンドンの街、そうして大英帝国そのものなのです。
藤三郎が最初リヴァプールから汽車に乗ってロンドンに着いたのは、一八九六年九月四日です。ユーストン駅は一八三七年にロンドンで最初の鉄道の終着駅でした。一八八一年にホームズとワトソンは出会い、ベイカー街で共同生活を始めますが、『緋色の研究』の「ローリストン・ガーデン事件」では、このユーストン駅が登場します。
藤三郎は一八九六年九月六日の日曜日にハイドバーク公園を散歩しています。『シャーロック・ホームズの思い出』の「黄色い顔」には「早春のある日のこと、ホームズは珍しくくつろいで、私〔ワトソン〕と一緒にハイド・パークに出かけた。公園ではニレの木に緑の若芽がふきはじめ、ねばねばした槍の穂先のようなクルミの新芽も五つの葉を開きはじめていた」と描いていて、藤三郎の見たであろうハイドバーク公園をしのぶことができます。「赤毛連盟」(『思い出』)では、ワトソンはケンジントンの家に住んでいて「九時十五分私は家を出て、ハイドパークをぬけ、オックスフォード街を通り、ベイカー街へと出た」とあります。
映画やドラマで見るホームズのロンドンはよく濃霧におおわれています。
「ブルース=パーティントン設計書」の冒頭では「一八九五年(これは藤三郎がロンドンに着く一年前ですが)十一月の第三週、ロンドンは濃い黄色の霧にとざされていた。月曜日から木曜日にかけては、ベーカー街の私たちの家の窓から、向う側の家々の姿がぼんやりとでも見えたかを、私はうたがう」とあります。藤三郎は一八九七年一月二日の日記に「この日の濃霧はこれまでないくらいひどい。実に終日、すぐ先が分からない。そのため市内の鉄道の衝突、馬車の転覆など数ヶ所で起こり、人々の怪我もだいぶあった」と記しています。藤三郎が、ロンドン滞在中に、ホームズやワトソン君と、ロンドンの街中や公園で出くわしていたかもと想像を巡らすのも楽しいものです。
横浜出航以来、通訳として世話になった藤山氏は9月19日ドイツに向かって出発し、藤三郎は今井氏とヴィクトリア・ステーションまで見送ります。
9月24日から藤三郎は今井氏と一緒にイギリス内地旅行に出発します。
31ページの地図をご覧ください。24日午前10時5分にセントパンクスステーションを出発し、ダービーに着き精糖機械製作所を見学しています。
25日には蒸留機械製造所を見学してバーミンガムに行って、パイプ捻切機械及びヴァルブ製造を見学しています。26日はバーミンガム・マーチニュー及びスミス会社を、またアレン・イブリット会社で銅・真鍮管の製管工場を見学し、「実にこの工場の規模盛大なる、器械の完全なること」に驚いています。
27日にはリバプールに着き、28日には、32ページになりますが、ブカナン工場で砂糖の精製に不可欠な骨灰再燃焼器製造所を見学しています。
29日には石鹸工場を見学し「この工場は8年前の創設で、規模の広大なること世界一のシャボン工場であるという。職工2千人ばかり、機械も皆最新」と記すとともに「工場構内に小学校を設置し、職工の児童200人余りが就学している、この外に職工の住居として数百戸の家屋を建造している」と福利厚生の充実ぶりに着目しています。また日本名誉領事ボース氏の紹介でリバプールのグロスヒルド・ヴァロ会社で精糖工場を見学しています。日記に「ボース氏は初対面であったが極めて親切に、かつ製糖工場視察に至っては、いずれの製糖家も日本人には見学を拒むのだが、同氏は特に周旋してようやく見ることはできた」と記しています。藤三郎は現地の実業家や地元名士の力を借りて、工場見学を実現させたのでした。
30日ジェームス・ベカナン工場へ行き、ベカナン氏から精製糖機械の図面を見せてもらい説明を受け、精製糖機械の設計について4時間も議論しています。ベカナン氏は骨灰製造機械の発明もしている権威者でしたが、議論の末、ベカナン氏は藤三郎の説に屈しています。日記には「この時、今井氏通弁最も勤めたり」とその通訳に感謝し、「ここにおいて互いに要領を得て、ベカナン氏は2週間内に製品及び見積書をロンドンの下宿に送ることを約束」しました。
10月1日にはリバプールを発し、マンチェスターに到着します。
34ページをお開きください。10月2日には、砂糖きび雑誌社のエドワード・サットン氏が訪ねてきて、同氏に製糖機械製造所の最も有名な工場と製糖事業家について聞き、また数通の紹介状を得ます。シット・エンド・ガローエー会社に行き、精製糖工場の見学を頼みますが、社長に「日本人は既に紡績において英国を圧するほど進歩した。また製糖業も将来どのように英国の強敵になるか計りしれない。だから工場の見学は断然お断りする」と言われます。イギリスもまたアメリカと同じように日本を産業上の強敵として警戒していたことが分ります。
35ページをご覧ください。10月3日、ボルトナット製造工場を見学します。この工場は職工数百人を使用していましたが、藤三郎は「スクリュ-機械に使用する職工は多く女性である」ということに注目しています。そして「私はイギリスに来てから、鉄工場において女工を見ることは、この工場が初めてである。実に英国人の職業熱心であることは、女性といえども男性に譲ることがない」と日記に書きつけています。
大藤先生のお葉書には「明治二十九年十月三日の条で英国では鉄工場で女工が働いていることに感嘆していますが、この体験から自身の会社の女性雇用に何らかの影響を受けていたのかどうか関心が湧きました」とありました。大藤先生がきちんと読み込んでいただいた上で、ご関心をお持ちいただいたことに感謝します。
5日にはグリーノック市に到着し、精製糖工場を見学していますが、この夜ホテルで山本達雄氏一行と再会しています。山本氏は金本位制実施のための視察にイギリスを訪れ、各地を視察していました。
36ページをお開きください。6日には分蜜機械工場、製糖機械工場を見学し、ダンカン・スチワード会社では製糖機械設計について研究しています。この夜、山本氏と英国の見聞及び将来に日本の事業の前途について2時間ほど話し合ったと日記に記録しています。後に日銀総裁となる山本達雄氏とどんな会話をしていたのでしょう。気になるところですね。「余が欧米観」に藤三郎の見た英国観が述べられていますので朗読してもらいましょう。

(朗読E)
(▲英国観)
 米国においてほとんど絶望的闇黒に蹴落(けおと)とされた余は、英国において救い上げられて、ようやく一道の光明を仰ぎ見ることができた。
余はリバプールからロンドンへ上って、まず奇異の感に打たれた。英国は米国と変わって家屋の多くは4,5階で、外見(そとみ)のところ、レンガもくすぶっている。それはまだ良いが、世界第一の都会たるロンドンの市民が、ぐずぐずせるがごとき有様であることに、むしろ驚かないわけにいかなかった。ところが英国市民の偉大な点は、実にその理論にひそんでいることを発見した。早い話が、家はくすぶっていても、内に入ると、器物などは非常に良く行き届いている。いわば英国は正味の国で、単にそれが住宅の点において現れているのみならず、その産業を見ても、その工業を見ても、みなその通りである。
それから余はいささか考える所があって、都会を去って、田舎(いなか)に行かんと思い立ち、通弁を雇って北部スコットランドへ行き、そこに3か月ほど滞在した。
そのうちに余は英国の偉大なる所以(ゆえん)を事実によって教えられた。工業において英国は米国と同じくやはり大工場的に経営しているのであるが、ただ英国は二宮先生のいわゆる小より大に及んだものである。これを具体的にいうと、英国における多くの事業は初め一人が小さい規模で起して、それが次ぎの代には、父子合名会社となり、漸次(ぜんじ)大きくなって合資会社となり、終(つい)には株式会社となったもので、たいてい三十年四十年と歳月を経たものである。建築もまたその通りで、一つとして歴史が残っていないものはない。その歴史が実に英国人の誇りで、互いに祖先の苦心経営を以て自家の光栄とするものである。
 初め米国を見て、とても日本などでは及びも付かないと失望していた余も、英国のやり方を見ては再び希望のよみがえった次第である。すなわち英国の万事はすべて二宮先生の小より大に及ぶ主義である。この主義を執(と)って行くならば、日本の百事もまた敢(あ)えて英国をのりこえられない理由はない。果してこの一筋の光明は、余を絶望の淵より救い上げたところのものであった。


10月7日には、ボイラーなど4工場の見学を行い、鋳物工場では明後日の見学を予定してきます。8日にはダンカン・スチワード氏の案内でグリーノックに移動し、スコッチ製糖会社の工場を見学し、またグラスゴーへ帰るとローヤル・エクスチェンジで商品取引を視察し、さらに鉄工場の見学も行います。9日はペースレー市のバークレー鉄工所、38ページになりますが、10日はグラスゴー市で亜鉛鍍金工場と角釘工場を見学し「角釘製造機械は原料の鉄板を一次の作用で完全な製造をする」とその巧妙さに感心しています。12日はパン・ビスケット製造工場、ガス管製造工場、キャリコ製造工場と見学します。ホールセール・スコッチ・ソサイティー工場は菓子・靴・製本・靴下・馬車具など幅広く製造していました。実に藤三郎の精勤ぶりには驚かされます。藤三郎は一人で産業革命を日本に持ち帰らんとするばかりに、スコットランドの工場を見学したのです。
13日は製糖機械製造工場を二社見学し、14日は鋳物工場、鉄板・鉄管工場、鋼鉄板製造工場、15日はリベット、ボールトナット製造工場、16日はエジンバラ市の製粉工場、精製糖工場、ビール機械製造工場、モルト機械製造工場、
40ページになりますが、17日はノース・ブリティッシュ・デスティー工場でウィスキー醸造の見学などした後、珍しく観光のため、馬車に乗ってフォース橋の見学に行っています。日記には「エジンバラ市街を去ること9マイルにして、この間山水の風景最もよし。午後4時20分ホース橋に達す。この橋は高さ水面より800フィート、長さ1マイルにして構造の堅固美麗壮大なること、世界第一の鉄橋なりという。両岸及び湾内の景色の絶景なること、ほとんど仙境の思いあり」と感動を記しています。
面白いのは日曜日のたびに、「この日は例の休業」と記されています。仕事人間の藤三郎は仕方がないのでその土地の公園等を散策したり、ホテルで受け取った機械の見積書、説明書を見たりしています。こうした散策やオペラを見たりの記録が、「米欧旅行日記」を単なる業務日誌ではなく、また産業界の状況だけではなく、当時のアメリカやヨーロッパの文化なども知る事ができるという意味で、この日記を魅力的にしている点かも知れません。イギリス・アメリカにおいては当時、厳格にピューリタン的な安息日としての日曜日の過ごし方をしていたのです。
 10月19日、午前9時からアームストロング会社に行って工場を見ます。海軍の種田技師が建造中の八嶋艦を案内してくれます。藤三郎はアームストロング工場で大砲を分業で順次製造するありさまに驚いています。
 それとともに日記には次のように記しています。「さてまた、当会社構内にアームストロング氏初めて大砲を発明せしとき、七ポンドの弾丸の砲を創造したる工場なりとして今日に至るも現在せり。工場は間口九間、長さ十八間なるごく微々たる一小工場なれども、氏はこの小工場の主より起って刻苦勤勉の結果今日の盛大を成せり。実にこの行為は我が輩東洋人士の猛省の具とす」
 このアームストロング工場の感激は藤三郎の脳裡に強く刻まれたと見えて「余が欧米観」にも次のように記されています。

(朗読F)
▲「アームストロング」会社 
ニューカッスルの「アームストロング」会社の壮大で、余はわずかに二日をこの会社の視察に費やしたのみであったが、一つ不思議に思ったことは、事務所ともおぼしき最も重要なる建物の傍(かたわ)らに、幅九間、長さ約十八間ばかりの古レンガ造りの工場があって、ここに鍛工細工(たんこうざいく)の古びた道具が安置してある。余りに不思議に思って案内者に、なぜこのような古びた家がこんな所に置いてあるのであるかと尋ねると、これは私たちの会社に最も大切な所であるという。その訳はこうである。昔アームストロングが七ポンドの大砲を発明し、その採用を時の英国海軍省へ出願した。ところが海軍省ではオモチャ鉄砲として試験もせずに却下してしまったが、アームストロングは別に確信するところがあったから、重ねてこれを出願し、試験を受けた結果、その砲力はすこぶる偉大であることが分明し、遂に海軍御用を仰せ付けられ、それから、漸次工場を広めて、終に今日の隆運を見るに至った。この古びた家こそ実に彼が七ポンドの大砲を鋳造したところであるというので、今なお記念のため、このように保存されてあるのである。


アームストロング工場の創始者が始めた小さな工場がイギリスでは大切に保存されていることに感激した藤三郎でしたが、藤三郎の東京の精製糖工場は今は跡形もなく、広大な団地へと変わり、日本精製糖発祥の地という石碑があるのみです。当時の製糖工場を偲ぶには、台湾の高雄市の橋頭にある台湾製糖工場の跡地を見学するしかありません。実に台湾の人々は百年以上もの間、当時の製糖工場と藤三郎の建立した観音像を大切に受け継いでいるのです。
日記には載っていないのですが、イギリス内地旅行において、汽車の車窓から見たと思われる草原の美しさに感心した話が「『国力増進の根本策』(「実業世界太平洋」第三巻第九号 明治三十七年一月一日発行)に出ています。
「余かつて英国に至りし時、郊外あおあおたる海原(うなばら)のごとき、平野に牛羊の類、ゆうゆう横たわるを見、野草の美麗なるを賞せしに、人これに答えていわく、この草は一面野草にあらず、全く牧草なり、農民の勤勉は野草を滅して、かくのごとくならしめたりというを聞いて、感激おくあたわざりき。」
これは「余が欧米観」によると、一英国紳士との対話としてあります。

(対話D)
スコットランドの牧草地を見て
藤三郎 「イギリスの商工業の隆盛は偶然ではありませんね。この見渡すところの草原や丘、すべてが牧草です。食料はすでに足りている。国はまさに富まざるを得ない。」
イギリス紳士 「君はまことに妙所をうがち得た。けれども、君は今から50年前にはこの原野が、ただ雑草がぼうぼうと生え、いばらが生い茂り、狐やうさぎが昼夜を分かたずに跳躍していた状況を知るまい。現在のようになった理由は、実に私たちの先人の丹精の結果であって、決して自然に恵まれていたばかりではない。」
藤三郎 「なるほど、イギリスの牧草もまた実に歴史的に発達したものなのですなあ。そして同じように商業、工業も先人の勤労で発展し、工業や農業の生産物が一つにロンドンに集まってこの大英帝国を支えているのですね。」



報徳においては、至誠・勤勉・分度・推譲を四大原理といいます。イギリスの産業の発達が先人の勤労の継続の結果として生じたのだということを、青青と広がる牧草地の美しさにも見てとって、報徳でいう「小を積んで大に至る」方法で、イギリスの産業が発展したように、日本の産業も同じように発展することができるということを確信したのではないでしょうか。

藤三郎が英国内地旅行に出たのが9月24日、内地旅行を終えて、ロンドンに戻ってきたのは10月20日でした。実に1か月近い世界の工場たるイギリス各地の視察の旅で、製糖工場ばかりではなく、各種多数の工場を視察して産業革命の何たるかを身をもって体得したのです。
47ページをお開きください。11月8日から藤三郎は今井氏と一緒にヨーロッパ大陸の視察の旅に出ます。午前11時にビクトリア駅を発車し、午後12時30分にドーバーに着いて、汽船でイギリス海峡を渡って、午後2時30分にフランスのカレー港に到着し、汽車でパリに着いたのが夜7時でした。諏訪秀三郎氏の経営するホテル・サントラールに宿泊しています。パリでは9日ルーブルやノートルダム寺院、エッフェル塔など見学し、10日も美術館、動物園、11日は美術館、織物美術館、死体の縦覧所まで見学し、夜にはオペラを見ています。
48ページ、11月13日は諏訪氏の案内でセイ精製糖工場を見学します。フランスの製糖業は原料にビート、甜菜を使っていました。「この工場にてはすべての方式がイギリスと異なり、機械はすべて最新式を集め、その完全なことに大いに感動した」と日記に記しています。
11月18日に藤三郎一行はドイツに向かって出発します。50ページにドイツ旅行の地図を掲げました。19日の朝、ケルン経由で午後6時ベルリンに着きます。懐かしい藤山氏が駅まで出迎えに来てくれました。20日は藤山氏の宿で日本食の饗応を受け、夜にはバレーを見ています。
その後、工場見学の準備がととのうまで、ベルリン市内の観光を続けています。23日にはブランシュワイ機械製造工場を視察しています。いよいよ、工場見学の準備が整ったようで、24日には精製糖工場と甜菜糖製造所を二か所見学しています。
52ページになりますが、25日にはブランシュワイ機械製造所に行って、社長や技師に会って製糖機械の設計について相談しています。午後、ブランシュワイ市立の砂糖製造学校を見学し、校長に会って砂糖分析機械の説明を受け学説を聞いています。藤三郎は学校の来歴と規則等の書類をもらって帰っています。ドイツには砂糖製造の専門学校があり、藤三郎は興味を覚えたようです。
また砂糖商ヴワイケル会社の社長に面会して砂糖の取引の状況を聞き、原料糖と精製糖の見本を得て、日記に細かく取引価格などのデータを記録しています。藤三郎は製造工程だけでなく、砂糖の商取引の状況も視察していたのです。
26日にはベルリンに帰り、翌27日には高田商会の技師広田精一氏を訪ねています。その後のドイツの視察は主にこの広田氏が案内と通訳を勤めることになります。広田精一氏は明治4年10月生れで、この時25歳です。明治29年7月に東京帝国大学工科大学を卒業し同月高田商会に入社し、同8月高田商会在職のまま、ドイツのシーメンス・ハルスケ電気会社に入社していますから、ドイツへ来てから3か月後に藤三郎と出会ったのです。広田氏は後の東京電子大学の創設者の一人となり、神戸大学工学部の前身となる神戸高等工業学校長となり、また電気雑誌オームを創刊するなど電気に関する日本の第一人者でした。
28日には広田氏と今井氏と三人でハレー市に向い、直ちにハレー機械製造所を見学し、29日にはザンガーハウゼン市に着き、モルト工場を見学します。
54ページをお開きください。30日はザンガーハウゼン機械製造所に行って、製糖機械について相談し工場見学しています。また設計上の質問をしています。
12月1日にはベロブリゲン製造所、アルステット村の製糖所も見学しています。2日には、ハレー市に到着し、ハレー精製糖会社に行って工場を見学して、ベルリンに帰っています。3日にはシー・ヘックマン製糖機械製造所でボイラーの製品と設計を見て、また分蜜機製造所で専売の分蜜機械を見学しています。
4日にはヘックマン会社に行って工場を見学し、7日はヘックマン機械工場へ行き、ボイラーについて質問しています。8日は藤山氏の案内で帝室博物館を見学し、藤山氏の下宿でウナギのかば焼きを食べています。この日をもって藤山氏と別れ、翌日からは広田氏が案内します。12月9日広田氏と会って、藤山氏とはここで別れの挨拶に来て、三人でハノーバーに向かいます。
10日ハノーバーの近傍ケールチング兄弟会社に行き、社長のケールチング氏の案内で工場を見学します。日記には「当工場の機械運転はすべて電気をもってす。また電気はガスの原動機によって発す。そもそもこの応用を見ることは欧米に到着以来当所をもって初めてとす」と記しています。原動機がボイラー、蒸気の力によっていた時代から、電気を動力とする時代に変わりつつある瞬間に藤三郎は立ち会っていたのです。ケールチング氏は、精糖機械の原動力に電気を応用する利益を藤三郎に力説しました。この時のケールチング氏(当時64歳)との会話が「余が欧米観」に次のように記されています。

(対話E)
ケールチング工場にて
ケールチング「君は欧米各国を歴遊して来たられたから、さだめし見聞が広いであろう。私は不幸にして、いまだアメリカを見たことがない。私の工場もまた考えが古く、新しい技術を受け入れていない欠点があるであろう。ぜひ私のためにこの工場に欠けている所を語ってくれたまえ。」
藤三郎「欠点はありません。もし強いて言うならば、一つ疑問があります。あなたの工場が盛大で完備していることは、イギリスやアメリカの工場と比較して少しも遜色ありません。ただ、工場の設計室はきわめて壮観を呈し、聞くところによれば技師は31名の多数に上るということです。これはイギリスやアメリカでは見たことのない現象です。これはいったいどういう訳ですか。」
ケールチング(手をうっていう)「君は善いところに目をつけた。鈴木君の疑問はまことにそのとおりだ。しかし私の工場で有給の技師はたった一人です。その他は皆な工科大学の卒業生が、実習のために工場に来ているものであって、彼らは自費自弁で3年ないし5年、実地の練習をここに試みて、その後に他の工場から招かれるのを待っているのです。設計室のようなものも私の国家に対する義務であると思って、多少の装置を設置している次第です。ドイツにおいては、工学士は大学を卒業した後、4,5年実地練習を試みて、なお有給の技手となってから、特別の功績がなければ容易に技師長となることが出来ないのです。すなわち一人前の人物となるには、少なくとも大学卒業後10か年を要するのです。」
鈴木「なるほど、ケールチングさんが私に語られたところと、私がその実際の状態を見て、ドイツ工業の発展する理由は決して偶然ではない。砂糖の専門学校のあることを思い合わせれば、社会として教育を組織的に積み重ねてきたからだということがよくわかりました。」


藤三郎は後に森町に福川泉吾氏とともに私立周智農林学校を設立します。農業に関する専門学校を作り、人材を育成しようという考えは、ドイツのこの時の体験にあったのかもしれません。
私と森町のM、Sの三人で初めて台湾の高雄にある台湾製糖の工場跡を、利純英さんというかつて台湾製糖会社で働いていた方に案内してもらっていた時のことです。台湾製糖会社には工場内には大きな機械修繕の一室もありました。Mさんが利さんに、「藤三郎が台湾に遺したことは最大のことは何でしょう」と質問すると、利さんはしばらく遠くに目をやって答えたのは「それは教育だと思います。」まさしく藤三郎は実業的な教育を重んじるとともに、台湾にも常に工夫改善する精神を残したのです。
12月11日、ケールチング社長は馬車に乗ってホテルまで迎えに来てくれ、ケールチング工場を見学した後、ブランシュワイにある分蜜機械製造所において電気を応用した分蜜機の試験を見ています。12日には広田氏の案内によって電気鉄道会社で原動機械工場を見学し、最新の電車に設置する蓄電機械を見ています。またドイツで初めて精製糖と氷砂糖の工場を見ています。
58ページになりますが、「私たちがヨーロッパ大陸に渡って以来、このような工場を見ることは今回をもって始めとする。この工場主はランゲ会社の社長と兄弟なので、特に私たちに見学を許したのだという」と日記に書きつけています。また当地の氷砂糖の値段を詳細に記しています。
12月13日にハノーバー駅で広田氏と別れ、ハンブルグにむかいます。14日にマルチンブルカード氏に製糖工場の見学について紹介してもらおうとしますが、当時ドイツは日本に砂糖を盛んに輸出していて工場見学はすべて断られています。
15日には電気原動機製造所を見学し、商品取引所で数千人が群集して商品取引に従事している状況を見学します。この夜、シモンズ氏の自宅に夕食に招かれています。アメリカやヨーロッパでは夕食に招かれた客は主催のお宅の婦人の腕をとって食卓までエスコートするのが礼儀でした。わが藤三郎は日本男児としてご婦人の腕をとってのエスコートなんてできないと意地をはります。

(対話F)
(ベルリンにて)
藤山「食卓の案内を受けたら、主賓(しゅひん)のあなたが当家の奥さんの手を引いて食堂に入るのです。出るときもやはり同様ですから、そのつもりでうまくやってください。」
藤三郎「なあに!ひとの細君の手を引いて出入りすると、バカな!そんなバカなことを。藤山君、私にそんなまねができるもんですか。」
藤山「いや、それが西洋の礼儀なんだから、仕様がない。鈴木君、どうぞそうしてください」
藤三郎「いやできん。」
「ぜひにもというなら、私は帰る。」
藤山「それじゃあ困る。」


 この時はやむなく、藤山治一氏が藤三郎に代って主賓をつとめたといいますが、おそらくハンブルグでは今井氏が代役を勤めたことでしょう。
16日夜10時30分ハンブルグを去ってオランダに出発し、イギリスのロンドン、ビクトリア駅に到着したのは、17日午後10時でした。一月に及ぶフランス・ドイツの旅でした。12月18日からホテルにこもって、収集した機械類の見積書や説明書の翻訳を今井氏と協力して行うとともに、最新式の工場の設計図作成に専念します。それができあがると、機械ごとに専門の機械製作所に詳細な仕様書を提出させた上で、競争入札を実施した。さらに見積り価格が高価だと思ったものについては、その落札価から更に値引きさせて適正な価格とさせています。
「黎明日本の一開拓者」176ページによると「残っている当時の契約書の控えを見ても平均一割五分の値引きをさせている」とあります。2月2日に徳富蘇峰と面会していますが、その時「その物の本当の値打が分っていて、しかも欲心にひっかけられることさえなければ、欧米人を相手に回しても決してやたらに卑下する必要はない。科学が格段に進み、取引の習慣が少しくらい違っていても、商業の根本では日本人も欧米人もそう違うものではないということがハッキリわかった」というと、徳富蘇峰も大いに共鳴したとあります。
 63ページをお開きください。1月1日は、「元旦、皇国に向いて遥かに新年を祝す」とあり、今井氏と二人で写真館に行ったとありますから、現在残っている写真はこの時のものと思われます。1月20日から2週間ほどグラスゴー、グリーノック、リバプール各地の機械製造所を回って、発注した機械の製作状況を実際に視察して、2月2日にまたロンドンに帰りました。藤三郎の出発後の機械の製作や発送の監督は三井物産ロンドン支店に手数料を払って委託し、こうしてすべての手はずを整えて2月9日にロンドンをたって帰国することになりました。
藤三郎は今井友次郎氏の半年近い協力に21ポンドで金鎖付きの金時計を求めて今井氏に進呈したと「黎明日本の一開拓者」(180ページ)にあります。米欧旅行を終えての藤三郎の総括的な感想は次のようなものでした。

(朗読G)
▲英米の総合的観察 
私が今までの英米観は、なおはなはだ狭かった。これはイギリスとアメリカと別々に観察すればこそ、いろいろの迷いも生じたのだ。
試みにこれを総合して観察した時にはドーダ。イギリスがその漸進主義、その積小成大主義をもって蓄えた精力を、アメリカが大きく豪気な方針で発散しているものとあわせてみれば、なにも驚くべきほどの事もないではないか。イギリスは人種的におのずからアメリカの基礎を作っている。その人種的性質はすなわち「小を積んで大を為す」で、二宮尊徳先生の言をかりて言うと、「本を尊(たっと)んでこれを進化さす」のである。これが実に天地の化育を助ける道であって、あわせてまた永遠に富強を致す方法である。


 そして米欧旅行にあたり「欧米の偉人と、我が尊徳先生とはドンナ差があるであろうか」とした藤三郎は「余が欧米観」では、次の疑問を持ったままです。

(朗読H)
▲余の疑問 
これを要するに、欧米人の事を為す強い志があり、堅(かた)い実行があり。博大な精力を以て、絶えず一生懸命実行し、勤め励み、一歩は一歩より進んで、やがては山を倒し海を立てる偉業を企てるかのようである。それはあたかも我が二宮尊徳先生の精神を学んで、その通りをするのではないかと思われるほどであるが、元より彼らが二宮先生の精神を学んだはずはない。そうであれば、すなわち彼らはどのような精神を学んでここに至ったのであろうか。これが実に私の大いに疑問とするところである。


「余が欧米観」は「彼らはどのような精神を学んでここに至ったのであろうか。これが実に私の大いに疑問とするところである」と疑問符で結んでいますが、
 日本に帰国後10年ほどたってから明治39年4月26日「斯民」という雑誌に発表した「報徳実業論」ではこの自らの疑問に対して、鈴木藤三郎は次のように結論づけています。

(朗読I)
(「報徳実業論」)
私はかつて欧米を漫遊し、かの国の実業界における幾多の成功者を訪問して親しくその事業を観察したとき、彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見した。彼に報徳の教えがあるということを聞かないけれども、そのとる所の方針は、自然と報徳の道の肯綮、物事の急所にあたっている。だから欧米諸国の実業が、大いなる発展をした理由も少しもあやしむに足りないのである。


 「彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見した」と。
藤三郎は、欧米の偉大な人物が成功した理由は推譲にあることを発見したのです。
 「二宮先生語録」468に言います。
「祖(そ)先(せん)の恩(おん)を思(おも)ふ者(もの)は、必(かなら)ず細(さい)民(みん)の艱(かん)難(なん)を思(おも)ふ。祖(そ)先(せん)の恩(おん)を忘(わす)る者(もの)は、必(かなら)ず細(さい)民(みん)の艱(かん)難(なん)を忘(わす)る。」
「其(その)艱(かん)苦(く)を思(おも)ひ、分(ぶん)を守(まも)り用(よう)を節(せつ)し、余(よ)財(ざい)を推(お)し、以(もつ)て人(ひと)の急(きゆう)を周(あま)ねくし、以(もつ)て人(ひと)の貧(ひん)を賑(にぎ)はす。之(これ)を名(なづ)けて、報徳(ほうとく)の道(みち)と曰(い)ふ。是(こゝ)に於(おい)てか、天(てん)下(か)の貨(くわ)財(ざい)以(もつ)て貴(たつとし)と為(す)るに足(た)る。」と。

 72ページをお開きください。1897年、明治30年2月9日の日記に「早朝より行李(こうり)を調」えとあり、藤三郎はアメリカ・ヨーロッパにおける視察と糖業機械の買付けをすべて終わり、イギリス南部のサンサンプトン港から土佐丸に乗って帰国の途へと着きます。

2月14日午後11時ジブラルタル海峡を通過して、地中海に入ります。
「対岸の港の灯りが多くの星のようである」と記しています。
22日、午前6時にエジプトのポートサイド港に着岸し、藤三郎は市中を散歩しています。船はここで石炭を積み込み、午後4時に出発し、スエズ運河を通過します。
紅海、インド洋を経て、3月8日には「午前10時、インドのセイロン島(現在のスリランカ)を左方に見る」と日記に記しています。
3月14日午前8時20分にシンガポールに着いています。ここで三井物産から友常氏が迎えに来ています。この夜、扶桑館に土佐丸の事務長三浦氏ほか三名を招いて送別の宴を催し、日本料理を振る舞っています。
3月15日にはシンガポールにおける砂糖年表などを調査し、ジャワ島行きの船の手配をしています。
ジャワ島のバタビア港に着いたのが3月18日でした。バタビアとは現在のインドネシアの首都ジャカルタのことです。
『風聞百話』という本に、「鈴木藤三郎水風呂にしくじる」というバタビアにおける失敗談が載っています。
「日本精製糖会社社長鈴木藤三郎氏はかつて欧米旅行の際に、南洋ジャワに上陸して糖業を視察する。ジャワは熱帯の地で、ホテルも皆、水風呂である。彼は壮年虚弱であったが」、冷水浴を信じてこれを実行して、以来非常に健康になった。したがって夏の水風呂は最も彼の好むところで、喜んでこれに飛び込み、持参していた石鹸で全身を洗った。水はこのために全て白色となり、石鹸のかおりで満ちた。彼は異国の汗やほこりを洗い終わって満面笑み。まさに自分の部屋に帰ると、風呂番が大騒ぎを始めて、ホテル中てんやわんやである。藤三郎がボーイを呼んで何事が起ったのか聞くと、ジャワの水風呂は水を汲み出して全身を洗うのであって、風呂の中に入るのは厳禁とのことであった。」
3月20日には砂糖取引の状況を調査し、23日まで研究しています。25日にはリラパヤに移り、藤田領事と面会し、領事の添書をもらって、知事から内地旅行の承諾を得ています。この日フレーザーイートン会社に行き、支配人に砂糖の見本を見せてもらい、翌日はターナー製糖所を見学しています。藤三郎はターナー氏の案内で第一にさとうきび畑を見学し、それから製糖工場を見学し、当地の精製糖について質疑しています。藤三郎は帰国後明治三十二年三月「日本糖業論」を刊行していますが、次のように述べています。
「予は先年欧米旅行の帰りに、南洋ジャワに渡航し、西端のバタビアから東端のソラバヤに至る間を、数十日同島の地理を調査し、特に製糖に関する点については過去の状況を調査し、また現在の状況を見、また将来のこの地における精製糖工業の利害得失をも研究した結果、ジャワ島における精製糖工業は非常に不利であることを悟った。その理由を略論しよう。ジャワ島において精製糖工業に関し第一の欠点は良水が皆無であることである。本島は年中大変暑く、雨量が多いといっても国中すべて岩石を見る事はまれな地勢であり、このためにこの地の大小の川は、みな泥土を洗い流し、このためにいたるところの水は混濁している。上等の旅行客でもわずかにホテルに備えつけの雨水を少しを用いて身体を洗うに止まる。中流以下の人民にあっては、濁水で洗濯し水で浴びる程度である。この例でこの地の良水に乏しく、また水の貴いことを推知できよう。あるいはまた機械を使用して良水を得る方法がないわけではないが、このため水の価格が高価になることを思わなくてはならない。なおまた石灰については、ジャワの近くのシンガポールヘ我が日本よりこれを輸出する他に求めるしか方法がない。」
このようにさとうきびの一大生産地のジャワ島の視察を終えて、3月30日藤三郎はスラバヤ港を後にして、シンガポールに戻り、香港、台湾の視察へと向かいます。


「米欧旅行日記」はこの後、ジャワ、台湾の視察へと続きますが本日の講演はここで終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

またT館長の素晴らしい朗読と対話に協力いただいたMさんさんに感謝します。有難うございました。





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最終更新日  2017年06月08日 18時12分53秒



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