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2018年03月11日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
「福川泉吾、藤三郎、みなさん男っぷりがいい。遠州の報徳の精神。」

第21回伊豆文学賞最優秀賞「鋳物師七郎左衛門(いもじ・しちろうざえもん)」松本茂著について、嵐山光三郎さんの審査員評である。

「福川泉吾という遠州きっての実業家や、独学で氷砂糖の製法を編み出した藤三郎も森町出身。藤三郎は福川泉吾にかけあって山田信介の留学費用餞別金を渡した。みなさん男っぷりがいい。遠州の報徳の精神。」

とある。「鋳物師七郎左衛門」松本茂さん から 藤三郎と福川泉吾との対話を紹介する。

主人公の信介は、遠州森町の鋳物師(いもじ)山田七郎左衛門の長男として文久3年(1863)に生れた。
明治15年東京職工学校が開校すると第一回生となった。信介の入った機械工学科の同級生は40名だったが、卒業時には10名となっていた。
しかし、信介の就職先は決まっていなかった。
校長の正木退蔵から学校に呼び出しを受けて行くと
「ドイツに行ってみないか」と思いがけない話を受ける。
正木校長は当時外務大臣だった井上馨に呼ばれ、ベックマンから官庁街建設には日本人技術者の養成が急務だと提言された、職工についてはお前が推薦しろというから、信介を推薦したという。

第一幕

信介には留学費用の工面するほどの余裕が今の山田の家にあるとは思えなかった。
明治維新で徳川幕府の御朱印を得て、駿河・遠州両国の鋳物師を統括していた山田家は急速にさびれていっていた。

「ただいま戻りました」

「おう、戻ったか、座敷で待っていてくれ。」

「手紙の件だがな、何とかしてやりたいが、今のわしには無理だ」と父は言った。続けて

「藤三郎が氷砂糖の研究をしていたことを知っているな」

「一昨年ですか、明治町に氷砂糖の工場を建てたそうですね」

「うん。その金を出したのが泉吾だ。
 藤三郎は、工場を建てる資金の相談に、最初、倉真村の岡田良一郎の所へ行ったんだがな。
 岡田は、儲けが一割しか出ないという藤三郎の話を聞いて断った。
 そこでな、藤三郎は泉吾の所へ行った。
 同じ町内だから顔を合わせれば挨拶ぐらいはしただろうが、商いの上での付き合いもないし普段の付き合いもない。
 そんな泉吾をいきない訪れて相談したんだ。
 藤三郎は泉吾に会うと、岡田の所で話したことを繰り返した。
 するとな、泉吾はすぐに金を出そうと言ったんだ」

「金は出せないという方が普通だと思いますが」

「わしもそう思ったから泉吾にわけを聞いてみた。
 『わしは新しいことに取り組もうとする若いやつを応援したくなるんだ』と言っておった。」

「じゃあ」と少し話の見えてきた信介は言った。

「ああ、お前のことを話したのさ。手紙も見せたよ。で、金を貸してくれないかと頼んだんだ。」

「なんと言いました?」

「『金を出そうじゃないか』そう言ったよ。」

「本当ですか?」

「ああ、本当だ、そればかりじゃない、金は返さなくていいと言うんだ。
 泉吾が言うには
 『信介はこれからの日本にとって必要な技術を学びに行くのだから、その手助けができるということは、わしにとってはなはだ名誉なことだ。金を貸すなどということができるはずがない。これは、わしにそのような機会を与えてくれたことへのお礼だ』とまで言うんだ」

そう言うと父は、隣の部屋から紙包みを持ってきた。

「この中に泉吾が用立ててくれた金が入っている。それと少ないが、わしからの餞別も入れてある。持っていけ。」

「おとっつあん」後は言葉にならなかった。


第二幕

信介がドイツ留学から帰国したのは、明治23年1月のことだった。
帰国すれば臨時建設局の雇となるはずだったが、官庁街集中計画は井上の失脚にともなってとん挫していた。内務省にやとわれて官庁街の工事もしたが、2年後には独立し、辰野金吾や河合浩蔵といった西洋建築のリーダーたちの要求にこたえ、東京府庁、司法省、日本銀行などの建築の仕事に携わった。
忙しい日々を送る信介に父から手紙が届いた。信介は明治31年に大阪出張所を設け、父に頼み込んで大阪につめて監督してもらっていた。
「今朝、四天王寺から大梵鐘(ぼんしょう)鋳造のことで円常殿わざわざ来談これ有り」と手紙の末尾にあった。
市川円常は四天王寺の僧侶で、内国博覧会に合せて世界一大きな鐘をつくろう、その相談にのってほしいということだった。
大阪鋳物組合にも相談したが無理だといわれたという。
信介は大阪砲兵工廠(こうしょう)なら大口径の大砲を作る、最先端の鋳造設備を備えているからできるはずだと助言する。

ところが、大阪鋳物組合が見積もり合わせをしたといいだしてきた。信介にも見積もりを出してほしいという。
四天王寺の住職吉田源応は実は信介にお願いしたいと思っているというのだ。
ところが、大阪砲兵工廠の見積もりが高くて、再度大阪鋳物組合と信介との再見積もりとなった結果、委員会では信介にお願いしようと全会一致で決まったという。

信介は職人の手配のため、日本精製糖会社の鈴木藤三郎に頼みに行く。藤三郎は鈴木鉄工所も設立していて、そこには山田の所で働いていた者が何人か行っていた。

「お久しぶりです。ご活躍ぶりはよく存じ上げていますよ」と藤三郎は信介に言った。

信介は、山田で働いていた30人くらいの職人の大半をひきとってくれた藤三郎に

「その節はありがとうございました」と礼を述べた。

「礼には及びません。助かったのはこちらです。思っていたより早く鉄工所が軌道に乗ったのも鋳造の技術を持った彼らがいたからですよ。ですから礼を言わなくちゃならないのは私のほうです。」

信介は鉄工所を案内されたあと、会社近くの料理屋で藤三郎と会談した。

「さて、今日のご用件というのはもしかしたら四天王寺の鐘のことですかな?」

「どうしてそのことを?」

「鋳造の話が山田さんの所に来ているということを小耳にはさんだので。ご相談があるとおっしゃるならそのことかと」

「おっしゃる通りです。今日お伺いしたのはその件です。」

「よろしい。必要な人数は私の所から出します。遠慮なく言ってください。
 そうですか、岡野(かつての山田で働いて独立)の所も協力は惜しまないと。そうすると世界一の鐘作りに森町の人間が力を合わせて挑むわけですな。愉快だな、実に愉快ですな」

結局、大阪鋳物組合が横やりをいれてきて、もう一度機会を与えよ、それがダメなら寄付金集めには今後一切協力しないと言ってきたというのだ。
やむなく応じた四天王寺に出してきた見積もりは破格の額で、顕彰会員からの圧力もあり、
信介の世界一大きい鐘つくりへの挑戦は終わった。

「おとっつあん、申し訳ありません」

「お前があやまることはない。いい夢を見させてもらったと思っている。
 あの鐘にはわしとお前がありったけのものを出して取り組んできたんだ。
 こんなに充実した毎日はなかった、楽しかったよ」





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最終更新日  2018年03月11日 05時14分12秒
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