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2020年11月22日
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カテゴリ:宮澤賢治の世界
八木英三「少年宮沢賢治」(「宮沢賢治研究資料集成第1巻」p.141-144)
私は明治40年に早稲田大学へ入学することになって、花城小学校の代用教員を退職した。
私の最初の教え子達であるところの賢治君の組は尋常3年から持ち上りで4年を今や終ろうとする2月の中旬であった。
18歳にして代用教員を拝命したところの私自身がすでに少年であった。
「教壇に立つときはまっ黒な足をしないで足袋(たび)をはきなさい。」と照井先生に注意されて、不思議な儀礼に首をかしげたものである。
「弁当は教壇に腰かけて食べてはいけません。」と及川校長に𠮟られたときは成程と感心した。
高等科4年生の桂のおきみさんは16の美人だった。
「英三さん、先生になったって、そんなに頑張らないで、あそびにおでれぢゃ。」とひやかされて真っ赤になったこともある。
このような少年の私が一躍にして先生になったのだ。3年生まではおじいさんの吹張先生に甘やかされて来た犬ころのような子供らである。級長のかける「礼」の声が通らなくて、一時間中教師と生徒と立ってばかりいたことがある。(賢治君は副級長だった。)
時間半ばごろからさすがに生徒の方も気がついてシイーンとなったけれども、私は着席することを許さなかった。
「おれは先生になる資格がないのだろうか。」
おれは一日黙々として楽しまなかった。翌朝井戸端で顔を洗っていると、ドット鼻血が流れて洗面器を真赤に染めた。母がビックリして登校を制止したけれども「死んでもアノ子供らにまけるものか」という勇気がぼつ然として台頭した。
子供らはやや静粛に授業をうけるようになった。私も少しずつ教育に興味を感じはじめ、夕方おそくまで一人で明日の支度をしてかえるときなど、思わず小唄が鼻さきに上がったりすることもあった。
その頃、五来素川が「まだ見ぬ親」をはじめて翻訳した。私はかみつくようにこの少年小説を耽読した。大事な言葉は暗記くらいにまで進んだ。授業のヒマヒマ、体操の時間で雨でつぶれたときなど、この物語りを連続長講で話してやったが、このときばかりは子供らの面持ちに異常の緊張さがあらわれ、心から涙を流すもの、思わず歓呼の声をあげるものも少なくはなかった。私自身も自らの声音に上気して眼がボーツとなるのであった。
この話が二月も三月もつづいたと思うが、それが終わるころから、私の組が大そう従順になった。私もまた童話やリーダーの中から、彼らにいつでもお土産の用意はしていたのである。そして一週間に三ぺんづつ必ず作文をかかせた。一日おきにそれを調べてかえすのは、かなりおっくうな仕事であったけれども、少年の頭には疲労がないものだ。忠実にあやまりを正し、秀句に図点をつけ、書後に批評を加えた。
それだから子供たちの中にもその事に興味を持つものが出来て、ある自由作文の宿題のとき、今の大橋博士が十八枚の半紙にたんねんに蘇我兄弟の物語をかいて持ってきた。同じ宿題に、賢治君が、十二行罫紙三枚半にきれいな真書の細筆で、七五調のすっかり整った長詩を物した。題目は忘れたが、なんでも四季の眺めを別々にうたってあったように記憶する。私が賢治君の詩才に感嘆したのがこれがはじめてであった。その天才を摘出してやることが私の任務の大きなものの一つであるように思った。
けれども少年教師と少年門弟とは最早たもとをわかつべきときとなっていた。
「お前たちはえらい人にならなければいけない。先生とおわかれにめいめいののぞみを書いて記念にのこしてくれ。」といって「立志」と黒板に題を示した。いつもは陸軍大将になるの、大学総長になるのと威張っていた連中だったが、この題を、この機会に与えられて、誰も顔を上げるものがなかった。たいてい一、二行にかんたんに大工になるとか、おじさんのあとをついでお医者になるとか、卵買いなどして歩くとか、いたってジミな答えばかりであった。賢治君も同様に家業をついで商売にいそしむ趣が、やっぱり二三行にかいてあった。
私は子供らのこの着実な考え方に自分の無鉄砲さの影響しなかったことをひそかによろこび、浅春の豊沢橋上までみんなに見おくられてアバラ屋にかえった。
ひと昔とまた何年かすぎて、賢治君は「春と修羅」をかいた。
それから間もなくのこと、汽車の中で偶然一緒になり、突然こんな質問をうけた。
「このごろ、ある朝の印象という題の詩をかきましたが、わきにドイツ語を入れなければ、どうしても心持が落ちつかないのです。アイネファンタジー、です、アイネスモルゲンスではいかがでしょう。」
「非常に面白いね」とあいづちを打った。
その時の話に
「私の詩は哲学的に、思想的に、また宗教的に考えたときに、非常に偉大なものだと自負していますが、思想の根底はすべて先生の童話から貰ったように思って感謝しています」という一言があった。・・・・・(『女性岩手』第9号、昭和9年1月)





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最終更新日  2020年11月22日 09時05分06秒
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