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カテゴリ:鈴木藤三郎
・報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。
「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ」という論旨から成り立っている。 ・鈴木藤三郎さんの精神は、その薫陶を受けた私の処世訓ともなっている。 私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっている。私は、金もうけ優先の企業経営は考えたことがない。まず、国家、社会のためになる製品をつくり、株主の利益、社員の生活向上を願うことを第一条件としてきた。それが結局、会社自体の繁栄につながる大きな要素だと信じる。 ・就職してちょうど1年目、私の月給は倍の100円になった。当時、100円の月給とりなどそうザラにはいなかった。少なくとも勤続10年くらいの人でなければもらえなかった。それがもらえたのだから、うれしさよりも先に、ビックリしてしまった。 私は社長のあたたかい心にすっかり感動し、ホロリと嬉し涙を流してしまった。就職たった1年で、どうして月給が倍増になったのだろうか。始めはどうしても分からなかった。 まさか倍増になろうとは考えてもみなかった。私は、すぐ社長にお礼を述べ、ついでに倍額の理由をお尋ねした。 社長は、こうした私の窮状に同情して、月給を上げてくれた。私は深く社長に感謝した。 ・私が最もおカネが欲しいときに、月給を一挙に倍増してくれるとは、全く敬服のほかはない。この腹の太さ、タイミングの妙、まさに経営者たるもの、大いに見習うべきことではないだろうか。 「熱と誠」畠山一誠(荏原ポンプ創設者)著 学校を卒業し、最初に就職したのが鈴木鉄工所という小さな会社だった。ここに就職するまでは、「寄らば大樹のかげ」ときめていた私ではあったが、縁あって就職した以上、思いきり働いてみようという気になった。 鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。 この2つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。 初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。「若い技師長さん」の私は、年配者にまじって一生懸命だった。 私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。 報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。 いいかえれば、「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ」という論旨から成り立っているのである。 趣旨はまことに立派である。しかしそれを実践するとなると、大変難しいことなのである。 早い話が、報徳の教えを立派に遂行するには、まず「我」を滅却しなければならないのだ。 (略) 思えば鈴木藤三郎さんの精神は、その薫陶を受けた私の処世訓ともなっているのである。氏は、新入社員がはいってくると、まず応接間へ連れて行く。そこには50号ほどの油絵が、立派な額に入れてかけてある。堂々たる紳士が、燕尾服の上に坊主の袈裟をかけた、一見奇妙な絵だ。その絵の前で、氏は、 「これはオレが60歳になったときの姿だ。いま51歳だから、もう10年もすると、この姿になり、郷土遠州の地に報徳寺を建てて、報徳教を伝道する。世間には坊主や、牧師、神主の数は多いが、はたして、人のご厄介にならずに世の中を救い、人を助けている人がいるだろうか。人のご厄介になっているものが、人を救うことはできるはずがない。オレは、60歳まで事業をやって、カネをもうけ、人のご厄介にならぬだけの貯えを残したうえで、報徳宗の坊主になり、世の中を救うつもりだ。そのとき、こういう姿になるのだ・・・」 と話すのであった。なみなみならぬ決意である。私は、目の前の絵もさることながら、この話に強く感銘を受けたのである。 私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。私は、金もうけ優先の企業経営は考えたことがない。まず、国家、社会のためになる製品をつくり、株主の利益、社員の生活向上を願うことを第一条件としてきた。それが結局、会社自体の繁栄につながる大きな要素だと信じるからである。 (略) 鈴木鉄工所の勤務は朝7時から午後5時まで。10時間勤務だった。7時にはちゃんと、社長の前にある出勤簿に判を押さなければならない。少しでも遅れると、社長はご機嫌斜め。5時の退社時間カッキリに帰ってしまうようでは、これもダメ。時間前に出社して5時半頃退社するようでなければ、社長はうるさいのである。 (畠山氏は当時小石川に住み、伝通院の始発電車に乗るため、朝4時くらいに家を出て、会社まで3時間ほどかかった。そのうえ当時の小名木川は煤煙がひどく、いっそ会社を辞めようと考えたこともあったという。しかし、月がたつと苦にならなくなった) 鈴木社長の報徳精神が身についてきたからではなかったろうか。 特に私の場合は、技師長としての重責がある。人よりも多く働かねばならない。よほどの事情がない限り、休んだり、遅刻したり、早退したりはしなかった。 就職してちょうど1年目、私の月給は倍の100円になった。当時、100円の月給とりなどそうザラにはいなかった。少なくとも勤続10年くらいの人でなければもらえなかった。それがもらえたのだから、うれしさよりも先に、ビックリしてしまった。 私は社長のあたたかい心にすっかり感動し、ホロリと嬉し涙を流してしまった。 それにしても、就職たった1年で、どうして月給が倍増になったのだろうか。始めはどうしても分からなかった。私自身は、大いにハッスルして仕事をしていたつもりだから、1年たてば、少しは月給が上がるだろう、とは思っていたが、まさか倍増になろうとは考えてもみなかった。私は、すぐ社長にお礼を述べ、ついでに倍額の理由をお尋ねした。実は、社長の厚い情が秘められていたのだった。それには、当時の私の「家庭の事情」を書かねばならない。 親孝行をしようと思った父親は、私が大学卒業の翌年の暮れ、郷里金沢で病死してしまった。涙のかわくいとまもなく、その10日目に、今度は相続者である長兄が急死するという悲運に見舞われた。 長兄と私は年が十も違っていたので、家のことはすべて長兄が面倒をみていた。だが、この悲運を境に、それまで全くのフルーランサーで気楽な身分であった、私はいきなり二重の重荷を背負わなければならなくなった。 私は金沢へ帰り、家を整理して老母を連れ、また、長兄が住んでいた名古屋に立ち寄り、ここも整理して兄嫁と家族を連れて東京へ戻った。 広い世間には、私のような経験をなさった方もいると思うが、こんなとき、早速困るのが生活費だ。口では、家族を安心させるようなことを言っても、本心は、心細くてどうしようもない。何とかしなければと、心はあせるが、アテはない。20代の私に貯えがあるはずもないし、まして売り食いできるような品物もない。すっかり憂鬱になってしまった。 社長は、こうした私の窮状に同情して、月給を上げてくれたのであった。(略)私は深く社長に感謝した。(略) しかし、いくら大人物の鈴木社長でも、意味もなく、月給を上げたりするはずがない。少々自慢をさせていただくなら、私という男が、鈴木社長にとって、手離すことのできない社員だったからだと思う。 それにしても、私が最もおカネが欲しいときに、月給を一挙に倍増してくれるとは、全く敬服のほかはない。この腹の太さ、タイミングの妙、まさに経営者たるもの、大いに見習うべきことではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月27日 18時57分03秒
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