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2021年02月11日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
「瑞 竹 林」
               文:利純英
 今から述べるこの「瑞竹」は、そこら辺の竹林に生えている普通の麻竹とは違ういわれがあった。のちこの麻竹は「瑞竹」と命名されるが、日本統治時代台湾の製糖会社内で麻竹を植えていたのは南投の竹山製糖所だけだった。麻竹は当時屏東製糖会社の工場の中庭で大切に保育され、こんもりと生い茂っていた。麻竹は、日本の東宮皇太子が屏東製糖会社の工場を見学するとき、臨時の休憩所として設備された囲いの柱にこの麻竹を使用した。今から82年前のことだった。神化されたこの麻竹の由来をたどってみることにした。
 1922年日本の宮内省は、当時東宮皇太子であった昭和天皇裕仁の台湾巡視のプロジェクトを練っていた。宮内省は、台湾の製糖所見学をスケジュールの一つとしてもりこんだ。だがどの製糖所にするかは慎重な態度で臨んだ。宮内省は、中部の製糖所を選んだのに対して、台湾総統府と台湾製糖会社は台湾南部の屏東製糖所を選んだ。南部は高温多湿、マラリヤ、デング熱、チブス等、悪疫のもっとも多き地方であった。このことが東宮皇太子の耳に入り「屏東が如何に酷熱の地と雖も、そこには多くの人々が作業に従事、努力しているのであろう。見学するならば、一番暑い、一番南のその工場を是非選定すべし」と、屏東製糖所を選んだ。賀来総務長官が下見検分のために屏東へ派遣された。そして更に上原元帥、西園八郎なども予め検分に屏東へ赴いた。
台湾の4月末と言えばもう気温が高く、工場の中は大変暑く、特に4階にある砂糖を結晶させる結晶室の室温は著しく高く、50℃を超えていた。宮内省は、始め虎尾、蒜頭、阿緱の3ヶ所に白羽の矢をたてた。ところが虎尾、蒜頭は交通が不便ばかりではなく治安にも問題があったので、最後に屏東製糖所が選ばれたと言う説になっている。各製糖会社はそれとは知らず、みな競って歓迎の準備におうわらわだった。当時の台湾製糖会社の総務、営業部長筧干城夫は、のち、台湾製糖会社最後の日本人社長になるが、その時は4番目ポジションの総務、営業部長にいて歓迎の総元締めに任命された。営業部長筧干城夫は、粗相のないように全力投球でこれにあたった。
筧部長は、165cmの小柄、体重が50kg前後で痩せていて、顔は細長く父は岡山県津山藩士の出、東京帝国大学法科のエリートだった。そしてまたスポーツマンでもあった。卒業後まったく畑違いの道を選び、台湾製糖株式会社に入社すべくテストを受けた。テストにはソロバンの技能と簿記の能力が試された。ソロバンは小学校以来さわったことがなかったので苦戦、思いもよらないことになった。試験官からもう一度珠算を身につけてから出直すように言われた。練習に練習をかさね、再びこれにアタックし見事に入社をはたした。
入社後、本社の命を受け筧干城夫は暫く台湾のあらゆる製糖会社を見てまわった。その後、橋仔頭製糖所に派遣された。給与は学校の教員よりも少ない40円だった。その後、農務課の各部所を転々として仕事を覚えて行った。今度は工場の作業員を命ぜられた。これも同様に工場の各部所を転々と廻され仕事を覚えて行った。そして工場長に任命され、やがて台北製糖所長に任命された。その時、筧干城夫は若干27才の若者で、破格の昇進だった。古今を通じて27才で所長のポストに座った例はない。その後、屏東製糖所所長に昇進した。筧干城夫は戦後まで屏東に住んでいた。
1946年その年、アメリカの引き揚げ船を待つため、高雄港の倉庫のコンクリート床でゴロ寝し、苦しい日々を過ごした。屏東製糖所と旗尾製糖所の日本人社員を日本に連れ帰る責任者であったため、心身ともに疲労し、体重は30キロまでに落ち込んだ。広島県大竹港に上陸、予告なしでやっと辿り着いたのが逗子に住んでいる娘の家に突然闖入した。娘はその日、半狂、半幽霊姿の父が玄関に飛び込んできた姿を未だにゾーとする表情で語るのだった。
筧部長に大変信用された一人の台湾人がいた。それは唐栄鉄工所のオーナー唐栄だった。荒れ狂うクーリと呼ばれていた男達を束ね、顎でしごくエビス顔の唐栄を何時も褒め称えていた。長男の唐傳宗は父を後盾に唐栄鉄工所を創設した。正直で一点張りの唐栄は、筧部長に見込まれ、屏東製糖所と東港製糖所の請け負いの仕事を一手に任されていた。
一切のプレゼントを断る筧部長が喜んで唐栄から貰う品があった。年に一度だけ旧正月に赤茶色の台湾餅一片を勝手口に本人自身か長男の唐傳宗が届ける。甜餅は筧部長の大好物であった。唐栄の立派な館は今も屏東川のほとりに立っている。唐栄死去のあと本人の墓には筧部長から送られた石碑が建っていた。
外省人を嫌う唐栄親子の会社は、その後政府の手によって潰された。筧部長の子息は筆者の兄とは屏東小学校のクラスメートで、日本でも有名な建築博士で戦後何度か屏東製糖所を訪れていた。
1923年つまり大正12年4月22日、裕仁皇太子一行が屏東製糖所に姿を現した。その日のために工場の従業員は純白でマッサラなユニフォームが一人一人に配られた。こうべを垂れ、頭を上げて皇太子を直視することは許されなかった。
社内には皇太子の休息に当てるため、臨時に竹と茅、甘蔗の葉などで組み立てた仮便殿を作った。クーラーのなかった時代暑さをしのぐのには格好の良い場所だった。ここで台湾製糖会社社長を初め社員3名だけが謁見を許された。NO4のポストにいた筧干城夫は仮便殿の入口で監視の目を光らせていた。一説では柵内で休息中皇太子の目にとまった竹材から新芽が生えていた。皇太子はこれに近寄り暫く手を触れ眺めていた。屏東製糖所はこれは良き祥瑞の兆と思った。皇太子が去るとこの発芽したばかりの竹を切り取り工場事務所の庭に移植し柵を作り大切に育て「瑞竹」と命名した。やがて竹は生い茂り林となり、何時しか瑞竹林と呼ぶようになった。
筧干城夫は後、次のように語っていた。竹は台湾の中部、台中県竹山鎮竹山村の麻竹林の中から特選した竹材で闇夜にランタンの淡い光を頼りに切り出したのを柱とし、仮休所を急造した。当時、突然宮中に不幸があり、予定のスケジュールが10日ばかり俄かに延期された。やむなく、その竹材を蓆に包み、陽光を避け、倉庫に置き、時々冷水を吹きかけ、竹の美わしき自然の緑を保たせるよう大切に取り扱った。間もなく4月22日行啓と確定、到着の当日には、その節の芽9つは約2-3センチ程にのびてきた。
殿下の一行には、伏見宮博恭王殿下の外、牧野宮内大臣、珍田東宮太夫、西園寺從がいた。筧干城夫と高校時代の親しき寮友、白根宮相秘書官が随伴していた。筧干城夫は白根に、核発芽部分を指示し瑞祥を語った。白根は遠慮もなく殿下の近くにすすみ、その芽を不思議そうに見つめるので竹の由来を説明した。植物学者の殿下は、直ちに竹に近寄り、その芽に手を触れられて、山本社長からもことの一抹をきいた。
その殿下と社長と白根の傍らで、様子を見ていた筧干城夫は、そのご平山専務と共に社内全員の苦心、協力を得て、発芽部分に土を与え根を張らせ、更に地上に下し、完全に活着させたのであった。日程が延期されたこと、日陰にて手厚く注水保護したこと、白根秘書官を介して殿下が手を触れたこと、更に鶴の一声にて実現したことが、目に見えなぬ要因となり瑞竹の誕生をみた。
皇太子の御臨を記念して屏東製糖所は、毎年4月22日にはこの瑞竹林の前でセレモニーを行った。そのご、屏東市民や小中学校の生徒を動員しセレモニーを挙行、そして阿緱神社の神主を招きお払いなどをした。ある高校の教諭がこの日を記念する歌を作詞作曲した。歌詞は次のようになっていたと思う。「時は大正12年、4月の22日こそ、あまつ日御子いでまし、おでまし、目出度し目出度し、お目出度し」 参加した人たちには紙袋に入った白と赤の福饅頭が配られ喜ばれた。特に発育盛りの小中学校生にとっては。瑞竹林のものがたりは初等、中等の教科書に記載され、各種の機会に喧伝され、瑞竹は日本全国にその名が知られるようになった。
昔屏東は高雄よりも発達していた。台湾製糖株式会社は明治42年西暦1909年に阿緱製糖所を建設した。甘蔗処理能力は3千トン、当時は、台湾一ばかりではなくアジア最大の工場であった。その後、瑞竹は台湾神社に匹敵するまでになった。瑞竹は日本の多くの高官が台湾を訪問した際にはわざわざ南下して瑞竹を参拝する。その数、年間万人を超えた。多くの皇族の姿も見えた。特記すべきことは、朝鮮の皇帝李王垠殿下が1935年1月26日瑞竹を参拝した。屏東製糖所に二人の皇帝が足を運んだことは前代未聞になった。
戦後筧干城夫は、蒋介石総統から瑞竹杖が贈呈された。「瑞」は蒋総統の兄弟姉妹6人全員の氏名に冠した瑞-瑞元、瑞春、瑞蓮、瑞妹菊、瑞春、瑞候に縁があった。台湾引き揚げに際し蒋総統は、筧干城夫に対し、名所古跡の一つである瑞竹林の護持を将来に向かって確約した。そのご20年間確約を実行した経緯があった。
屏東製糖所は1945年6月30日アルコール工場と砂糖工場が米軍の空爆で爆破され、2年後に復工、製糖が再開された。筆者は最近製糖所を訪れた。瑞竹林は、すっかり荒れ果て、誰もかえり見ない無惨な姿に変わり、昔の面影などは見当たらなかった。
近年、国民党に変わって民進党が与党になった。台湾製糖公司は社長に呉乃仁を任命した。呉は立て続けに製糖所を閉鎖した。砂糖王国を誇り、多くの人々を養ってきた台湾製糖にピリオドをうち幕がおりた。42ヶ所あった製糖所も今はわずか3-4ヶ所となった。破壊はやすし、建設はむずかし、40 年間製糖人のはしくれとして製糖に従事した筆者はこのことを思うと、胸にじんと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

☆利純英氏から大量に送っていただいた橋仔頭糖廠の大量の写真の中で私を喜ばせた一つは、鈴木藤三郎氏の写真である。

1人の画像のようです
なんと台湾製糖初代社長として、その写真がきちんと残っていて公開されていた。
わたし自身が「報徳記を読む会」で、今市の報徳二宮神社に奉納されている報徳全書が、鈴木藤三郎の寄進だと知って、感銘を受けたほどであるから、現代日本ではほとんど忘れられた人物なのである。
鈴木藤三郎は「報徳社徒」と名乗って二宮本家に伝わった1万巻の日記、手紙、仕法書を3年近い年月をかけ、20人の書生を雇い、2,500冊にして奉納した。
この鈴木藤三郎という人物を顕彰したいと願って「報徳社徒鈴木藤三郎という人」を作成して関係者に配った。
それだけに台湾の橋仔頭製糖所跡に鈴木藤三郎の写真が大事に保管されていることは嬉しく有り難いことである。





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最終更新日  2021年02月11日 11時56分44秒



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