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2021年03月06日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
鈴木藤三郎と藤田組創始者藤田伝三郎との接点はあるのか?
台湾製糖株式会社の株主として同じく500株所有している。
台湾製糖株式会社の株主としての接点はある。
五百株   大阪   藤田伝三郎
五百株   東京   ロベルト ウオルカー アルウヰン
五百株   同    鈴木藤三郎
台湾製糖株式会社の株主として同じく500株所有している。
1897(明治30年)藤田伝三郎、久原庄三郎らと北浜銀行設立、初代頭取は久原庄三郎、二代は渡辺洪基、三代は原敬。実質の経営は岩下清周があたった。
1910(明治43年)日本醤油醸造株式会社、工場焼失により倒産。
1913(大正2年)鈴木藤三郎死去
1914(大正3年)生駒トンネル貫通。ゴシップ新聞が大阪電気軌道・大林組への北浜銀行の融資が不良債権化していると書きたて二回の取り付け騒ぎを起こして、日銀が特別融資して救済に乗り出した。岩下は私財を提供して回復に努力したが、結局辞任し、旧鈴木農場へ隠居した。
岩下清周
1. 生い立ち
岩下清周は 1857(安政 4)年 5 月、信州松代藩士岩下左源太の次男として生まれた。3 歳の時実父を亡くし、叔父章五郎の養子となった。しかし、この養父も岩下が 17 の時に亡くなっている。松代は真田幸村、佐久間象山、勝海舟らを排出した土地柄である。岩下は藩の士官学校の生徒となり、練兵術やフランス語を学んだ。
1874(明治 7)年、18 歳の時上京し、築地英学塾に入学して、英国人宣教師ウィリアムスから英語を学んだ。さらに、1876(明治 9)年東京商法講習所が開設されると、岩下は同所に入学し商業学を学ぶことになった。同講習所の初代所長は矢野二郎であった。『岩下清周傅』によれば、東京商法講習所の看板を発見し、そに他府県人からは東京在籍者より授業料を高く取ると書いてある。それはどのような理由からかと、自ら同所を訪ねたことがきっかけで、矢野二郎の知遇を得たとある。岩下は、矢野の全面的な援助により、商法講習所に入学することになった。翌年、三菱商学校が開校すると、商法講習所の卒業を待たず転校、矢野の下を去った。しかし、三菱商学校を修了後一時母校の英語教師につくなど、三井物産入社まで引き続き矢野の世話を受けていた。
2. 三井物産時代
岩下は 1878(明治 11)年三井物産に入社した。当時の物産は益田孝社長の下、政商的な商売から近代的商社への改革を進めているところであった。海外貿易の発展のため、学卒者の採用と従業員研修制度の充実に力を入れていた。入社後約 1年半の国内勤務を経験した後、岩下は 1880(明治 13)年 6 月ニューヨーク支店勤務となった。同支店は海外荷為替取業務が主たる機能であった。 しかし、同年横浜正金銀行が設立され、荷為替取扱業務が同行に継承されると、ニューヨーク支店の存在意義は低下し、翌年以降は開店休業状態となった。岩下は、1882(明治15)年春突然帰国し、貿易拡張の必要性を本社に説くという行動に出た。重役らの同情は得たものの会社の方針として採用されるところとはならず、岩下が再渡米してまもなく同支店は閉鎖となった。
このあと岩下はパリ支店に移り、1883(明治 16)年春支店長となった。パリ支店の営業状態もニューヨークと同様のものであった。だが、岩下はパリの地で多くの日本人と接触することになった。とりわけ、当時のパリ支店長宅はあたかも日本人クラブのようで、岩下は後に創設される日本人会(会長原敬)の役員になった
りもしていたという。岩下はここで、伊藤博文、山県有朋、西郷従道、品川弥二郎、西園寺公望、桂太郎、寺内正毅、山本権兵衛、斉藤實ら、時の政界の実力者と面識を得た。
普仏戦争におけるフランスの敗因が兵器の不足にあったのを知った岩下は、兵器の自国生産を持論とするようになっていた。1885(明治 18)年春突然帰国した岩下は、陸海軍省に兵器自国生産を進言した。当時の日本の技術力や軍関係の資金力では実現は難しいとしてこの進言は却下された。落胆のうちにパリに戻った岩
下は、シンジケート団による外資の導入などを盛り込んだ計画を策定し、再び帰国して軍当局に進言したが、これも容れられることがなかった。岩下は再度の渡仏を断り、しばらくして、三井物産を退職した。それと同じ年(1888 年)、パリ支店は閉鎖となった。
国も会社も岩下の理想と考える工業化推進策や新しい産業金融政策の支援者とはならなかった。
3. 自営事業と三井銀行時代
 三井物産を辞した岩下は、物産社長の益田孝や矢野二郎の支援を受けて、1889(明治 22)年品川電灯を創立した。益田は電灯事業の将来性を買っていた。遊郭という電灯の有力な需要者も近隣にあった。同社の資本金は 5 万円、益田孝、平林平九郎、鳥山利定らが株主となった。しかし開業後まもなく原因不明の出火、これが経営に大きな打撃となり、同社の経営は断念され東京電灯に合併されることになった。
1890(明治 23)年、桂太郎の実弟桂二郎と杉村二郎が創立した関東石材会社が経営難に陥るなか、岩下は同社の取締役に就任した。岩下は技術面、営業面で相当の工夫と努力をしたが、同社の経営改善は進まなかった。1891(明治 24)年の秋、同社を辞した。
その同じ年、岩下は矢野二郎の勧めで三井銀行に入行した。三井銀行は松方正義の幣制改革の下で多額の不良債権を発生させ、整理が進まぬまま明治 23 年不況によってさらなる経営難に呻吟していた。抜本改革を決意した同行は、井上馨の進言を得て外部から人材を導入し改革を進めることになった。この改革を強力に進める人材として、福沢諭吉の甥で、山陽鉄道の社長をしていた中上川彦次郎を招いた。岩下の入行したのは、中上川の改革が進められている最中で、不良債権の整理や銀行業務の近代化、三井資本の工業化・事業の多角化が目指されていた。中上川はこの改革の推進のため、専門経営者となるべき慶應義塾出身者をはじめとする学卒者を多数採用した。岩下は、その中の一人であった。
中上川の改革が進められるなか、三井改革の一環として大阪支店長の高橋義雄が三井呉服店のてこ入れのため異動することになった。空席となった同ポストには東京本社の岩下清周が就任することになった。1895(明治 28)年のことである。当時は日清戦後の企業勃興期であり、産業界の資金需要旺盛な時期であった。
岩下は積極的な貸し出し方針を採った。すなわち、川崎造船所の松方幸次郎、その取引先の津田勝五郎、藤田組の藤田伝三郎などへ積極的な融資をした。北浜の株式市場、堂島の米穀取引所への金融なども始めた。以上はいずれも大阪支店の
分限をはるかに越えたものであった。岩下の行う証券・商品取引所関係への融資は、工業会社のみが同行の貸出の対象と考えていた中上川の方針に、実質的に違背するものであった。
中上川は、この時三井内部において、益田孝や井上馨らと改革方針を巡って激しく対立していた。そのさなか岩下によって実施された、井上と親しい間柄である藤田自身やその紹介による株式所関係者への破格の融資は、中上川と岩下の対立を決定的なものにしていった。
岩下は大阪支店長から横浜支店長への転任を命じられた。岩下はこれを断って、当時大阪財界の巨頭であった藤田伝三郎の後援で新銀行設立に動くことになった。
4. 北浜銀行の設立と岩下の企業者活動
北浜銀行は 1897(明治 30)年 3 月営業を開始した。頭取には藤田伝三郎の実兄で藤田組役員の久原庄三郎、取締役には平野紡績社長金沢仁兵衛、川崎造船所社長松方幸次郎、西成鉄道監査役鷲尾久太郎らが就き、岩下は常務取締役として出発した。また、監査役には大阪株式取引所(以下「大株」という)監査役の阿部彦太郎(旧米穀問屋)、大株理事坂上真二郎(株式仲買人)、大株理事の磯野小右衛門(大阪米会所初代頭取)ら 3 名が就任した。役員は藤田伝三郎関係の大阪財界人および大株関係者など、いずれも岩下の三井銀行時代の取引先およびその関係者である。北浜銀行は資本金 300 万円、筆頭株主は 1790 株を保有する藤田伝三郎で、1000 株以上保有者 2 名、500 株以上保有者 6 名など 100 株以上保有者 142 名で以上が全 6 万株中の 53%、99 株以下所有者が 1354 人で全体の 47%を占めるという具合で、経営権を左右するような決定的大株主あるいは勢力も存在していなかった。これが岩下の行ったリスク受容度を越えた奔放な融資活動に、
ブレーキがかからなかった組織的要因の一つとなっていく。
1903(明治 36)年 1 月、岩下清周は北浜銀行の頭取に就任した。これ以降、第 2 表に示す多数の企業と、融資活動、企業設立、役員就任などを通じて関係を深めていくわけだが、主な業種は電気鉄道、ガス、電気で、それ以外の製造業は少数である。第 2 表の企業と岩下との関係を『岩下清周傅』により簡単に見ていこう。
西成鉄道とは、北浜銀行第 2 位の株主鷲尾久太郎が、西成鉄道株の思惑買に失敗した折、決済資金を用立てるためにその株を買い取り、以後、岩下が同社の社長として経営に参加したという関係である。
箕面有馬電気鉄道は、阪鶴鉄道の株主を中心として設立計画が持ち上がったが、日露戦後恐慌により半数近くの株式の払込みがなく失権となった。そのため会社の設立が危うくなったところへ、岩下の友人である同社専務小林一三のために北『機関銀行』銀行を設立」を目的とするというもので、藤田伝三郎の存在なしに
はあり得なかったものである。頭取は藤田の実兄、役員の多くが大株関係者という陣容であった。岩下の地位という観点から企業創設活動を見ると、井上・益田らのリーダーシップが存在するケースでは西成鉄道、日本醤油醸造、豊田式織機がある。同僚と同等の地位で関与しているのは大阪瓦斯や広島瓦斯・広島電気軌
道である。また、岩下が相対的に優位な立場にあるものとしては箕面有馬電気軌道、大阪電気軌道、電気信託、日本興業、和泉紡績がある。第 2 表にある関係会社を見るとき、岩下が多くの企業に対して設立当初から関与していることがわかる。岩下と関係する事業会社とは、当初より、株式保有や設立関係者への資金供
与によって強い結びつきを持ち、北浜銀行はそれらの企業への長期固定的な融資や、社債発行への保証などの形でのハイリスクな信用供与を行っていった。
西成鉄道との関係は「①経営難を理由に関与を深め、・・・」のケースである。
西成鉄道は、1893(明治 26)年、大阪府西成郡商人江川常太郎らによって計画された臨港鉄道計画であった。1898(明治 31)年に国鉄大阪駅から大阪湾の安治川口まで、1905(明治 38)年には安治川口から天保山まで路線延長されたが、東海道線と大阪港とを結ぶ小貨物鉄道であった。政府は敷設当初より、軍事的重要性を指摘し、同鉄道の国有化をほのめかしていた。同社監査役に鷲尾久太郎がいた。北浜銀行の取締役、第 2 位株主でもあった。
その鷲尾が、国有化の噂を聞きつけ、親戚や株式仲買人らと諮り、大阪株式所を舞台に同社株の思惑買いに出た。西成鉄道の資本金は 1897(明治 30)年に 55万円の増資をして 165 万円となり、1899 年までに全額払い込みが終わっていた。
同年 11 月開幕の第 14 議会において、私設鉄道国有法案や私設鉄道買収法案が提出されたが成立に至らなかった。国有化期待から、1900(明治 33)年 2 月には70 円まで上昇した西成株も、法案不成立が望み薄となるや忽ち大暴落し、同年中に 33.5 円まで下がった。1899 年 11 月以来株を買い占めていた鷲尾の購入株数は
1 万株を超えた。だが、払込期限までに資金のやり繰りがつかず、北浜銀行に救済を求めてきた。北浜銀行の役員らは鷲尾救済を決め、鷲尾家所有の動産不動産全部を抵当として多額の融資を実施した。その額約 84 万円に上り、1902(明治35)年頃、その貸金の整理のため西成株 1 万 5 千を北浜銀行が保有することにな
った。
もし西成株と鷲尾家の動産不動産が貸金 84 万円の抵当として減価著しいとなれば、この貸付は北浜銀行に多額の不良債権を発生させることになる。減価が取るに足らないものであったとすれば、北浜銀行にとっては、いずれは国有化されるという見通しをもっていた同社株式を大量に保有することは悪い話ではなかったかも知れない。
北浜銀行はその後も西成株を買い増ししており、鷲尾の西成鉄道乗っ取りを阻止したとの評判は、乗っ取りを利用したと修正されるべきとの疑念も浮上する。
北浜銀行は、他の国有化見込みの鉄道株も買い入れており、むしろ同行が鷲尾の持つ西成株の買入れに積極的であった可能性が高い。もしそうだとすれば、株式購入を目的としたリスクの高い資金を融資したうえ、株の仕手戦の末席に陣取るというような、通常銀行がとるとは考えられない異常な行動との見方もできよう。
岩下の第 2 表に見る広範な事業会社への関与を支えた、北浜銀行の資金源泉・経営的基盤はどのようなものであったのだろうか。
北浜銀行の資金の大部分は資本金であるが、その他に借入金も高い比重を占めていた。1909(明治 42)年以降になると、資金的にかなりの窮境にあったものと見られ、定期預金が急増し、「他店より借」の比重が異常に高まっている。これはなりふり構わずに集めた高利資金と、為替尻の大幅な借越を利用して、資金的な逼迫を打開しようとしたものと見られる。資金繰りはかなり困難であったのだ
ろう、1907(明治 40)年には、公称資本金の 1000 万円への増資を決定している。
しかし、払い込みが進まず、大量の失権株を生じ、偽装払い込みを行なわざるを得なくなった。『岩下清周傅』では、このことが北浜銀行の破綻の原因の一つとなったとある。払い込みは第 2 回、第 3 回と行われたが、毎回失権株を生じていた。
資金源泉は逼迫しているにもかかわらず、北浜銀行の貸出金は増加を続けた。
これは、岩下の関係会社への貸付の不良債権化とその累積の指標である。また、同行の貸付金・当座預金貸越の担保品構成は、1906(明治 39)年 6 月期以降、株券の比重が急増し、その他の項目の比重が低下している。とりわけ、国債や不動産の比重の低下が著しい。このような経営難のなかにあっても、北浜銀行は証
券業務、とりわけ公社債の募集・引受・受託業務を継続していた。
5. 北浜銀行の破綻
1914(大正 3)年 3 月、新聞が北浜銀行の内情を暴露した。預金者らは同行に殺到し取り付け騒ぎとなった。地方の銀行は為替尻の回収に急ぎだし、大口預金者の取り付けも始まった。同行は、所有株券や公債類を担保に日本銀行より融通を受けつつ、その場その場を切り抜けて来たが、ついに収拾かなわず破綻した。
経営責任をとって岩下清周は頭取を辞任した。破綻の直接の引き金は才賀電気商会の救済及び大阪電気軌道優先株発行の失敗にあった。
さきに、日本興業と電気信託とは才賀電気商会の救済のために設立された会社だということを述べた。才賀電気商会は、80 社を超える電力・電鉄事業を支配して、電気王といわれた才賀藤吉の経営する企業である。
岩下は福沢桃介とともに電力事業への投資をもくろむインベストメント・トラストのような企業の設立を企画していた。北浜銀行の口座貸越担保中の株券の割合が 7 割を占め、他店借りが 180 万円を超えてピークに達した時期である。北浜自身の資金繰りが非常に厳しい状態にあった。才賀電気商会は明治 43 年恐慌の
あおりを受け、1912(明治 45)年 9 月、1000 万円の負債を抱えて倒産の危機にあった。福沢が電気信託から手を引いたため、岩下は自らが社長となり、専務の速水太郎に大林芳五郎、郷誠之助、志方勢七、山本丈太郎、松方幸次郎らを加えて開業した。業務はもっぱら才賀商会の救済であった。才賀に対する融資の大部
分が株式担保によるもであった。融資実施後も才賀の経営はいっこうに改善することはなかった。それは徐々に電気信託の能力を越えるものとなっていった。
大林芳五郎の判断によれば、事態は、「才賀商会の窮境が導火線となって北銀に波及する」というところまで来ていた。電気信託の仕事を引き継ぐため、1913(大正 2)年、 日本興業が設立された。同社の経営陣は社長が岩下、速水が専務でその他の陣容も電気信託と同様のものであった。同社は、才賀電気商会の営業及び
資産・負債を引き継ぐことになり、「株金は発起人において一時取り替え払い込み」を行い、別途社債を発行することになった。債権者には日本興業の株券か社債を交付して、それに応じない場合担保品を処分することにした。また、大口債務に対しては 2 年間の据え置き後 5 年以内に償還することにした。岩下は、才賀商会の破綻が北浜銀行の破綻へと波及するかも知れないとの予見をもっていた。それゆえ、才賀の経営危機は岩下にとって放置できるものではなく、岩下グループにとっても最重要事項であった。しかし、才賀救済の努力には北浜銀行がさきに破綻にしたことで終止符が打たれた。
北浜銀行破綻時の負債額は、総計 765 万円を超えるものであった。これまで見てきたように、不良債権が累積した原因は、岩下の放漫な貸出政策にあった。
北浜銀行の破綻直前の株主は、第 1 位には 7000 株の藤田組と大林芳五郎、次に 5300 株の谷口房蔵、第 4 位が岩下清周の 4720 株となっている。北浜銀行は取引所の「機関銀行」として設立され、取引所関係の預金取り扱いや決済資金を提供してきた。しかし、それらの役割は少しずつ後退して、破綻直前には、岩下の
関係企業や北浜銀行大株主の経営する事業会社への大口融資が太宗を占め、それらがまた不良債権化し、同行の体力を弱めることとなったのである。
北浜銀行は片岡直輝、永田仁介、土井道夫らの手で整理が付けられ、1914(大正 3)年 12 月営業再開した。整理の過程で、岩下のリスク管理能力の欠如や決算操作や各種粉飾を重ねる乱脈経営などが明らかとなった。
岩下は、大株仲買人らの投機筋と親密な結びつき、北浜銀行を舞台に、彼らの思惑に先導された投融資を重ねた。それらのハイリスク投資が不良債権化しても、損切りができずハイリターンをねらってどこまでも救済にこだわるという、投機家的思想が岩下を支配していたように思われる。そう考えると、北浜銀行が行った大阪電気軌道や箕面有馬電気軌道などへの融資が、この投機的発想から出たものだということになり、岩下の企業家的側面の評価をいっそう難しくしている。
💛鈴木藤三郎と岩下清周とのかかわりは未明の部分が多い。専門的な研究が必要となろうが、今のところそうした作業に従事する研究者が見当たらない





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最終更新日  2021年03月06日 00時51分49秒



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