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2021年05月11日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
●社友鈴木氏の世界一周〔「報徳」第40号p33(明治29年9月発刊)〕
 東京深川小名木川通りなる株式会社日本製糖会社重役鈴木藤三郎氏は遠州周智郡森町の人にして元森町報徳社副社長兼遠江国州立報徳社幹事(1)なりしが(氏の立志等に就ては本誌第四号雑録欄に掲げあり)氏は今回同会社の業務を帯び製糖器械購入及斯業拡張の為め米国を始めとして欧州諸国並に亞細亞あじあ各国製糖業視察として本年七月十四日出帆のパルモラル号に乗船し米国桑港さんふらんしすこへ向け出発されたる(2)が、氏は単独旅行にして米国より英、仏、独、伊、露の各国へ経て印度、支那、朝鮮等諸州の斯業を巡視し上海に出て台湾に到り内地に入り帰京する筈にて其日数は大凡おおよそ百五六十日間を費し本年十二月下旬帰京せらるる予定なり(3)と。且氏が出発前に於て東京会社員は勿論知己親友諸氏は去る六月廿日を以て江東中村楼にて盛大なる送別の宴を開きぬ。又同月十九日氏は墓参を兼ね暇乞いとまごひの為め郷里森町に帰省せしにより、同町有志者及び報徳社員諸氏は同報徳館内に於て送別宴会を催し、参会者三百余名あり。頗る盛宴にてありし(4)と。
(1)明治29年時点で鈴木藤三郎は、元森町報徳社副社長兼遠江国州立報徳社幹事であったことがわかる。いわゆる重任である。「元」とあるのは、前年明治28年12月、森町報徳社は遠江国報徳社から無利息貸付の扱いについて意見を異にして傘下報徳社25社とともに脱退し、「報徳報本社」を名乗っていたからである。明治28年11月18日の同設立協議会では、社長新村里三郎、副社長多米八郎とあり、鈴木藤三郎の名前はない。そこで「元森町報徳社副社長」としたものであろう。この時、祝辞を述べたのは、水野東運、吉岡報徳社吉岡啓二社長、平島報徳社幹事三浦慶明、川野村報徳社副社長宮脇弥惣治とごく限られており、徹底的に遠江国報徳社から無視されていることが分る。
(2) 藤三郎は明治29年(1896)7月14日、横浜から太平洋汽船会社のベルジック号で出発した。第一集p53-74にこの米欧旅行の概要を紹介した。また、鈴木藤三郎の業務日誌といえる「米欧旅行日記」については第3集史料集に登載した。
(3)鈴木藤三郎は、明治29年(1896)7月14日に海外の精製糖業視察と機械購入のため、米国に向けて横浜を出帆し、7月31日にサンフランシスコに着いた。8月29日に米国を去って、9月4日にロンドンに着いた。英国内地の視察を終って、11月8日に大陸に渡り、フランス・ドイツの両国を回って、12月17日に再びロンドンに帰った。それまでの調査によって最も優秀な工場を選抜して、競争入札の方法で精製糖機械の購入した。そして明治30年(1897)2月9日にこの使命を果しロンドンを去り、3月14日シンガポールに到着し、原料糖の産地のジャヴァ島内を視察し、4月23日台湾に寄り、5月8日に帰京するまで、約11か月にわたって地球を完全に一周した。
 したがってイタリア、ロシア、インド、朝鮮は寄っていない。またこの当初の12月下旬帰国予定からすると4ヶ月以上も世界の製糖業視察を行ったことになる。この旅行で鈴木藤三郎は日本糖業界における第一人者として認知されたといってよい。
この視察旅行の知見と最新技術の習得は、後に台湾製糖株式会社の初代社長として製糖工場建設のときも設計図から社長自ら引き、設置する諸器械も決定するというもので、外国人の専門家の助言指導等を受けることなかった。
「台湾製糖株式会社史」においても「工場の設計設備に、最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏だった。氏は我が国における新式糖業のなお渾沌たる時代に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界の最高権威者と称せられた人である。(略)1888年(明治21年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中の一小図版を参考として設計図を作成し、当時のならわしだった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るがごとき策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏その他を用い、実際の仕事を進めたが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」(第1集p94-95)と感嘆している。当時常識だった御雇い外国人による近代産業の受容というのは一線を画しており、日本人だけで独力で発明・工夫改良によって産業を発展させるという日本における産業振興の方法の先駆けとして称揚するに価する。
(4)鈴木藤三郎が長期にわたる単独(通訳なし)の世界旅行をなすにあたり、一旦墓参りのため故郷の森町に帰り、明治28年6月19日、報本社の報徳館で盛大な送別会を開いていたのである。
バラ、自然の画像のようです
💛きのう、仕事の帰り、センターによると追加の「技師鳥居信平著述」数十冊届いていた。
先に400冊送ってもらっていたのが、すべてはけて中国・九州地方の図書館あての本が不足して追加で送ってくれるよう頼んでいた。
 また小田原図書館などのあて先不明で返送のスマートレターが3個センターに届いていた。
 図書館の建て替えなどで旧の住所になければ、現在の郵便局はすぐに返送手続きとなる。
 トラブル防止のためでやむをえないのであろうが、個人あてだと転送先にとどけてくれるのに、あてさきに図書館名が明記されているから転送してくれればと思いながら、図書館の宛先をインターネットで調べて、新しいスマートメールに住所を書いて中身をつめかえて発送する。

 きのう笠木シヅ子さんの買い物ブギ(https://www.youtube.com/watch?v=Q_tHACJ12kw)をユーチューブで見ていたらこんな文句があったなあ。

  わてほんまによう言わんわ

はあ、わてほんまによう言わんわ





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最終更新日  2021年05月11日 06時27分27秒



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