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カテゴリ:鈴木藤三郎
「観音経の話」(澤木興道師)より
(第一講)いったい観音というのはどんなものか。 二宮金次郎は14歳のときに観音経を二度開いて頭にピンと来て、一生の生活をそれで発明した。 だから我々からみると、二宮尊徳の一生は観音さんが二宮尊徳となって働いているということに見える。 それはどういうわけか。 これが世を救うところの観音。 世を救う仏さま、慈悲をもって世を救う菩薩の姿であるからである。 救うということはいったいどういうことか。 餅をついて人に食わすことか、貧乏人に金をやることか。 仏教でいう救うということは「如実に自心を知る」というところから出発する。本当に自分を知らなければならぬ。 二宮金次郎は14歳のときに(観音経)普門品(ふもんぼん)を聞いて悟った。 そこで寺の和尚が「お前は普門品を一遍聞いて悟った。これからどれだけ偉くなるかも知れない。わしの寺を譲るから養子になれ」 と言ったが、二宮金次郎は 「私は坊主になろうと思って悟ったのではありません。私は百姓だ。百姓をしてこの観音経を実行するのだ」と言った。 二宮尊徳が一代をなしたのは決して自分のためではない。人のためである。自分はどうでもよい。 わしも若い時には偉い者になろうと思ってずいぶん勉強した。その時は夜も寝ないで本を読んだものであるが、あの本を読んでビックリした。 学問のために寝食を忘れる者ありといえども、救済のため寝食を忘れる者は珍しいということが書いてある。 二宮尊徳の一生というものは人のためばかりである。 まさしく観音示現の姿である。 わしは二宮観音があってもよいと思う。 村の人夫に草鞋(わらじ)を作ってやったり、桜町の再興をやったり、確かに観音さんである。 (第五講)二宮金次郎と観音経というものには切っても切れぬ深い因縁がある。 二宮翁は子どもの時に早く父親に別れ、母親は病身、兄弟もたくさんある。 それを引き受けて途方に暮れてしまった。食べるものもない。 どうしようかという時代、13であったか、14であったか隣村の外れの観音堂に足を運んだことがある。 すると一人の旅の僧がお経をあげておった。 「ただいまおあげになったお経は何でございますか」と尋ねた。 旅の僧は「これは観音経ぢゃ」 「観音経ーしかし、いつもお寺の和尚さんがよんでおるのと今日のでは違っておりますが、どういうものでしょうか」とまた尋ねた。 「それはいつも聞くのは音読で『爾時無尽意菩薩』(にじむじんにぼさ)と読むからで、今日のは『その時、無尽意菩薩は』と読んだからである ー今日の言葉でいえば国訳でよんだからー お前さんがふだん聞いたのと違うのであろう」と言った。 そこで二宮翁は 「誠にすみませんが、もう一遍お経をあげてもらえますまいか」 といくらか金を包んで、そうしてお上げして。もう一遍お経を聞かせてもらった。 それが二宮翁の人格を転換させた。 金次郎はその足で先祖のお墓にまいって、生きた者にいうかのように何かを物語っておった。その時、金次郎が何を言うたかは誰にもわかっておらぬが、ここに 「いかんがしてこの娑婆(しゃば)世界に遊び、いかんがして衆生のために法を説く。方便(ほうべん)の力そのこといかん」の秘訣があると思う。 すなわち、まさに童男童女(どうなんどうにょ)の身をもって得度すべき者には、すなわち童男童女の身を現じてしかもために法を説く。 まさに百姓の身をもって得度すべき者には、すなわち百姓の身を現じてしかもために法を説く。商人の身をもって得度すべき者には、すなわち商人の身を現じてしかもために法を説く。 こういうような理屈で、二宮翁の小さい時の頭にピシピシと現実の問題として入ったものだろうと思われる。 檀那(だんな)寺の和尚が、お前のように立派に観音経の分かる者はいない。 わしの弟子になってこの寺の後をついでくれ。 ところが金次郎は首をふった。 「私は百姓だから、一生を百姓で通します」 後の偉大な二宮翁の一生を決定したのである。 翁の一生は百姓であって坊主、坊主であって百姓。 「いかんがしてこの娑婆(しゃば)世界に遊び」 すっかり生活がつかまれておるわけである。 💛鈴木藤三郎は二宮尊徳が国訳観音経を聴いて悟ったことから、毎朝どんなに忙しくても国訳観音経を唱えるのを日課としていたという。 五郎 お父さん、観音経(かんのんぎょう)では、どこが一番ありがたいと思おもいますか? 藤三郎 それは観世音菩薩が、仏身(ぶっしん)を以て得度すべき者ものには、即ち仏身を現(げん)じて説法(せっぽう)し、童男(どうなん)童女(どうにょ)を現じて説法するというように、あらゆる相手の要求に広く現じてこれを済度(さいど)する無礙(むげ)自在身(じざいしん)を持っておられる所だな お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月15日 02時19分55秒
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