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2021年05月29日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
3 磐田の報徳運動
 「静岡県報徳社事績」は明治三十九年一月静岡県が静岡県内の報徳社から提出された資料をまとめたもので、明治後半静岡県内報徳運動を知る上で重要な資料である。緒言には
「二宮翁の唱導に係る報徳の教義は広く各地に行われ、その効果の見るべきものは少なくありません。中でも報徳結社の方法によって最も善良の発達を遂げ、翁の理想が大いに行われているのは我が静岡県です」とある。⑴
 遠州への報徳の来歴については「遠州では弘化嘉永の頃、安居院庄七が来て報徳を説きました。浜松の下石田村の神谷与平治が一社を組織しました。弘化四年(一八四七)三月で、本県における報徳結社の最初です。以来、各地に会を設け、報徳の道の実行に勤め衰村を救済し、風俗が正常となるようはかりました。文久三年(一八六三)庄七没後、小田原報徳社員福山滝助が報徳の教えを振興し、結社の数も次第に増加しました。明治四年(一八七一)滝助は報徳遠譲社を組織しました。これより先、周智郡森町の新村里助は安居院庄七の教えを受け、有志を集めて一社を組織しました。これが森町報徳社で報本社の起こった遠因です。明治八年(一八七五)に岡田佐平治等が有志とはかり浜松町に遠江国報徳本社を設置し、遠州地方の報徳社員の集会機関とし、次第に発達しました。その後、報本社は分離し、遠江国報徳社はその支社を監督指導し、こうして今日の盛況を見るにいたりました。以上が静岡県における報徳沿革の大要です。」とある。
 遠江国報徳社は当初本社を浜松町に置き(第一館)、見付町(第二館)と掛川町(第三館)に支部を置いた。⑵ 
 以下「磐田市史」通史編下巻に「磐田の報徳運動」をみてみる。


⑴ 「静岡県報徳社事蹟 緒言
二宮翁の唱導に係る報徳の教義は広く各地に行われ、その効果の見るべきものは少なくありません。なかでも報徳結社の方法によって最も善良の発達を遂げ、翁の理想が大いに行われているのは、我が静岡県です。明治三七年末、本県における公益法人報徳社及びこれと目的を同じくする社団は、本支社を合せて四四二の多きに及んでいます。そしてこれら公益社団は結社以来、善をすすめ産業を興す目的をもって社員を導き助け、その事業の遂行によって、人民の個性の啓発や徳育の刷新、難村の救済もしくは農工商業の改良発達に利益を与えただけでなく、町村の公共事業を振興させたことも少なくありません。そこでその施設事業及び効果の顕著なものを調査し叙述し、もって民心をしてますます共同経営のみちに向わせるとともに、これらの機関が必要なことを知らしめ、将来この報徳の教えがますます普及することを期して本書を公刊するに至りました。本編はつとめて完璧を期し、鋭意調査しましたが、史料に乏しく、加えて事務の余暇に急いで編集したもので、事実をいまだ詳細に調査したものと保証はできません。これらはまさに識者の是正を待って補うところがありましょう。この本を見る人はどうかこのことをご了解ください。
 明治三九年一月 静岡県事務官 丸山熊男」
「遠江地方にあっては弘化嘉永の頃、相州蓑毛村の人、安居院庄七という者が来て、報徳趣法というものを説きました。当時浜松の下石田村の神谷与平治が有志とはかって一社を組織しました。弘化四年(一八四七)三月で、本県における報徳結社の最初です。以来、各地に会を設け、人々を集め、庄七の指導によって専ら報徳の道の実行につとめ衰えた村を救済し、風俗が正常となるようはかってきました。文久三年(一八六三)に庄七が亡くなってから報徳の道が衰退しました。有志の者はこれを憂い、小田原報徳社員福山滝助を招いて、報徳の教えを振興しようとしました。その結果は空しくなく、結社の数も次第に増加しました。明治四年(一八七一)に滝助は報徳遠譲社を組織し、付近の各社の統一を企画しました。これより先、周智郡森町の新村里助は早くから安居院庄七の教えを受けて、有志を集めて一社を組織しました。これが森町報徳社で報本社の起こった遠因です。遠州地方において報徳結社の数が次第に増加してきたので、この総括の必要により、明治八年(一八七五)に岡田佐平治等が有志の者とはかって浜松町に始めて遠江国報徳本社というものを設置して、遠譲社と連絡を通じて、報徳の道を研究し、遠州地方の報徳社員の集会機関となしたことから、次第に発達してきました。その後、報本社はその支社を率いて分離し、遠江国報徳社はその支社を監督指導し、こうして今日の盛況を見るにいたりました。以上が静岡県における報徳沿革の大要です。」
⑵ 「遠江国報徳社 1 所在地 本部を遠江国浜名郡浜松町に置き、同国見付町〔磐田市〕及び掛川町に支部を置く。」(静岡県報徳社事蹟))





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最終更新日  2021年05月29日 17時48分00秒
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