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2021年07月14日
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カーライル「天よ、私を導きたまえ!実に天の冥助がなくば、何事もできない。」
「カーライルが悟ったのは、いわゆるクロムウェルの伝記の十分なものを書くことは絶対に不可能である。可能なのは、クロムウェルの書簡と演説を収集編纂することだけである」
「カーライルは「方針を別にして始め直しました」と母に報告し、オリヴァーの現存している書簡と演説を収集し、その一遍ごとに考証と解説をつけて全体の連絡をもたせた、全く新しい形の伝記が誕生した」
「願わくはこの書が数人の真面目な読者に迎えられんことを。」
実にこの手紙と本人の書いた文章を順序正しく収集編纂するカーライルの方針こそが、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」とそれから派生したエンジニアシリーズの編集方針である。

アフリカンデイジー、アウトドアの画像のようです

☆内村鑑三は言う。
「クロムウェル(原文:コロムウェル)伝に至ては全く然らず。これカーライル氏の「愛の著述」なりという、彼をしてこの書をなさしめし動機は彼の母より受けしものなりという。彼女の深き宗教心と強健なる常識とはこの誤解されし偉人において真正のキリスト教的ヒーローを発見せり。しかして彼の幼時において彼女より注入されしこの思想はこの大著述となりて世に現れしなり。」
大正15年4月15日発行の柳田泉氏著作の「クロムウェル伝」(カーライル全集)があり、
その解題に、このカーライルの母のことについて述べられている。
「神と神のなす業とをこの上もなく畏れたトマス・ カーライルは、絶えて他人を恐れない人であった。
だがその彼にも天下にただ一人の恐ろしい人物があった。
それは無学で誠実な彼の母であったのである。
この母は、トマスは幼い時にしばしば彼に諭してこう言った。
オリヴァー・クロムウェルは世人のいうごとき悪人では決してない。
英国の政治家中、最も偉大な英雄であると。
40年の後、わがトマスが・・・・・・神の人オリヴァの真面目をひらくにいたった機縁の種子は、この時まかれたものといってよろしい。
この母の諭しが、不断に若きカーライルの心のうちに転々して、彼の興味意識をクロムウェルなる人物に向けていたことは、次の事実によって推察される。
すでに1822年、カーライルが、自分はなんらかの題目を借りて著作するよう神の冥命をうけていると感じたときに、
その第一の書はイギリスの内乱時代、共和政治時代のことに関するものでなければならぬと考えて、
この時代に関する文献を手に入るに従って読破したという。」
しかし、このカーライルの試みは苦難の連続であった。
1840年、カーライル44歳の時の日記には、
「資料文献をひもとき、この仕事を続ければ続けるほど、自分の愚劣さが増加するように思われる。
私は今やわれらにとって死物でおおわれた『時(タイム)』の言語に絶する泥沼ーから厳密な意味での歴史など決して作られないというにいたった。」と絶望のうめきをあげた。
カーライルという人は、かんしゃく持ちで文章でも悪口雑言を怒鳴りちらした。回りの人々にとっては、慣れっこになるようになっていたらしいことが、
妻がカーライルの母にあてた手紙に
「このごろカーライルは、新しい本を書くとかで、大きな二つ折り本を貪るように恐ろしくたくさん読んでいます。そのほか、例のようにいろいろなことを怒鳴りつけますが、しかし誰だって彼の人の怒鳴るのには慣れて無頓着になります。でもなかったらとてもやりきれません。」とある。
このころカーライルはまったく行き詰っていた。
「オリヴァ・クロムウェルは私にはうまくいかないかもしれない。この題目について調べはじめてから、もう4ヶ月になる。こうして資料を何ほど集めてもほとんどなにも得ることがない。かといってまだ書き始めるほどの確信がもてない。紙に書いたものは一枚もない。どこから始めていいか分からない。私とこのテーマとにはまだ一枚の膜が破れずにいる。
これを破ってこのテーマに純一に共鳴する心境には入っていない。
だが私にはどうしてもこのテーマを捨てることができない。・・・・・
天よ、私を導きたまえ!実に天の冥助がなくば、何事もできない。」
満1年後の1841年、歎息しつつ意を決してかき始めるが、満足がいかず、その年の12月にはそれまで書いたものをすべて焼き捨ててしまった。
このとき書かれたものは、いわゆる「クロムウェル伝」という伝記であったという。
1842年11月25日の日記には苦悩が綴られている。
「私はオリヴァーに関してはまだ一語も紙の上に書き付けていない。仕事を始めるのは、それを片付けるより恐ろしい。・・・・・
こうした苦闘を経て、カーライルが悟ったのは、いわゆるクロムウェルの伝記の十分なものを書くことは絶対に不可能であること、可能なのは、クロムウェルの書簡と演説を収集編纂することだけであることであった。
これこそが「泡沫と、混沌と、虚偽と、愚鈍の無限の大海のなかにそそり立つ一連の不動の岩山」ではないか。
こうして、「方針を別にして始め直しました」と母に報告し、オリヴァーの現存している書簡と演説を収集し、その一遍ごとに考証と解説をつけて全体の連絡をもたせた、全く新しい形の伝記が誕生したのである。
1845年(49歳)8月26日この故障困難だらけであった6年間を費やした労作が完成をみた。
「私はたった今オリヴァーを終ったところである。hang it!善かれ悪しかれ彼は片付けられた。・・・・」
10月には母のもとで、校正を終え、いわば 母への約束を成就したのであった。
したがってカーライルのクロムウェル伝とは、実は『クロムエルの書簡及び演説』(Oliver Cromwell's Letters And Speeches.)にほかならない。
カーライルは序文で主張する。
「自分がクロムウェルの言を集めて整理してみると、次のことが次第に明らかになったように思われる。
すなわちクロムウェルは清教徒革命の中心人物であって、彼がいなかったならば清教徒革命は世界史に一期を画する大事件にはならなかったであろうということ。
もう一つは世間の人の考えと正反対であるが、クロムウェルは虚偽悪逆の人間ではなくて、真実の人間であり、その言は大いに意味があるということ
この二つのことである。実にその言によって見れば、彼は立派な大人物であるとほか思えない。
 善人か悪人かは別問題としても、とにかくオリバーの人格、その事業の性質は、その書簡・演説によって知ることができる。これらの言によって、彼は自分のうちにあるもの、自分の外にあるものを言い表わそうと努めたのである。それ故その言葉を知るは彼の事件の精神を知る所以である。
願わくはこの書が数人の真面目な読者に迎えられんことを。かの清教徒事件がこの書によって少しなりとも明瞭になれば、後の著述家によってますます明瞭になることであろう。」





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最終更新日  2021年07月14日 07時26分35秒
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